第7話 

「スマホは二台、どちらもGPSを入れてる。番号は入力してもらったけど、津久くんのスマホにトラブルがあった場合も考えて、メモを書いたから持っておいてほしい。それとこれ、エアタグ。悪いけど、津久くんのスマホにアプリを入れてもらえるかな。もしもの時はこのエアタグで私を追跡してくれ」

 山に向かうバスに乗る前に、駅前のカフェで念入りに打ち合わせをしている。加瀬くんの読みでは、最悪の場合、拉致監禁されて二度と外には出られない。特に山には防犯カメラがないだろうから、車に乗せられてしまえば追跡は不可能だ。僕の役目は、隠れて動向を観察し、拉致の場合には車の写真を撮り、すぐに通報すること。

「そしてこれは万一の場合」

 眼鏡ケースサイズの黒い物体を、加瀬くんはテーブルに乗せた。

「サイドにスイッチがある。ここを押して、こっちを相手に押し付けるだけ」

 スタンガンだ。初めて見た。

「山についたら使い方を一度練習しよう。手袋をして。君が使うわけだけど、なにが起こっても、私が使ったことにするんだ。私なら正当防衛が成り立つ。私が買ったうえに、私の指紋しかついていない。問題はない」

 ぴったりと沿う手袋まで用意されてる。僕は唾をのみ、凶器にふれた。痛いほどの冷たさを感じた。

「四郎は運動神経がいい。私は昔サルと呼ばれるほど木登りが得意だったのに、それでも四郎にはかなわなかった。体格もいい。組み合ったら負ける。スタンガンは必ず隠して、身に危険が迫った時に自衛のために使ってほしい。なにせあいつはなにをするかわからない。もし津久くんが見つかって、私の友人だとわかったら、君を利用しようとするかもしれない。私は身元がわかるものを持っていない。だから津久くん、必ず逃げて。津久くんが捕まったら、もっとまずいことになる」

 今日、加瀬くんは眼鏡をかけていない。正視できないほど綺麗な顔がずっと目の前にある。なんだか少し気恥ずかしい。

「巻き込んでごめん」

「そんなこと言わなくていい。一緒に、サバイブするって誓ったよ」

 加瀬くんは一瞬きょとんとし、少し笑った。こっちの心臓がおかしくなるくらい、魅力的だった。

「津久くん、変わったね」

「そう?」

「とても強くなった。それに藤成さんと、均整がとれた状態で融合しつつある」

 今までは夢で追うだけだったのに、あの藤棚で藤成の気持ちとシンクロしてから、確かに僕もそれを実感している。言葉にできるほど明確ではないけれど、なにかが変わった。

「ひどいものだね、アジュアは」

 加瀬くんはそっとため息をついた。

「悪い予感しかないのに、命令に従うことが嬉しくてたまらない」

 そんな様子には見えない。ということは、加瀬くんは類まれな精神力で自制しているんだろう。僕も経験したから、その喜びは理解できる。あれは本当に凄まじい感情だった。どうしてこんな機能が転生に組み込まれているのかわからない。偶然の(または必然の)産物なんだろうか。

「あのシロウが、来るのかな」

「私を確認できるのはシロウだけだからね」

 シロウの動画を見せて、それが河越正四位四郎通勝であることは確認済みだ。同じ顔だと加瀬くんは言った。戦国時代にこんな男前が存在したとは驚くばかりだ。背が高く、顔が小さく、均整の取れた顔立ち、どことなく野性味があり、姉が言うには超セクシー。目の前の加瀬くんは、瞳の色があまりに淡く、ふと目を合わせれば視線が縫い付けられ動けなくなる。肌が白く、いや白いという表現が正しいのか、色の問題ではなく、とにかくはっと心が吸いよせられる。抜けるように白いとか、輝かんばかりとか、くすみひとつないとか、そういう表現はすべてこの肌にささげられているのではないかと思う。妖精と言われたら頷くしかないくらいに、人間離れしている。以前から綺麗だとは思っていたけれど、最近はどんどん洗練されていっている。

