第1話
この世界はぬるま湯だ。思い通りにならないくらいには抵抗があり、かといって地獄と呼ぶほども過酷ではない。温度を感じない程度に退屈で、どことなく惨めで、今日と同じような明日が永遠に続く。いつか僕はどこかで当たり障りなく恋に落ち、特にもめごともなく結婚し、子供ができて、マイホームを買ったり家計のやりくりに苦しんだりしながら老いて、死ぬ。死ぬときに思い浮かべるのは、やっぱりあれだろうか、子供とか、奥さんとか。もし奥さんを思い浮かべるなら、死ぬ瞬間そばにいるリアルな奥さんなのか、それとも出会った時の若い奥さんか。そんなふうだろうか、僕は、九十を過ぎて頭がぼんやりしつつ、人生を振り返って、それで奥さんを思い浮かべるだろうか。違う気がする。僕は自分の人生に、心から満足したり執着したり、できない気がする。ぬるま湯の人生の果てに浮かぶのは、そんな質量のある生っぽいものではなくて、もっとカラカラに乾いたものなんじゃないか。人生にたいしてかかわりもなかった、それまで思い出しもしなかったような、特別な意味がないもの。そうだな、もしかしたら、高校の中庭に咲く大木の桜かもしれない。あの桜の散り際こそが、僕の心を一番揺さぶった。死ぬ直前くらい、心を震えさせたい。ぬるま湯じゃなく、研ぎ澄まされて痛いほどの感覚を思い出したい。それが花なんて、かわいそうな人生。いや、花でいい。桜はただの花じゃない、思想であり、象徴なんだ。毎年繰り返し心を動かす蓄積にかなうものなんてないだろう。とにかく桜は誰もが認める特別な花……、いや待てよ、散らずに舞う花があったんじゃないか? 螺旋を描いて舞う花が。僕はその花をなにより愛していた……。
「訪日中のハルバレル十五世は、昨日首相との会談後、A公園の桜を楽しまれました。歓迎する都民と触れ合う機会をもたれ──」
テレビでは、かの有名な転生法王が桜の下で微笑んでいた。これも見事な桜だ。小さな女の子が駆け寄って花束を渡す。かつて、転生は寝物語だと鼻で笑われた時代もあったらしい。その頃に比べれば、転生思想は市民権を得たといってもいい。その象徴がこの人だ。十五世という名は、十五回目の生を意味する。法王はつまるところ十四回、生まれ変わり続けているのだ。人々が転生に興味を持ち始めるようになってから、法王は快く記憶実験に参加した。多くの学者が百年以上に渡り実験と研究を繰り返した結果、少なくとも三代前から、法王は同一人物であると立証された。もちろん、それに対する異議も唱えられているけれど。
「マジで? 何チャン? 待って待って」
いきなり姉がスマホで会話しながら部屋から飛び出してきた。テーブルのリモコンをつかんで振り返る。僕のマグカップにリモコンの端が当たり、ひやりとした。
「やっば! めっちゃかっこいい!」
勝手に変えられたチャンネルには背の高い、黒い服を来た男が出ていた。隣の女子アナウンサーとの身長差が痛々しく見えた。続いて曲がかかる。やたらとエフェクトの効いた派手な曲だ。サビにかかると、彼の声にぞわぞわした。特殊な声だ。猫の舌になめられたようなざらつきがある。これも加工なんだろうか。さっきアナウンサーがネットでバズったと言ってた。この声が人気なのかな。
「シロウ、超キテるじゃん! スターじゃん!」
よくわからないが姉の好きな芸能人なんだろう。おとなっぽいが、もしかしたらまだ十代かもしれない。正直、ひとの年齢なんてわからない。切れ長の眼。シロウ、なんて古風な名前だ。僕は目玉焼きに箸をつけた。黄身がとろりと流れ出す。流れた黄身は食べにくいのでもっとよく焼いてほしいのだけれど、母に注文するのは諦めている。
「なんか運命感じるんだけど! 前世で恋人だったかも!」
姉は甲高い声で笑った。キッチンから母が「早く食べちゃいなさい」と言ったが、全然聞こえていないのか、さっさと部屋に戻っていった。そういえばスカートを履いていなかった。
前世で恋人だった、なんて。僕はちょっとため息をつく。
「前世前世って、いったいいつの間にそんなのが通用するようになったの?」
誰に言うでもなく、母は愚痴る。特に年配の人は、転生を馬鹿にしている気がする。僕は転生はあるんじゃないかって思ってる。映画でもドラマでも、それを題材にしているものは多い。良作もある。ドキュメンタリーでは、「輪廻の少年」は涙がとまらなかった。それに最近はテレビでも「転生さんいらっしゃい」なんて番組が始まった。あそこに出てくるひと全員うそつきってことはないだろう。それに法王は、ちゃんと大学が研究して転生のお墨付きを出したんだ。転生する人間が世界にひとりなんてのもおかしい。おそらく前世は存在するけど、誰もかれもに前世があるわけじゃない。転生できるのは選ばれた人だけ。僕らにはまったく関係ない話。熱くも冷たくもないぬるま湯の中で生きる人間は、生きて、ただ死ぬだけなんだ。
教室に着くなり、待ち構えていた純也がスマホを手に走ってきた。
「えいちゃーん! このアプリで彼女できるぞー!」
純也が笑うとつられて笑ってしまう。どうせろくでもないことだとわかっているのに、僕は純也のスマホを覗き込んだ。
「じゃじゃーん、前世マッチングアプリ! つまり、前世の恋人が探せるわけ!」
やっぱりろくでもなかった。普通科の純也が特進科になんの抵抗もなく入り込んでくることに、周囲もすっかり慣れてしまい、誰も関心を見せない。本来ならよその教室には入ってはいけないことになっていて、だいたい責任感の強い生徒が注意しにくるものなのだけれど、そうならないのは、純也だからだ。僕は一時間目の教科書を出しながら聞いた。
「純也は前世の記憶あるんだ?」
「ない。ないけど、アプリが探してくれるわけだよ」
「あのねえ、全員に前世があるわけじゃないんだよ。あれは法王とか、特別なひとだけ」