 お似合い、だったろうな。男女であった時は。

「前に、過去のことを話してくれた時は、シロウのこと通勝って呼んでいたよね」

「あの頃は名前を呼ぶことは不吉とされてたんだ。君たちにわかりやすいようにという意識が働いて通勝と言ったけど、当時から実際には四郎と呼んでいた」

 四郎とシロウ。名前が同じだと、正路くんと岸川くんほどの違いがあるように思えなくなる。気のせいだとわかっているけれど、もしも完全な同一人物だとしたら、かなり厄介な相手だ。

「何度も言うけど、絶対に自分の安全を優先してほしい。君が捕まったらすべて終わりだ。逆に言えば、君さえ助かればこちらも助かる可能性がある」

「わかった、約束する」

「万一私を見捨てることになっても後悔しないでほしい。どうせ長く生きられないんだ」

 とんでもない告白に立ち上がりかけた。確かに加瀬くんは華奢で線が細いけど、健康にしか見えない。

「前に話したろ。主従の関係で、従は無理矢理転生に付き合わされてるんじゃないかって。その根拠が私なんだ。二十五歳を超えたことは一度もない。生まれつき心臓に問題があったり、気管支が弱くて肺を病みやすかったりしてる」

「えっ!」

「今みたいに医療が発達してる時代じゃないから、そうなんじゃないかって程度なんだ。気が付くと病気になって死んでいた。そんな顔しないで、今は健康だよ、特に検査でひっかかったこともない。けどおそらく、そのうち死ぬんだと思う」

「加瀬くん、本当にそのうち死ぬとしても、君を助けない理由にはならないよ」

 加瀬くんは少し驚いた顔を見せ、それから笑った。美しかった。四郎は馬鹿だ。この笑顔を見れないじゃないか。こんなふうに笑ってくれない加瀬くんを手に入れてどうするんだ。

「津久くんに逢えてよかった。一年生の時から、君と谷くんと、仲良くなれたらと思ってた。けれどそうなるのが怖かった。転生は、いいことばかりじゃないから」

 その言葉の意味が、今ではよくわかる。

 時計を確認し、加瀬くんはカップに手を伸ばした。僕もカップを手に取った。ふたりとも一応コーヒーを注文したけれど、山ではトイレが不安なので、あまり飲まないようにしている。どこにでもあるチェーン店のカフェショップ。僕らの住む町のカフェと同じ雰囲気。客も似通っている。自分たちだけ、このいつもの風景から浮いてしまっている気がする。もう日常には戻れないのかもしれない、そんな不安が胸に渦巻いている。

「玉藻はどうしておなかの子を殺したんだろう」

 加瀬くんはカップをテーブルに戻して、ささやくような声で言った。

「玉藻は優しい。植物も動物も大切にしてた。脳筋な父親や兄たちと違い、公家筋の母親に教養を与えられた。母は玉藻しか産めなかった。体が弱かったんだ。玉藻はいつも妹か弟がやってくるのを願ってたけれどね。母は暮らしに馴染めなかった。側室たちの嫌がらせもあり、父と離れて暮らしていた。玉藻は情緒が安定している子だった。詠んだ和歌からも感受性が強いことがわかる」

 なぜ他人事のように話すんだろう。不思議に思いながらも、くちは挟まなかった。加瀬くんが話したいと思っていることを、大切にしたかった。

「僕は全然不思議に思わないよ。無理矢理だったんでしょ」

「いいや、四郎はちゃんと手順を踏んだ。玉藻の気を変えるためとは言わなかったが、子供が欲しいとちゃんと伝えてきた。玉藻がいやがることはしなかった。ひとつひとつ、ゆっくり、玉藻の気持ちを慮って段階を踏んだ。玉藻は、寿寿丸のことがずっとずっと好きだったから、忘れずに迎えに来てくれたことを喜ぶ気持ちも、わずかにあったんだ。その喜びが憎しみを煽った。喜ぶ自分を許せなかった。玉藻に何度打ち据えられても、四郎は耐えた。そのことが玉藻をもっと傷つけた。無理矢理だったらよかったと思う。玉藻は傷つきながら、憎しみながら、尚も自分を愛し続ける四郎に惹かれ、自分を憎んだ」