純也はどこにいても自然とみんなの中心になる。特別に頭がいいわけでも、運動や芸術にとびぬけて秀でているわけでもない(失礼)。なのに愛される不思議な人間だ。僕らは中学が同じだった。中学時代も同じクラスになったことはなく、特別親しくはなかったけれど、コースは違えど同じ高校に進んだ親近感からなのか、突然話しかけてこられ、そのまま押しかけ女房のごとく、いつも隣にいる存在になった。入学早々のみならず、二年になった今でもだ。友達の多い純也ならわざわざ他クラスの僕にちょっかいをかける必要なんてないはずなのに、もしかしたら、あまり社交的でない僕を心配してくれているのかもしれない。
「えいちゃん、んな夢がないことでどーすんだ」
「どうもしないよ。社会に踊らされてる純也のほうがどうするんだよ。前世は僕ら一般市民には関係のないこと、肝に銘じておくように」
突然、隣の席の加瀬くんが口を挟んできた。
「そうでもない。誰にでも起き得るよ」
特進クラスの生徒は朝早く登校する。自主的に朝学習を行うからだ。そんな貴重な時間に、いつも物静かな加瀬くんが話しかけてくれるとは。同じクラスでありながら加瀬くんとは挨拶くらいしか話さない。こんな機会があるなんて嬉しくて、前世には興味がなかったけれど、僕は椅子に座りながら身を乗り出した。
「本当に?」
「アメリカのT大学で三十五年研究を続けたディール博士は、教え子が二人、転生して再び教室に戻ってきたと発表してる。どちらも若くして不遇の死を遂げた。昔の知人を探すために博士を頼ってきたんだ」
うさんくさすぎて身を引いた僕とは逆に、純也は僕の机の上でお尻ジャンプしだした。簡易的な学校の机が激しく揺れる。
「まじで! すごいじゃん! 映画みてえ! なあえいちゃん!」
「いやいやいや、確かにすごいけど、僕ら一般人は転生したからどうだっていう話だよ。基本的に転生っていうのはハルバレル法王みたいな、ああいうのに意味があるわけでね」
「ハルバレル十五世、今来日してるね」
加瀬くんがこんなににこやかに話すのは初めて見る。いつもひとりでじっと本を読んでいて、僕のようなモブ生徒には話しかけにくい存在。陰キャとかいじめられっこというのとは違い、ひとりでも寂しそうには見えず、近寄りがたいオーラがある。勉強は特進のトップ。分厚い眼鏡が特に、ただ者ではない雰囲気を醸し出している。加瀬くんがこんなに気さくに話してくれるなんて、すごく嬉しい。
「彼らの国では転生のための儀式があり、その数は百を超える。幼少期からの補助的な儀式も含めると千以上。そのうちのどれが転生の決定打になるのかは、まだわかってない。儀式を経ない転生者がいるということは、本当に重要な条件は数個以内のはずだ。無儀式転生者は十代から二十代で転生を自覚し、自発的に前世の関係者を探し出そうとするのに対し、ハルバレル法皇はかつての側近と預言者に幼少期に探し出される。亡くなってきっかり三年後にね。日本語では預言者というけれど現地の言語を直訳すると神憑き、になる。つまり天からの宣託を受けながら転生者を探し出すんだ。ということは輪廻転生を司る神の存在がにわかに浮き彫りになってくるわけで」
こんなに加瀬くんが語りだすとは思っていなくて、半ば圧倒されていたら、いきなり純也が声を上げた。
「あ! 俺知ってる! 加瀬くんさ、それだろ、その神憑きだろ。加瀬くんと同小の奴から聞いたことある。加瀬くんがみんなの前世教えてくれたって」
活き活きとしていた加瀬くんの表情がさっと曇った。純也を黙らせなきゃ、ラリアットしてでも、ととっさに思ったけれど腕は出なかった。
「恥ずかしいな、それ言わないで、黒歴史だ」
「あー黒歴史ね、あるある! えいちゃんなんか、中学の時のあだ名、公家だよ」
なんの脈絡もない暴露に顔が真っ赤になった。なんで僕の話になるんだ! 純也の黒歴史を思い浮かべようとしたけど、焦るばかりでちっとも出てこない。というか純也の歴史は輝いていてちっても黒くないんだ。騎馬戦では最後まで残るし、音楽祭では指揮者をするし、寄せ書きはカラフルで空きがないくらいぎっしりなんだ。
「津久くん、公家かあ、わかるな。所作がいつも綺麗だ」
加瀬くんが頑張ってフォローしてくれたけど、気の利いた返事ができなくて、僕は純也を睨みつけた。所作なんて関係ない。あだ名は、この細い眼とのっぺりした顔のせいだ。
「ちなみに俺は小学校の時、サル!」
明るく純也が笑ったので、怒ることもできず、僕は恥ずかしさを持て余しながら黙った。公家、ほんとに根強く三年間呼ばれ続けた。僕以外にものっぺりした顔立ちの生徒はいくらかいたのに、どうして定着したんだろう。
「なあなあ、俺は? 俺前世ある?」
「いやもう見えないんだよ、小さい頃だけ」
加瀬くんは顔を前髪に隠すようにしながら体の向きを変えてしまった。いたたまれなくなって、加瀬君よりずっと長い自分の前髪を引っ張った。
「純也、もうやめなよ」
「だけど前世が見えるなんて奴、普通いねーよ? こんなチャンス逃せますかねえ?」
「前世にえらく食いつくね。ほんとは前世の記憶があるんじゃない?」
前世を気にするのはどちらかというと女子だ。漫画や映画も、前世を扱ったものはたくさんあるけど、どれも恋愛絡みで女性向け。男子の中ででそれを話題にすると、ロマンチストだ夢見がちだとからかわれることが多い。しかし純也はあっけらかんとしている。
「俺もそう思うんだ。ある日突然記憶がパッと出てきたりしないかな」
「なんだよそれ」
「だってさ。もし誰かが俺のこと探してたら、かわいそうじゃん。なんとかして思い出さなきゃだろ。逆に、いろいろ試して前世がないってはっきりすれば、待たせてるひとがいないってわかって安心なんだからさ」
加瀬くんがそっと純也を振り返った。好意的な表情が浮かんでる。そうなんだ、純也はこういう奴なんだよ加瀬くん。がさつだし無神経だし能天気なのに、底なしに優しくて、その温度のある優しさが心にふれるんだ。
「純也、アプリも、そういう理由で使いたいの?」
「前世の彼女と逢えたら一番いいけど、誰も見つからなかったら、安心する。転生って、心残りがあるからするんだろ? それなのにひとりにさせとくのは酷いからな」
加瀬くんは分厚い眼鏡をクイクイと押し上げ、もう一度こちらに向いた。
「さっき話したディール博士の教え子は、ふたりとも恋人を探してたんだ。転生している筈の恋人が見つからなくて、博士を頼った」
「やっぱそう簡単には見つからねーよな」
なにも知らない純也が物知り顔で頷く。
「ひとりはディール博士に、見つかったと数年後報告に来た」
「うわ! めっちゃ胸アツ!」
また純也が尻ジャンプを始める。頼むからやめてくれ。
「残念ながらディール博士はその時がんの末期で寝たきりの状態で、詳しいレポートがあげられることはなかった。ただそのカップルは、前世で死に別れた時、次に会う場所を決めていたそうだ。博士の教え子はその土地を買い、家を建て、記憶が蘇って訪れた彼女と再会した」
映画のようなワンシーンが目に浮かぶ。渓谷に建つ小さな家(なんで渓谷かという以前に僕の知る渓谷は多分アルプスの映像だ。アメリカの話だっていうのに)、勇気を振り絞って呼び鈴を鳴らす女性(きっと冬で分厚いセーターと毛糸の帽子を身に着けている)、ドアから出てくる男性(その向こうには暖炉でパチパチ薪が燃えてる)、見つめ合うふたり(そこにエンディングソングが重なる)。
「うわー……」
「かっけー」
「当時は、転生はただのフィクションだった。嘘かもしれないのに一縷の望みにしがみつくほどの強い気持ちがないと転生はできないのかも」
それが、愛っていうことなのかな。映画で必ず描かれるやつ。本筋に関係ないのに入れてきて、観客の評価を上げようとする作為的なもの。怪物映画にまで持ち込まれて「いやもう愛はいいよ、観たいのはそこじゃない、二時間しかないんだからもっと主題に迫ってよ」と言いたくなる。僕が全然知らない感情。まあ、恋愛映画なら、それにフォーカスしてもいいけど。要は棲み分けだ。恋愛映画なら、フライド・グリーン・トマトだな。あれは最高の恋愛映画だよ、誰がなんと言っても。
「その人らはさ、死んですぐ転生したんだな。なんとかって王様は三年だっけ」
王様じゃないけど。法王だけど。
「転生って三年以内って決まってんの?」
知るわけないじゃん、と言いたかったけれど、加瀬くんは神妙に受け答える。
「それは、ケースバイケース。おそらくハルバレル法王の場合は、儀式で転生するタイミングを調整してるんだと思う。一般人はどうなのか。報告では数百年後に転生するケースもある」
加瀬くん、なんでも知ってる。すごい。前髪の隙間から覗くと、加瀬くんが足を組み変えるのが見えた。背はそんなに高くないけど足は長い。肌はつるつるだし、前髪の分け目から見える額はやたらかわいらしい丸みだし、もしかして加瀬くん、眼鏡をはずしたらものすごいイケメンなんじゃないだろうか。鼻筋は通ってて、唇も少しふっくらしてて、つやつやだ。頭がよくてスタイルがよくてイケメン。ますます、こんなに気軽にしゃべってはいけない気がしてくる。
「ふたりとも転生しても何十年かズレてたら、会えないじゃんか」
前世の記憶もないというのに、切羽詰まった声で純也が言う。謎だ。どうして記憶さえないのに、転生なんて珍しい現象を自分事にとらえられるのか理解できない。
「それが」
加瀬くんは、ぐっと身を乗り出した。純也も、僕の机に座ったまま、ぐぐぐっと身を乗り出す。机が倒れないよう、僕は端に手をかけて力を込めた。
「必ず同じタイミングに転生するんだ。もちろん、通常範囲内の年齢差が生じることはある。幼児と老人での再会は一度も報告に上がってない」
「へー、うまいことできてるなあ。あ、けどさじゃあさ、王様はお妃さまと、転生して出逢ってんの?」
考えたこともなかった。法王は……妻なんていたっけ。
「ハルバレル法王は独身だよ。常に。けど谷くんの着眼点はすごくいい。ハルバレル法王は恋愛を基にした転生をしていないっていうのが定説。つまり儀式によって転生してるってこと。別に恋愛がらみじゃなくても、転生はできる。あの国は内紛と周辺国からの干渉で過酷な歴史を積み重ねてきてるから、心残りには事欠かないだろう。ただ、研究者によっては、転生を約束した恋人がいるのに、再会を果たさないよう周囲が画策しているんじゃないかと言うひともいるんだ。それが本当なら、ものすごく残酷だ、恋人に逢うために十四回も転生してるのに、阻まれてしまうなんて」
物語に引き込まれ、僕も身を乗り出して加瀬くんの話を聞いていると、急に視線を感じ顔を上げた。目の前にあらわれた学生服から顔まで視線をあげていく。天井を見るほど高く角度がついたので、首が小さく「グキ」といった。
「津久、爪」
びっくりしたのもあって、一瞬言葉が出なかった。彼の登場はいつも突然だ。
「あ岸川くんだ」
あはは、と笑いながら純也が言った。なぜかほっとして、僕も声が出た。
「あー、爪? えっと」
「昼休み」
「あ、うん。えっと、だけどさ、その」
「なに」
岸川くんはぶつ切りに喋る。威圧感がハンパない。表情が乏しいせいでもあるし、単純に大きな体躯のせいでもある。
「やっぱりマネージャとかに頼むほうが良くない? 僕そんな器用じゃないし」
「いい」
いい、とはなにがいいのだろう。マネージャのことなのか、僕が器用じゃないことなのか。
「昼休み」
「あ、うん。じゃあ……五時間目の十分前くらい?」
「十五分」
それだけ言って岸川くんは出ていった。知らず肺にため込んでいた空気が抜ける。
「相変わらずでかいね岸川くん、190?」