 加瀬くんは疲れたように額に手をやった。

「私は玉藻だった。なのに、玉藻が自分の子を殺そうとした事を考えようとすると、突然玉藻から引き離される。自分とは違う人間に思えてしまうんだ」

「その時の気持ちは、覚えてるんだよね?」

 忘れてしまったんだろうか。それとも、錯乱していて自分でもわからなくなっていたんだろうか。

「それが、転生を重ねすぎたせいで、所々記憶が曖昧なんだ。初めて転生した時ははっきり覚えていた気がする。今は自分の事というより、映画を観るような感覚に近い。なにが起こったかはわかっても、なにを感じているかは推測しかできない時がある。リアルな記憶はもちろんあるよ、自分の喉を突くための短刀の重みや、母上の装束の目に痛いほどの白さ。憎しみにまつわるものは、記憶も感情も明白なんだ。忘れたくても忘れられない。なのに、四郎への気持ちになると、突然切り離されてしまう。最期の時も同じだ。覚えているのに、覚えていない気がする。抜け落ちたものがたくさんあるんだ。曖昧な部分をはっきりさせたくて歴史を調べた。調べていく過程で思い出したこともある」

 加瀬くんはテーブルの上で掌を上に向けた。そこに乗る丸薬が見えた。

「考えても意味はないか。玉藻は丸薬を飲んだ。おなかの子供を殺すほど、四郎を憎んでいたんだ。憎みながらも四郎を愛したという私の記憶が間違ってるんだろう。四郎は玉藻に選ばせるように見せて、その実、選択肢などなかった。玉藻は自分で選んだと思っていたかもしれないが、選ばされたんだ。それは無理矢理と同じだ」

「人質が誘拐犯に好意を持つっていう、ストックホルム症候群みたいなことかな」

「そうだね、そういう類いのことなんだろう。家族を殺され、国を奪われ、味方は誰もいない。頼れる人間は四郎のみ。そんな極限状態じゃ、自分の気持ちさえわからなくなる。ストレス過多で記憶にストップがかかっているのかも。それに私の性別が違ってしまったことも大きい気がする。女性の感情をリアルに感じられないのかも」

 それはすごく腑に落ちた。女子の考えてることはわからない。こなっちゃんが頭に浮かぶ。本当に、わからない。

「歴史を知らべて、わかったことある?」

 今になって納得する。それで郷土研究部だったのか。きっと普通の歴史書ではわからないことも調べるノウハウを持ってる。この部は全国的に有名で、テレビの取材もたまに来る。相州流にすぐに行けたのも、ネームバリューがあったからだと思う。

「隣国は瑞科藩といった。玉藻の藩は歴史をさかのぼると家臣に当たる。領土は四分の一ほどだった。瑞科はかなり戦力のある国で、周囲からも一目置かれていた。寿寿丸の父親を切腹に追い込み、跡継ぎである寿寿丸を手元に置いた。寿寿丸は頭がよく、特に薬草に詳しかった。瑞科藩でも自分で薬草を掛け合わせては、不調の家臣を助け、人望を得ていった。私たちが出逢ったのは真菰の群生地なんだ。私は母の病いに効くという真菰をよく取りに行っていた。河越藩は東北の入り口と言える場所にあり、薬を特産にしていた。どうやってそこまで逃げたのかわからないが、地方の薬草に詳しい寿寿丸は重んじられただろう。河越が京に向って勢力を伸ばすには、激戦区である甲斐を見過ごすわけにいかない。そこまでの通り道にある瑞科を攻めるのは定石だった。河越藩に男子は生まれなかったから、寿寿丸が婿になったことで、次期藩主の候補になる。きな臭くなるのはここから。寿寿丸の周囲で変死が相次ぐ。記録上は病気となっているがあまりに都合のいいタイミングのため、毒殺ではないかと言われている。政敵がみんな死に、自動的に寿寿丸は跡継ぎとなり、そうして藩主が死んだ。それからすぐに、寿寿丸は瑞科を攻めた」

 怖い。状況から判断するに、寿寿丸の仕業としか思えない。玉藻さんが慕うほど優しく聡明な寿寿丸が、本当にそんなことをしたんだろうか。当時仇討ちは当然の行為。とはいえ、やり方があまりに汚い。

「河越はうちの藩に和睦を申し込んでいた。瑞科に加担せぬよう文を送っていたんだ。父が蹴った。父にしてみれば当然のことだった。戦になれば不利だと父はわかっていたはずなのに、義を重んじた」