「191になったって」
岸川くんが教室から出ていくと、女子がきゃーっと声を上げた。すごい人気だね、と小さく加瀬くんが言った。そう、すごい人気なのだ。甲子園常連校であるうちの野球部の、期待のエース。スポーツ選手が高校時代からの彼女と結婚するケースもあるんだから、結構本気で岸川くんを狙っている女子は多い、と勝手に邪推してる。
「津久くん、爪ってなに?」
少し眉をひそめ、深刻そうに加瀬くんが聞いた。
「岸川くんの爪、えいちゃんが塗ってんだよ。投手って爪を怪我しないように手入れしなきゃいけなくて、保湿したりマニキュア塗ったりするんだって。な」
純也が答えてくれてほっとした。僕は頷く。
「え? 津久くんって野球部だった?」
「違うのにさ。一年からずっとえいちゃんがやってんの」
「どうして?」
それは僕が聞きたい。岸川くんとは去年習字のクラスが同じで、僕が岸川くんの教室に移動していた。そこで彼が爪の手入れをしているのを見た。大きな手で小さな瓶を扱っているのが、なにか目を引くというか、心惹かれる景色に見えて、ピッチャーって爪の手入れもするんだね、と一言、話しかけるでもなく独り言のように言った。岸川くんは顔をあげ、僕をじっと見て、瓶を僕に渡そうとした。見せてくれるのだと思い手に取ると、「塗って」と言われた。
そこでどうして塗ってしまったのかは自分でもわからない。ただ、岸川くんがすごい選手だというのは入学してすぐから知れ渡っていたし、いわば学校の宝のような存在だから、奉仕しなければという気持ちがあったのかもしれない。マニキュアというものに興味があったのかもしれない。習字の筆を扱うように刷毛を動かすことに好奇心があったのかもしれない。とにかく僕は彼の爪を塗り、以降時々こうして呼び出される。
「野球部って寮生活で朝から晩まで同じメンバーじゃん。たまには野球を知らない人間と話したいんじゃね?」
純也の屈託のない笑顔を見てると、心が和む。そうだよね。岸川くんにとって空気のような僕の存在が癒しになってるのかもしれない。彼の右手の親指を塗る時、支える僕の左手が包み込まれて、ただ手を握るというよりは、もっとなにか違う意味のある接触のようで背筋が寒くなるのだけど、そういうこと考えるのは、よそう。
「岸川くんなんかはさ、前世もきっとスーパー野球選手だろな」
岸川くんとは、ほとんど会話をしない。爪にオイルを塗って爪の生え際をマッサージし、乾かしてマニキュアを塗る間、僕らは黙っている。その沈黙を苦痛に思ったことはない。話しかけても、岸川くんとは会話が続かないから、諦めている。いつもぶつ切りにされるのだ、なんの容赦もなく。
「嫌なら、断るほうがいいよ」
加瀬くんが真剣な声で言った。屈折率の高いレンズの向こう、瞳がとても薄い茶色に見えた。これが鳶色だろうか。透明感があって、それこそ神憑きと言われても納得できてしまう神秘的な瞳。
「嫌とかじゃないよ、僕なんかでいいのかなって思うだけで」
あわてて弁明すると、加瀬くんはじっと考え込んだ。僕なんかのことでそんなに考えさせてしまって、申し訳なくて居心地が悪くなる。前髪を引っ張る。
「岸川くんは、ただえいちゃんが好きなんだよ。そういうのって、理屈じゃねーじゃん。あ、ほら、前世で親友だったのかもよ」
親友なら、純也のほうがぴったりくる。純也を押しかけ女房みたいに言ったけれど、押しかけてくれたことに感謝している。純也はそそっかしくて見ていてハラハラするのに、そこにいて笑っているだけで、みんなを笑顔にできる。太陽みたいな存在だ。一緒にいると、自分の中のじめじめした考えを吹き飛ばしてくれる。
「岸川くんには、あまり近づかないほうがいい」
小さいのに重みのある響きだった。突然加瀬くんが放ったその言葉は、楔のように僕に突き刺さった。岸川くんとは住む世界が違う、その事実を突きつけられた気がした。まるで巫女の託宣のように、加瀬くんの言葉には抗えない響きがあった。
小さな男の子が泣いている。
「にいさまぁ」
小さな手をいっぱいに広げて僕に飛びついてくる。なんてやわらかなんだろう。全身で僕に愛情を注いでくれる。僕を信頼し、許容し、疑いもなく愛し、感情をまるごとぶつけてくれる。大丈夫、と僕は彼の匂いを吸い込みながら言う。この世の中で一番素敵な匂い。慰めながら、彼の役に立とうとしながら、僕は卑怯にもこっそりと悦びを噛みしめている。
「ちゃあんと帰ってきましたよ? 学校にいってもね、必ずこうして帰ってくるからね」
朝僕が出立する時も、この子はこうして泣いたのだった。この世で味方は僕ただひとりと言わんばかりだ。僕がいなくなったら自分は危険にさらされ、下手をすれば死んでしまうのだというほどの嘆きぶり。だからこそ僕は、早くこの子を安心させてあげたくて、学校からここまでずっと走って帰ってきたのだ。
「いやだいやだ、もうがっこう、いかないで」
愛おしい。僕の胸ははちきれんばかりだ。必ず守ろう。どんなことがあっても、この子を絶対に悲しませない。望みはすべてかなえてあげるんだ。僕はこの子のために存在する。この子でよかった。本当に、この子になら、僕は命だって捧げられる。
「まさみちだって、あと二年で学校ですよ」
「いやあ、いやあ。にいさまとずっといる」
まさみち。なんて素晴らしい名前だろう。この家を継ぐのに相応しい。正路、きっときっと正しい路をゆくんだ。そして素晴らしい人間になる。
「大丈夫、まさみち、私はずっと一緒ですよ」
無償の愛というものが存在するなら、正路は、僕にとってまさしくそんな存在だった。無償の愛を惜しみなく与えられる相手、そして、なんの見返りも求めず一心に僕を愛してくれるひと。
「あれ……?」
目頭がむずがゆくて手をやると、涙がたまっていた。泣いてる? なぜ? 悲しい夢を見たのか?
窓の外にはうっすらと夕焼けが始まっている。金属バットがボールを打つ甲高い音が響く。ピロティと呼ばれるホールに僕はいる。単語帳を読んでいて、眠ってしまったみたいだ。足元に落ちている超英単語ターゲットを拾う。試験前は岸川くんに勉強を教えなければいけないから、普段から自分の勉強を進めなけれないけないというのに、ふう、寝てしまうなんて僕はだめだなあ。
「あ、起きてる」
加瀬くんだった。少し色づいた光の中、細身の加瀬くんはいつもより華奢で、片足に重心をかけた立ち方がどこか艶めかしかった。綺麗なひとだな、とやっぱり思う。オーラがあるというか、集団にいても、加瀬くんは目立つ。特にこうしてひとけのない学校の廊下に立つ姿は、青春映画のワンシーンにしか見えない。
「さっき通った時に寝てたから、気になってたんだ」
「ありがとう。加瀬くんは部活?」
「うん、郷土研究部」
「へえ、そうなんだ。面白いんだってね。地味な部活かと思ってたら、フィールドワークがたくさんあるんだって聞いたよ」
「星をみたり山に登ったり、なんの部かわからなくなってきた。みんな好きなことをしてる。興味あるイベントがあれば参加してみたら? 部外者歓迎だから」
古そうな大きな本を手に、加瀬くんは僕の隣に座った。少し驚いた。少し言葉を交わしたら、加瀬くんは立ち去ると思っていた。
「誰かを待ってる?」
開けた窓から風が吹いた。加瀬くんの前髪が揺れる。つるりとした額があらわれる。にきびとは無縁そうな肌。
「岸川くんを。今日は夕方で一回休憩入って、そのあと自主練なんだって。休憩中にランニングするから、僕と一緒に学校出るって」
説明しながら、ものすごくおかしな話だと思えてきた。自分でも薄々おかしいとは思っていたけれど、言葉にすると異常にさえ思えてくる。
「なんか僕の家がちょうどいい距離なんだって、うち、川沿いだから、そこからランニングするみたいでね、神社も近いし階段の上り下りとか、ねえ、いや、僕もなんで一緒に帰るのかよくわからないんだけど、なんか、なりゆきで……」
月に1、2回ある自主練の日は、必ず一緒に帰ることになっている。なぜかはわからない。岸川くんがそう言うと、そうなってしまう。一緒に帰ったって、なにかあるわけじゃない。会話だってもちろんない。一緒に歩くだけだ。自分で自分が情けなくなってくる。僕だって思う、なぜ断らないのかと。なんだろうか、加瀬くん、少し怒ってる気がする。加瀬くんが怒るわけがないのに、怖くてそっちを見れない。とりあえず前髪を引っ張る。
「郷土研究をしてるとね、転生と思われる記録にもよく出くわすんだ」
話題が変わったことにほっとして、僕は興味を持ったことを示そうと何度も頷いた。
「私は、他のひとよりも転生について詳しいと思う。独自の研究もしてるから」
「え、すごい。加瀬くんはほんとにすごいね」
「実は、ほとんどの人間が転生してるんじゃないかと思ってる」
「えっ」
「ただ、記憶が戻るかどうかの違い。それに大きく関わるのが、パートナーがいるかどうか」
加瀬くんは膝の上で本を開いた。
「君の家の近くの川は品地川かな、この川は昔違う形をしていた。百年前のある日、大雨で氾濫して親子が流された。母親は子供をつかんで、周りの人が用意していた縄にひっかかったが、衝撃で子供の手を放してしまう。母親は躊躇なく縄をくぐり、子供を追う。最終的にふたりは見つからなかった。氾濫を防ぐため護岸工事が行われ、川は今の形になった。十五年前大雨で水量が増えたこの川で、ひとりの女性が少年を救った。女性は泣き崩れ、今度は救えた、と言ったんだ。そのことが報道されると、転生ではないかと研究者が殺到した。でも女性はなにも覚えていなかった。少年を救ったことさえ。親子の愛は無償だ。生きていてくれさえすれば、なにも必要ない。だから記憶が飛んだんじゃないかと思う。ただ恋人や夫婦の場合、そこに束縛や見返りが入り込む。私は、これこそが記憶回復の正体じゃないかと考えてる。親子や家族、親友。その関係性であれば、相手が幸せならそれで満足する。たとえ逢えなくても、きっと幸せに過ごしているだろうと思う。だから記憶が蘇らない。でも強い執着心を伴う恋愛になると、まず相手に逢いたくて想いが募る。相手の人生に関わり、自分の存在を示し、そして愛されたいと願い、相手への干渉が始まる。強い動機によって、よりクリアに前世の記憶が呼び戻されることになる」
本に載った新聞の切り抜き画像を見ながら頷き続けた。とても面白い講義だ。恋愛関係だけが相手に干渉する理由になるから、前世にまつわる映画に恋愛ものが多いんだろうか。
「あれ、でも待って。強い執着なら、恋愛に限らないよね。たとえば、復讐とか」
「そう。津久くんは頭がいい。復讐だってもちろん、動機になるはずだ。でも復讐を仲立ちとした転生が存在するなら、もっと耳目にふれる。殺人事件がいくつも起きるだろうから。だから転生には感情だけではなく、いくつか条件が必要と私は考えてる。その条件を以てして、再会が可能なんじゃないだろうか。ふたり、もしくは複数人の可能性もあるが、それぞれが転生での再会を望むことがひとつ。それと」
加瀬くんはちらりと僕を見た。
「たとえばだけど、お互いの体に傷をつけるとか」
「傷?」
「昔の小説なんかで読んだことない? お互いに指を切って、傷口をすり合わせるような。あるいはおそろいのタトゥー。みんな転生の条件を知らないんだ、きっと偶然起こりうる現象だ。恋愛関係にあると自然発生するようなことのはず。最も容易に推測できるのは、破瓜、だけど」
ハカ? 質問を口にするより早く、加瀬くんは続けた。
「それより気になってるのは、主従関係なんだ」
「主従……?」
「ふたりが同意して誓い合うケースもあるだろうけど、おそらく多くの場合で、片方が主導権を握り、片方が追従する形になってると思う。より想いが強いほうが転生をコントロールしてる。転生のタイミングは魂の修復期間によって決まると言われてるんだ。だから数年といった短いひともいれば何百年とかかるひともいる。それを無理矢理、主の都合に合わせて行うから、従は短命になりやすい。人間関係においてもそうだ。主は従を従わせることができる。僕はアジュアって呼んでる。あっちは頼んでいるつもりでも、従には絶対服従の命令になる。とても対等な関係じゃない」
急に、鼓動が聞こえた。胸のあたりが痛い。不穏だと思った。ものすごくまずい状態だ。なにもわからないのに、なにかが怖い。この話、聞きたくない。呼吸が乱れるのを必死で押し隠す。加瀬くんに動揺を知られたくない。雰囲気を変えなければ。
「ほ、ほんとに加瀬くんはよく知ってるね。加瀬くんは将来前世の研究者になりたいの?」
明るく笑ったつもりだけれど、うまくいかなかった。
「いいや。前世の研究者は前世の記憶を取り戻すメソッドばかり研究してる。それでなければ研究費が出ないから。私は前世ビジネスには反対なんだ」
「反対って、アンチ転生? 渋谷でデモしてるひとたちの?」
「それは前世論が陰謀だっていうやつだよね。月に人類は到達していないっていうのと同じ類い。私は転生そのものは信じてる。けれど、前世を呼び戻すことは反対だ。私たちは生まれ変わったんだ。新しい人生を生きるべきじゃないか。前世にしばられるなんて、まるで奴隷だ」
奴隷?
今まで見たドラマや映画では、前世を取り戻すことは喜びだった。みんな前世の悲恋を、今世こそ成就させられると泣いて喜んでいた。そうじゃないのか? やり直したいから、もう一度愛し合いたいから転生してまで再会したんじゃないのか?