 その寿寿丸がシロウになったことを考えると、今日、穏やかな話し合いが行われるとは到底思えない。寿寿丸の玉藻さんへの執着は異常だ。玉藻さんは加瀬くんから想像するに、絶世の美女だったはず。だから手元に置きたい気持ちはわかる。けど、それにしたってやり方がおかしい。加瀬くんが監禁を警戒するのは当然だ。

「行こう、バスの時間だ」

 僕は頷いた。僕も、身元が分かるものは持ってこなかった。拷問されたら話してしまうと思うけど、うん、それはもうあっさりと話すけど、多分ペンチとかが見えた時点で話すけど、でもとにかく、なんとしてでも無事に家に帰る、加瀬くんと一緒に。

「加瀬くん、頑張ろう」

 僕たちは力強く拳をぶつけた。

 まともな話し合いができればそれでいい。もし向こうが力づくで加瀬くんをどうにかしようとしたら、絶対に守る。


 バスの最終地点は登山口だった。山というほど高さはないようで、いわゆる市民憩いのハイキングコースになってるみたいだ。リュックやトレッキングポールを持つひとたちが一緒にバスから降りた。慣れた様子で山道に入っていく。見えるところに湖があり、くつろぐグループがいくつかあった。売店なんかもあるみたいだ。

「こっちだ」

 登山口を入ってすぐ、加瀬くんは道をそれた。獣道というんだろうか、整備されてはいないけれど、歩くことはできる。加瀬くんは何度もこの地を訪れているらしい。緑が深く、葉の間を落ちる陽がきらきらして見える。足元は落ち葉が深い。気持ちがいい山だ。

 二十分ほど歩くと、急に広くなった。まずベンチが目に入った。古くて苔むしている。それから、白い石の祠。

「ここに城があったんだ。まさしく玉藻が血を吐いて死んだ場所」

 祠は年月を経て傷んではいたけれど、よく手入れされていた。中にはかわいらしい地蔵がはいっている。赤い服や帽子が着せられているし、まだ新しい花が生けられている。

「昭和に来た時、こうなっていた。それまでは祠はなかった。ついでに言うと鳥居は昭和にはなかった。祠は四郎が建てて、地域の人がよくわからないまま大切にしてくれてるんじゃないだろうか」

「シロウさんが建てたの?」

「他の奴がこんなところに祠を建てるかな?」

 加瀬くんはリュックから小さな折り畳み椅子を出した。知恵の輪みたいにぐるぐるさせて上手に組み立て、近くの岩の裏に進んだ。

「どう、ここ見える?」

「見えないよ」

「もうちょっとそっち進んで、見えないか?」

 念入りに場所を確認し、椅子を設置した。ここが僕の待機場所になる。

「いつ来るかな」

「死んだのは昼前、十一時頃。おそらくそれくらいに来るんじゃないか。逃げるルートも確認しておこう。こっちから坂道を下ればすぐバス停に出れるはず」

 崖にしか見えないところも道と言い張って加瀬くんはどんどん進んでいく。本当にサルみたいに身軽だ。これくらい自由に動けて、頭がよく、教養があった玉藻さんは、融通の利かない父や自分をサルと呼ぶ兄たちに、押さえつけられるような気がしていたんじゃないんだろうかと、ふと思った。

 決めた待機場所に戻り、加瀬くんはベンチに座った。緊張で心臓が飛び出そうだった。この状態で長時間待つのは厳しい、と思い始めた時、僕らが最初に通った道から、誰かが歩いてきた。

「玉藻……」

 足音はひとり。声は男性、はっきり聞こえない。名前を呼んだのか? シロウかどうかはわからない。覗き見たい気持ちをぐっと押える。

「動くな!」

 キツイ声だった。鼓膜を紙やすりでこすられたような衝撃を覚えた。なんなんだこれは。シロウの声は何度も聞いて覚えたけれど、所詮は電子音。いやそれにしたって、こんな感覚、普通の声にはありえない。