「おい」
岸川くんの声。加瀬くんが緊張するのがわかった。岸川くんは離れたところで立ち止まったままだ。僕はカバンに本をしまった。
「津久くん、いつでも相談に乗る。自分を強く保って」
僕は加瀬くんにさよならを言い、岸川くんのところまで走った。岸川くんはいつも通り表情を変えていないけど、今は不機嫌だとわかった。
「行こうか、岸川くん」
岸川くんが先に歩き出す。振り返ると、加瀬くんは僕を見ていた。どうしてこんなに後ろめたい気持ちになるんだろう。なにか、ずるくて、悪いことをしているような気がしてしまう。岸川くんは足が長いから、僕は小走りになる。背中が随分大きい。ここは僕の居場所じゃないんだ、と不意にそう思った。早くここを去らなければ。
「誰、あれ」
校門を出ると岸川くんは僕の隣に並んだ。歩調を緩めてくれている。
「誰って、加瀬くんだよ。僕と同じクラスの。学年で一番くらい、頭がいいんだよ」
勉強教えてもらうなら、加瀬くんがいいよ。と喉まで出かかってやめた。加瀬くんが引き受けるとは思えないし、岸川くんも、頭が良ければ誰でもいいなら、僕になんか頼まないだろう。
「いつものと違う」
「純也? 加瀬くんはたまたま通りがかって話してただけだよ。僕が暇そうだったから」
「悪かった」
意地悪なことを言ってしまった。僕のほうこそ謝らなくちゃ。ごめんね、心の中で言う。優しくしなきゃ。岸川くんは学校の宝なんだから。
太陽はもう落ちて、空は紫色に染まっていた。ちょっと不吉な色だ。昔の人なら、良くないことが起こるって予言しそう。ふたりぶんの靴音。川沿いは舗装されていても砂や砂利が溜まってる。盛りを過ぎたの桜並木が、雪を降らすように花弁を撒いている。ジョギングしてるひとがたくさん。すれ違ったり、追い越されたり。ジャージ姿の岸川くんと制服の僕はどんなふうに見られているんだろう。前髪の隙間からそっと岸川くんを覗く。いつもと同じ表情で歩いてる。優しくしなくちゃ、っていう気持ちは正確ではない。僕が岸川くんに優しくしたいと思ってる。岸川くんの力になりたい。勉強を教えるのだって、僕にとっても復習になってありがたいし、岸川くんが赤点を回避して部活動停止にならずに済むのは嬉しい。岸川くんの活躍が嬉しい。岸川くんはきっと世界で活躍する野球選手になる。同じ時間を過ごせるのは、ありがたいことなんだ。
「なに話した」
唐突に岸川くんが質問してくる。珍しい。なんのことか一瞬考える。
「あ、加瀬くんと? この川で子供が溺れかけた事件があったんだって。女の人がその子を助けたんだけど、それがもしかしたら、転生した親子じゃないかって」
岸川くんが立ち止まった。
「思い出したのか?」
「え? え、いやっ、僕がその子じゃないよ?」
質問の意図が分からなくて困惑する僕を無視して、岸川くんは歩き出す。え? 一体なにを聞かれてたんだ?
「加瀬くんはね、郷土研究部なんだ。あ、なんか、フィールドワーク、部員じゃなくても参加できるんだって。今度予定表見せてもらおうかな」
「だめだ」
それは、けっして大きな声ではなかった。怒りが含まれているわけでも、威圧的でもなかった。なのに僕の体は硬直して動かなくなった。自分がどうなってしまったのか理解できない。わずかに動く目玉だけ、恐る恐る、岸川くんを見上げる。
「絶対だめだ。参加するな」
なにより受け入れられないのは、僕自身が、岸川くんの言葉に「悦びを感じている」ことだった。ぞくぞくするほどの興奮に近い感情が湧き上がっている。猫の舌に舐められているようだ、ざらざらとした刺激に皮膚が喜ぶ。命じられたいという欲望、従いたいという欲求。もっと言って。もっと求めて。僕を拘束して、僕を征服して。理解ができない。僕の嗜好は完全にノーマルだ。服従したいなんて、こんなの、特殊なプレイじゃないか。
「津久、聞いてるか。行くなよ」
体が震える。嬉しい。僕の心は歓喜に沸いている。おしっこをもらしそうなくらい嬉しい。こんな圧倒的な幸福感、生まれて初めてかもしれない。僕は膝から崩れ落ちないよう力を込めて言う。
「は、はい……」
幸せで泣いてしまいそうだ。俯いて、前髪で顔を完全に隠す。悦びの裏側で、僕は理解していた。異常だ。これはおかしい。耳の奥に加瀬くんの言葉が蘇る。「主従」。まさか、そんなわけがない。だって僕は男だ。そんなわけない、わかってるのに、また僕は岸川くんを仰ぎ見た。空はもう暗く、街灯の光を受けた岸川くんは輝いて見えた。従いたい。僕はまた強くそう思った。
朝教室に着くなり、加瀬くんを廊下に連れ出した。加瀬くんはまったく抵抗しなかった。それどころか、大勢の生徒が横切るそんな場所ではなく、渡り廊下から校舎裏まで僕を誘導した。頭はパニックなのに、加瀬くんの冷静な対処に感嘆する気持ちがどこかにあった。
「加瀬くん、僕、おかしくなってしまった」
一晩中抱えた不安が爆発して涙が出てきた。見られないように前髪を直すふりで目をおさえたけれど、ごまかせたかはわからない。なんて説明すればいいんだ。男子に命令されて嬉しくてもらしかけたと? そんな性癖を披露されて加瀬くんはどうすればいいんだ?
「津久くん、思い出したんだね」
「え?」
「え?」
「あれ?」
痛くもないのに頭をかかえる。しっかり支えなければ崩れ落ちてしまう気がして、手を思いきり広げて頭蓋骨をおさえる。怖い。汗が出てくる。なんだこの感情は。足元が崩れ落ちそうだ。こんな恐怖、僕は知らない。
鈴生りならぬ、藤生りだ。おまえの名は今日から、藤成。
「え? なにが?」
藤が満開の日に来たから、私の名前は藤成なんですよ。
「あれ?」
ああ見て藤が満開だ。なんて美しい香りだろう。おいで正路、抱き上げてあげよう。なあに、まだまだ私のが大きいじゃないか。藤の散り際は一等美しいよ。桜もいいが、藤は格別に詩的だ。
兄さんの名前、好きだ。正路よりずっと良い。幸運も果報も、喜びも藤生りでありますように。
狂おしい、狂おしく愛しい、愛しくなければ私は自我を保てない。恨めば惨めになるだけだ。滅私奉公すればこそ、私はまともに生きられる。それが理由だよ、だからおまえが恩に着る必要はない。私が生きるのは、藤のように美しく散るため。
「津久瑛一! しっかりしろ!」
むなぐらをつかまれ揺さぶられ、はっと意識を取り戻した。
「びっくりした、乗っ取られるかと思った」
加瀬くんは青ざめた顔で、ほっと息をついた。
「兄さんって、兄じゃないのに、僕は兄さんって呼ばれてた……あれ、誰?」
「岸川壮大だろう?」
「え?」
顔が、思い出せない。岸川? あの子は誰? 僕が抱き上げたあの子は? あの笑顔は? 僕の名を好きだと言った男は? 背は高かった。大きな体だった。腕の中に僕がすっぽり入り込んでしまうくらい。岸川くんが僕を抱きしめたら、きっとそうなる……ってなにを考えてるんだ僕は!