「跪け!」

 がしゃ、と落ち葉の上に落ちる音。血の気が引いた。アジュアだ。加瀬くんは操られてる。全然友好的じゃない。拉致される。思わずポケットからスタンガンを取り出す。手が激しく震えて、落としそうだ。待て先にスマホだ。合図を送らないと。心臓がバクバク、とんでもない音を立ててる。しっかりしろ、それから撮影だ。証拠がなければ拉致されても警察は動かない。ボイスレコーダーの電源を入れ、ポケットに差し込む。声紋が取れれば個人特定できる。そして写真だ。けれど音でばれるかもしれない。録画にして、近づいて撮影するか。

 拳で胸を叩く。大丈夫、やれる。僕は藤成でもある。藤成の度胸が僕の中にあるんだ。息を吸い、止め、ゆっくり吐き出す。やれる。やりきってみせる。

 用心しながら、岩からわずかに顔を出す。僕の位置はふたりの真横、加瀬くんのほうが近い。どうやって近づく、落ち葉のせいで足音がしてしまう。逆に今なら簡単に逃げ道に入れる。加瀬くんを置いて僕だけ逃げるか。加瀬くんはそうしろと言うだろう。藤成ならどうする? 藤成ならどんな判断をする? シロウは僕よりかなり背が高い。細身だがしっかり筋肉がついている印象。組み合ったら負ける。走り寄ってスタンガンを押し付ける? そんな攻撃に間抜けにもひっかかってくれるだろうか。加瀬くんと同じく何度も転生してるんだ、生半可な攻撃が通用するとは思えない。どうすればいいんだ、心臓の音がうるさくて他のなにも聞こえない。藤成、頼む。藤成しかいないんだ。

 僕が迷いに迷っていると、加瀬くんが上体をぐらつかせ、跪いたまま地面に手を付いた。おかしい。激しく息をしてる。アジュアのせいだろうけど、それにしてもなにかおかしい。加瀬くんは遠目からでもわかるほど手を震わせて、頭を抱え悲鳴とも嗚咽ともつかない声を漏らした。その瞬間、飛び出していた。

 シロウが僕を見、攻撃に備えて一歩身を引いた。僕はその隙を逃さず、加瀬くんに飛びつき、スタンガンを掲げた。

「はじめましてシロウさん。僕は玉藻さんの友人です。これは玉藻さんが手配したスタンガン。日本で流通しているスタンガンにはリミッターが仕掛けられていますが、そこは玉藻さんの手配ですから、外してあります。つまりこれには殺傷能力があります」

 口が勝手にぺらぺらと動いた。体のどこも震えないように必死に力をこめる。全部はったりだ。リミッターなんか知らない。僕はスイッチを入れ、わざわざバチンと激しい音を立てて見せた。シロウは好戦的な目をしている。僕からこの小さなバーを取り上げるなんて簡単なことに思えたんだろう。あなたには使わないよ。僕は先端を加瀬くんに向けた。シロウの表情がさっと変わった。

「死なないかもしれませんが、後遺症が出るかもしれない。ご心配なく、僕は手袋をしているでしょう。このスタンガンには玉藻さんの指紋しかついていません。入手したのも玉藻さんだ。事故だと言い張れる。僕は疑われない。紹介が遅れましたが僕も転生者です。死生観は一般人と異なる。玉藻さんがたとえ死んだとしても、僕はそれが終わりでないことを知っている。ためらいませんよ」

 顔が勝手にうっすらと笑う。おそろしいな藤成。誰もが藤成を欲しがった理由がわかる。頭の中に藤成がいて、運転席を譲ったかのように体が自動的に動く。当の僕は、加瀬くんの名前を出さないように必死だ。

「出てくるなとっ」

 呻きながら加瀬くんは言った。恐ろしいほど汗をかいてる。加瀬くんになにが起こっているのかわからないが、とにかく早く連れ去るべきだ。

「シロウさん、実は玉藻さんを除き、僕らの利害は一致しています。僕が望むのは玉藻さんの幸せです。あなたとの話し合いを抜きにして玉藻さんの幸せはない」

 シロウの眉間に皺が寄る。迫力がある。おしっこをちびりそうだ。美形ほど怒ると怖い。黙って座ってるだけで威圧感で周囲がビリビリするタイプだ。玉藻さんの話にでてくる寿寿丸はどこにいっちゃったんだろう。

「玉藻さんは転生後も誰にも心を許していません。もちろん体も」

 皺が消える。まずは彼の猜疑心を取り払う。つまり、加瀬くんがまだ誰のものでもないという確証。逢えなかった転生で加瀬くんがどんな人生を送ったか、気になっているはずだ。それをぶつけて思考を乱す。