「加瀬くん、なにを知ってるの?」
「なにも知らない。ただ見えるんだ。騒がれたくないから隠してるだけで、私はつまり、本当に、神憑きなんだ」
思わず息を飲む。やっぱり、そう思った。すべてつじつまがあう。全部見えていて、加瀬くんは昨日あんな話をしたんだ。
「おまけに転生者。今が五回目の人生、全部の人生が記憶にある。予想、当たってたんだよね、君たちは主従の契りを結んでる。君は岸川くんの命令に逆らえない」
「逆らえないどころか、もう、とんでもないんだ。信じられないよ。嬉しくなるんだ。それもめちゃくちゃ嬉しくて泣くくらいなんだ。元々、岸川くんのお願い事は断れなかった。優秀な野球選手に頼られるのが嬉しいんだと思ってたけど、よく考えれば全然違う。僕はそういう、カースト上位に食い込みたいとか人気者の友達になって優越感にひたりたいみたいな欲求はないんだよ」
理解してもらえた安心感から、思わずその場にへたりこんだ。加瀬くんもしゃがみ、僕の背をなでてくれた。
「さすがに四回転生してるからね、力になれると思う。今までも、いろんな転生者に寄り添ってきたんだ。まずすべきことは、記憶を取り戻すことだ。主従関係が強い場合、相思相愛ではないケースが多い。相手にだけ記憶があると言い含められてしまう」
待って、なに? 相思相愛?
「あのね僕男だよ? 相思相愛って、そんなわけないでしょ。まさか、転生で性別が変わることがあるの?」
「性別が変わることはある。けど、まあ……君は前世でも男だよ」
少し言いにくそうにして加瀬くんは言った。言いにくそうにしたくせにはっきり言うなんてひどい。あんまりだ。だってそれじゃ、現世は男同士だから見送りましょう、ってことにはならないじゃないか!
「待って、加瀬くん、待って。整理したい、僕は、僕は誰なの? いつの時代の誰なの?」
「そこまでは見えない。服装から明治、大正時代っぽいけど」
「見える? なにが見えるの?」
「君とよく似た男性。君より背が低い。二十五才くらいかな。立っているだけで気品を感じる」
信じられない話なのに、これが真実なんだと理解している。昨日までは他人事だったのに、僕は転生の当事者になってしまった。
「……岸川くんは?」
「同じだね。今より背が低いけど、似たような体格の男性。君の隣にいる時は、君に吸い寄せられるように近づく。だから彼のほうが想いが強いんだろうと思ってた」
思わず頭を抱えて座り込んだ。
「津久くん大丈夫? 保健室で休もうか」
「いや、でも」
「これだけ顔色が悪かったら休ませてもらえるよ」
休んでる場合なんだろうか。それよりもっといろいろとはっきりさせたい、そう思うのに体は震えている。もう少しすればチャイムが鳴る。とても授業を受けられる状態じゃない。早く決めなければ、加瀬くんまで授業が受けられない。
保健室に行くと決めると、加瀬くんは付き添ってくれた。その間ずっと、「共闘しよう、お互いに助け合って前世から逃れよう」と励まし続けてくれた。加瀬くんの前世の相手はちゃんと女性なんだろうか。人目があるところで詳しい話を聞くわけにはいかず、もやもやを貯めこんだまま、僕はベッドに横になった。
「眠れそう?」
と保健の先生が声をかけてくれた時には、うとうとし始めていた。昨日の夜、眠れなかったからだ。浅いまどろみの中に浮かんでる。まどろみって泥ってことなんだな。底なし沼にはまってるみたいだ。体が重いのか軽いのかわからない。沈んでいるのか浮いているのかもわからない。哀しくて悔しくて痛めつけられている。なにも起こらない平凡で面白みのないぬるま湯人生のはずだった。それをつまらないと思いつつも、僕は身の丈にあっていると感じていた。僕なんかはそれでちょうどいいんだ。こんなものはいらない。前世とか、悲恋とか、男の恋人とか。
「次のお席には、これを掛けようと思うのです」
畳に十以上の掛け軸を広げている。改めてそれらの素晴らしい絵を見やる。足の踏み場もない。私はこうして乱暴にお軸を眺めるのが好きであった。
「なんと、幽霊画とは。藤成、お前というやつは」
「法事の茶、という落語がありますでしょう。暑いさかり、みなさまにはひやりとした趣向を楽しんでいただこうかと」
私は楽しくてころころと笑った。格式高い茶席は正路に任せれば良いのです。私は邪道、お客様のおもてなしにだけ精進いたします。
「こうして軸を広げて跨いでいても、おまえはちっとも品を落とさぬ。げに恐ろしき血よ」
叔父上は腕を組み、またため息をついた。
「おまえの血は、この家よりも格上。話の持っていきようで、まずはおまえが当主に収まってもおかしくはない。確かにおまえの席は人気だが、もっと欲を出して格上の席を出さんか」
「格上など、おこがましい。夜逃げする没落華族に格などありましょうか」
「正路は、社交という才が抜け落ちておるでなあ」
近いお軸をくるくると巻き取る。広げるのも好きだが、仕舞うのも好きであった。
「なにをおっしゃいますやら。学問は甲、柔術は師範級。剣術も極めた文部両道。どこに出しても恥ずかしくない人物ですよ。私など、武道は白帯のままです」
「藤成、真面目な話だ。おまえが宗主の座を望むならば、儂は正路ではなくおまえにつくぞ」
なんと哀しいことであろうか。私の大切な正路を、なぜみな同じく愛さないのか。平穏なこの家に、誰もが嵐を起こそうとする。火種は私。嗚呼、早く、私はここを出ていかねばならぬ。
「恐れながら正路さんは、宗主の血を引く正当な跡取り。私が横入るなど土台無理な話です」
長く子ができなかった宗主は、かつて友人であった華族の次男をもらい受けた。私の実の両親は慣れぬ事業に失敗し、東北へ逃げる折で、口減らしは渡りに船であったろう。宗主はもったいないほどの愛情を私に注いでくださった。せめてものご恩返しに、正路が立派な跡取りとなる花道を私は飾ろうと思う。