「あなたから逃げることだけに終始していたんです。それは幸せな人生でしょうか? 僕は玉藻さんにもうそんな人生を繰り返させたくない。あなたもそうですよね? 僕らの利害は一致している。話し合いが必要なんです。けれど、この展開は悪手です」

 僕の後ろでぶるぶる震えていた加瀬くんが叫んだ。

「玉藻は死んだ! もういない! いても同じだ、おまえを憎んでた!」

 前に出ようとする加瀬くんを背中で止める。泣いてるのがわかる。これは悲鳴だ。助けてと叫んでる。

「おまえを愛してなんかいなかった! だから子供まで殺した! おまえが憎くて殺したんだ、おまえの子供を! よくも玉藻にあんなことをさせたな!」

 シロウは驚愕の表情でなにか言おうとした。それより早く、加瀬くんが地面に倒れこんだ。

「かっ、玉藻さん!」

 シロウが駆け寄ってこようとしたのでスタンガンを鳴らした。

「やや、ややがあっ」

 女性の声だった。のびやかで美しい声。地面に転がりながらおなかを押え叫ぶ。

「わらわの、やや子がぁっ、ああ、ああっ」

 乗っ取られる。加瀬くんの言葉が脳裏に浮かぶ。この場所、そしてシロウの存在。曖昧だった記憶が一気に噴き出ているんだ。一番苦痛で恐ろしかった記憶に飲み込まれてる。

「玉藻!」

「こうしましょう。日と場所を改めます。この場所は良くない」

「ふざけるな! 今日を何百年待ったと思ってる!」

 空気がびりびりと震えた。鼓膜どころか体中やすりでこすられたかのようだ。この声で戦国時代、家来たちを押さえつけ無謀な国攻めをおこなったんだろう。やれやれ。骨が折れるな、うまく交渉できるといいが。

「口頭でかまいません、連絡のできる電話番号を」

「信用できると思ってるのか!」

「していただくしか、あなたに選択肢はありませんね。何百年も待たれたのでしょう、いまさら魂の抜けた人形を手に入れて満足できますか? 玉藻さんは美しい。天から落ちた玉そのものだ。聡明で利発、そして鋼のような意志を持つ。この世にふたつとない宝玉。だからこそあなたも、探し続けたのではありませんか? ここで玉藻さんを連れ帰ったところで、いい結果が得られるとはとても思えない。前世の二の舞になるのがオチだ。今回は、お互いが生きて再会したという収穫だけ持ち帰りましょう。それにあなたも、新たな情報を得て、考える必要があるのでは?」

 シロウがいぶかしげに僕を見る。僕は加瀬くんを見る。もしかして。加瀬くんの登山服はユニセックスと言えなくもない。ここでひとつ動揺させられれば儲けものだな。

「考えの整理が必要なのでは? 今回は孕ませることはできませんよ。玉藻姫は、男性になったわけですし」

 無言だったが、シロウが驚いているのがわかった。それこそ顎が抜けんばかりに。逢ってすぐ動きを止めて跪かせれば、動きから性別を感じ取ることもできなかったろう。なんというべきか、必死な人間というのは滑稽なものだ。

「まずはお仲間に、僕らを追わないよう指示していただけますか」

 人間をひとり拉致するには人手が要る。人気芸能人ならイリーガルな行動を厭わない仲間を集めるのも難しくないはず。予想通り、シロウは襟元に隠しているマイクに「追うな」と言った。加瀬くんは地面に伏して泣き続けている。子供を呼ぶ声は鳥の声に似ていた。

「連絡先を」

「信用できない」

「言ったはずです、選択肢はない。あなたがいれば玉藻さんはずっとこの状態だ。精神的に危険なことは見てわかるはず。ひとつ解決策があります。玉藻さんに命令すれば再会は確実だ。場所は困りますが、日にちは選んでもいい。さあどうぞ。主従の命令についてあなたはよくご存じのようですから。この状態の玉藻さんに命令すれば、それがどれほどの負担になるか、おわかりでしょうけれども、あなたの了解を得るには致し方ありません」

 シロウは人を殺せそうな視線で僕を睨みつけた。わかる。わかるさ。愛してるから苦しいんだ。愛してるから手放せない。スタンガンを加瀬くんに押し付けたのと同じだ。その愛情しか、利用できるものはない。

「玉藻さんはこの命令をアジュアと呼びます。adjure、厳命と懇願を表す英語なのか、それともazur、フランス語の瑠璃色なのか。瑠璃であるラピスラズリは第七チャクラを活性化させる。鮮やかな青、フェルメールブルーでしたっけね。シロウのイメージカラーとして多用されていますね」

 シロウは震える唇を隠すように手を当てた。なにかしら色にまつわる話をすれば勝手に思い至ってくれるだろうという目論見はうまくいったようだ。必要なのは動揺、正常な判断力を鈍らせる。こちらにカードはない。まったく、利用できるのは愛情だけなんて、不利すぎる。

「玉藻さんを救うためだとしても、アジュアでは駄目なのではないですか?」

 藩の姫でありながら城を抜け出せたこと、母の薬草を自分で摘みにいかなければならなかったこと、どう考えても玉藻さんは大切にされていない。母の出自から考えて、政の駒となる。あの時、四郎は救いに行ったのだ。四郎にとって玉藻さんは、自分と同じ、自由を奪われ囲われた人間だった。屈辱にまみれ、しかし尚自ら尊厳を取り戻そうと戦う同志だった。だからこそ、他に代わりはなかった。言わば魂の片割れ。その愛情になら、賭ける価値がある。

 不意に、シロウが番号を口にした。勝利の瞬間だった。

「覚えられるのか」

「馬鹿にしてます?」

「間違われたら終わる」

「あなたが言い間違っていなければ大丈夫です。二週間後にしましょう。それまでに連絡します」

 疲れたと言わんばかりに緩慢に加瀬くんを抱き起す。シロウに余裕がないと思われてはいけない。心ははやっている。不自然でなく、一刻も早くここを離れる。

 シロウはひどく傷ついた顔をしていた。

「玉藻」

 その一言は、どんな言葉よりも多くを僕らに伝えた。彼のすべてがその名前に込められていた。僕は泣きたくなったし、加瀬くんは恐怖し耳を塞いだ。

「繰り返しますが、僕らの利害は一致してます。忘れないでください。ここで僕らを追えば、玉藻さんの心は失われます」

 決めていたバス停までの道を転げるように降りた。バス停には純也と、純也のお姉さんが車で待っていた。さっき僕がスマホで合図を送ったからだ。シロウがいつから見張っているかわからないから、油断を誘うために最初はバスで来た。振り返ってもひとは見えない。かといって安心するわけにはいかない。

「お姉さん、すみません」

「ていうか、その子大丈夫なの?」

 純也とふたりがかりで、加瀬くんを後部座席に乗せた。山を下りる間無理をしてくれたからだろう、加瀬くんはぐったり倒れこんだ。

「すぐに出してくれますか」

 車が動き出すと、緊張がとけ、座席に体を預けた。泥のような疲れだ。

「本当に駅まででいいの? 家まで送る方がいいよ」

 後ろを振り返る。ついてくる車はない。本当は電車の乗り継ぎを入れて尾行をまくつもりだった。加瀬くんは意識を失っているようだ。

「うまくいって、ないんだよな、その様子」

 純也が助手席から振り返る。

「遠慮なんかしなくていいんだからね」

 純也は犬の散歩三か月と引き換えにお姉さんに運転を頼んでくれた。前世のことは伏せ、過去にトラブルになったひとと話をつけるために逢う、とだけ伝えていた。もしかしたら跡をつけられるかも、というところは正直に話したので、状況はわかってくれている。純也と同じく、優しい。

「ねえ、殴られたりしたんじゃない?」

「違います、話してて興奮してしまって、気分が悪くなったみたいなんです」

「やっぱり電車なんて無理でしょ、その状態じゃ」

 もう一度後ろを振り返る。車は何台か続いているが、お姉さんが極端にスピードを遅くしているので、どんどんぬかされていく。尾行の車はないようだ。

「津久くん」

 薄目を開けて、加瀬くんが僕に手を伸ばした。

「津久くん、だよね?」

 運転席には僕が座っている。加瀬くんは安心したように笑った。


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