「兄さん」
戸口に、はにかんだ正路が立つ。男ぶりがいい、とはこういう男を指すのだろう。なぜ正路がいけないのかわからない。私のように、健康であるのにに結核を疑われる線の細い男では、家名を落としてしまうではないか。
「散らかしたね、手伝おうか」
小さい頃からずっと、私の心は変わらない。貰われて養子になった翌年に、お内儀は身ごもられた。親類や手伝いの者たちは腫れ物にさわるよう私を扱った。なにせ私は不幸の申し子。宗主と正路だけが、曇りない愛情を注いでくださった。正路、私の宝、生きる希望。どうかどうか幸せに、私が望むのは、誠に唯一それだけである。
目にふれられて、気づいた。目の前には白い塊があった。それは包帯を巻いた指で、その指の向こうに岸川くんが見えた瞬間、僕は跳ね起きた。
「どうしたのそれ!」
岸川くんは一瞬言葉につまり、気まずそうに頭を掻いた。
「今、巻いたばかりだ、汚くない」
「はっ? いやそうじゃなく指どうしたの!」
「朝練。捕球で。たいしたことない」
息と共に全身の力が抜ける。良かった、僕の宝……じゃなくて、学校の宝が怪我をしたらえらいことだ。
「泣いてた」
どことなく不満そうな顔で言われた。泣いてたのか、また。ということは、岸川くんは包帯で僕の涙をぬぐってくれてた、っていう……。
「ぶっ」
思わず吹き出してしまった。どうなんだそれって。他になかったのか。包帯で拭くってずぼらにもほどがある。ハンカチやティッシュを探すことが思いつかないほど焦ったのかな。岸川くんはそっぽを向いてしまってる。ああ、なんだかじんわりするこの胸の感じ、正路くんを見てた時に似てる。なんだかかわいくて、まだまだ幼いと安心して、僕はまだ彼を守れるって自信になるような……って、待ってなんだこれ、やばい、前世に毒されてる。
「岸川くん、授業始まってるよ、早く戻りなさい」
半開きのカーテンから先生が覗いた。
「津久くん、気分どう。まだ二十分も眠ってないけど」
「あ、だいぶ良くなりました。教室に戻ります」
「睡眠不足でしょう。勉強もほどほどにしないとだめよ、まだ二年なんだから。睡眠時間を確保しないと、逆に成績が落ちるわよ」
はい、はいと神妙に見えるように頷く。そんな僕の苦労を一顧だにせず、岸川くんが言う。
「教室まで送る」
断ろうと思ったけど、戸口に立っていた正路くんを思い出して、言葉が出なかった。嬉しそうに恥ずかしそうにお軸の仕舞いを申し出てくれた彼は、まさしく岸川くんそのものだった。もちろん岸川くんのそういう表情は見たことがないれど、それでも岸川くんにだぶって見えて、なんだかおなかのあたりがグルグルする。
「あなたもさっさと教室に行くのよ」
先生に念を押されたというのに、まったく意に介さず、岸川くんはゆっくりと歩いた。今までで一番遅い。僕の不調を気遣ってくれているのだとわかった。優しいな。正路くんは優しい、……じゃない! えっ、正路くんって言った? 言ってないけど言った? どういうこと? え? どういうことこれ?
「具合、悪いのか」
たいして心配そうでもなく、岸川くんが腰を曲げて僕の顔を覗き込む。見られないよう必死に前髪を引っ張った。だめだ、多分僕、ひどい顔をしてる。
「寝不足、なだけ」
岸川くんは僕を覚えているんだろうか。記憶があるんだろうか。前世の僕、なんかイヤな奴だった。みんなにちやほやされて、調子乗ってる感じだった。あの叔父さんにだって、もっとはっきり言ってやればよかったのに、内心でヤレヤレなんて思いながら、結局まんざらでもない顔をしてたじゃないか。あんなやつのどこが正路くん、よかったっていうんだ。いや、よかったのか? 正路くんは本当にあいつが好きだったのか? 僕の相手は正路くんで合ってるのか? まさか叔父さんってことない?
「俺だよ」
岸川くんを見上げて、首がグキと鳴った。
「……なにが?」
「べつに」
包帯を巻いた手が僕のほうに伸びてきたので、思わずジャンプして退いた。ジャンプしてなにかを避けたのなんて遠足でへびを見た時以来だ。冷汗が出てきた。なにをやってるんだ僕は。全然言い訳できない態度じゃないか。岸川くんは何事もなかった顔で歩き出す。僕も後ろをついていく。聞くべきか。記憶が戻ってるのかと聞くべきなのか。そして相手は正路君でいいのか確かめるのか。いいやバカだ! もし記憶が戻ってなかったら僕はただのイタイやつだ。しかも、同性愛者だと思われてしまう。それだけは避けたい! なぜなら同性愛者じゃないからだ!
待てよ、岸川くんもそうなんじゃないか? たとえ前世の記憶が戻っても、僕とどうこうなりたいなんて考えていないかもしれない。単純に僕と懐かしさを分かち合いたいだけかもしれない。そうだよ! 僕も正路くんの話をしたい! 小さい頃の正路君の、ぷくぷくの手とか語りたい! なぜ思いつかなかったんだ! 僕は同性愛者じゃない。岸川くんも違う。違うよね? 違うはずだ。だってすごくモテるし。いやそれは理由にならないか。じゃあこれだ、岸川くんが熱い視線で男子を見つめてるとこなんて見たことない。というか岸川くんの熱い視線そのものが見たことないんだけど。誰かのこと好きになったりするのかな岸川くん。誰のことも好きにならないタイプなら尚よし! そうだよ、岸川くんだって、現世と前世は別って考えてるかもしれないじゃないか。だったらなにも問題なし!
「思い出したら言って」
僕の教室の前で立ち止まり、岸川くんは言った。中から、誰かが教科書の英文を読む声が聞こえてくる。痛いほど現実的なカタカナ英語だ。ぼんやりしていた頭がしっかり現実をとらえる。僕は津久瑛一。平凡な高校二年生。
「本気出すから」
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