火種共有懇談~推定或いは内偵打診の段~
唸りにも似たクーラーの稼働音が室内には低く響いている。
手首狩りの一族、その本家当主が居する本宅が一室。年季の入った黒机を前にして、七十五代目手首狩り当主である南貝安広は僅かに不安の滲む笑みを浮かべてみせた。
「呼びつけて悪かったね、
「気にせんでください。この暑いのに現場回りだとさすがに堪えるんで……」
今日みたいな日ならラッキーまでありますねと嘯いて、足達──足首狩りの夜庵は机上の灰皿と南貝に順繰りに視線を向ける。南貝は一度頷いてから、自身の作業服の胸元から煙草の箱を取り出し、慣れた手つきで一本を咥える。そのままゆるゆると上がる煙越しに、夜庵へと視線を向けた。夜庵は軽く頭を下げてから同じく一本を吸いつけて、ようやく息が吸えたとでもいうように細い煙を吐いた。
「今日も最高気温が三十五とかだっけ。僕はデスクワークだからいいけど、現場担当は毎回死にそうな顔して帰ってくるよ」
「昼は勿論、夜でもあんまり涼しくなりませんからね。南貝さんとこは作業服なんだから尚更しんどいでしょう」
「ここまでの温度になると服装のあれこれってのも誤差のような気がするけどね。浅田さんや千川──橘岡くんのところなんかはスーツだし、君もその格好だし」
「スーツも意外と慣れるもんですよ。むしろ直に日が当たる方が焼けて痛いまであるんで……」
南貝の問いに答えを返して、夜庵は煙草の灰を灰皿に落とす。南貝の記憶の中にあったものよりは大人しい服装──臙脂の無地で仕立てられたスーツに黒シャツと幾何学模様の銀鼠のネクタイ──で客用のソファに腰掛けたまま、夜庵は視線を南貝へと向ける。無機質な室内の照明に白眼が剣呑に光った。
「で、今回はどちらです。手首狩り一族が当主としてか、それとも南貝安広個人としてのご用向きか、まだお伺いしてないんですよね」
「……両方って言ったら怒るかい、君」
「怒りはしませんけどね。欲張りっていうか……何ごとだ、とは聞くね」
ヒラの首狩り風情に手伝えることがあるとは思えないけどな、と夜庵が吊り上げた口元から煙を吐く。南貝は躊躇うように僅かに視線を逸らしてから、再び夜庵の目を見た。
「何て言やいいのかな、僕自身も判断しかねてるっていうのが正直なところなんだ」
「当主様が判断できないようなことを俺にぶん投げてどうなるの」
「結論が出せないっていうか、筋が通し切れないっていうか……ここのところの何もかもがなんかおかしい気がする、ぐらいしか言えないんだよね、どうしても」
「何もかもっていうのは」
「全部だよ。というか──そうだな、変な案件が増えてる、ぐらいには表現できる、と思う」
それなら君も何かしら心当たりがあるだろうという南貝の言葉に、夜庵は片目だけを細めてみせた。
事件としては穏当に処理されたが、その過程に不可思議な綻びの痕跡のあったもの──それならば真っ先に駅前の顔剥ぎ怪異についての案件が思い出されるだろう。内容自体はありふれた怪異退治ではあったが、その際に行われた駅前の呪術的封鎖に瑕疵があり、業務の最中に一般人が結界内に侵入するという変事があった。また首狩りに斡旋される案件が増加しているというのも事実だ。廃ビルを根城に一般市民に対して凶行を繰り返していた若者の集団に、真夏に見事な狂い咲きを見せた老桜の化生による近隣住民の神隠し未遂など、咄嗟に思い出せるだけでもそれなりの数がある。そうして
「まあ、俺みたいな下っ端でも幾らかは覚えがなくもない……けど、そこまで気にするようなことかね」
「単純に数が多いってのもある。あとは僕の体感だけども、現場での不手際とか不備の報告が増えてるんじゃないかって思う」
「ミスとかエラーの類については一旦棚に置いときたいけどな。業務が増えてるってのは微妙なとこじゃないの、吹き溜まって湧き出るのが常だろ、ここ」
「確かにね。だからこそ僕らみたいな首狩りなんて連中が受け入れられているわけだ」
人里離れた山海であれ怪異は存在するが、現代では人の住む市街に専らその活動の拠点を移した節がある。それは怪異が人間の情念や行動から発生するからとも、それら人の営みに反応をするからだとも言われているが、明確な理屈というものは未だに提示されてはいない。とはいえ怪異の発生しやすい土地があるのは事実であり、南貝や夜庵たち首狩りが根城としているこの土地もその類の性質を持っているということぐらいはとうの昔に受け入れている。
そのような土地柄である以上、得体のしれないものがうろつくのはさして珍しいわけでもないが、とりわけ怪異が多く湧き出す時期がある。過去の記録からその時期自体はおよそ予測され、ある程度の対応マニュアルじみたものが首狩りを始めとした対怪異の案件を扱う同業者には共有されていることもあり、精々が交通安全強化月間程度の重さで認識されている。その時期になれば、一般市民を怪異悪党の脅威から守るという建前のもと首狩りどもはこぞって腕を振るうのが常になっている──警察や市役所といった真っ当な連中が対応できない領分を引き受けるからこそ、人怪を問わず肉を斬り骨を断ち血を散らすような真似をする剣狂どもが生きることを見逃されているという大前提を、首狩りは決して忘れてはならないのだ。
夜庵は骨張った指で机を幾度か叩いてみせた。
「案件の増える時期ったら盆暮れ正月、あと……春先かね? その辺はいっつもやんなるくらいに切った張ったしてるもんな。そこ基準だとまだいけるぐらいじゃないか、現状」
「まだいける、まだ回ってるってのは確かにそうだ。──けど、繁忙期と比較しようって気になる時点でおかしくはあるんだよ」
息継ぎのように煙を吐いて、南貝は僅かに充血した目を夜庵に向けた。
「そもそもまだお盆じゃないからね。繁忙期の前兆だとしたら、このままいったら本番が悲惨なことになっちゃうだろ」
南貝の言葉に今度は夜庵が目を伏せる。
拍子を取るように机の上で跳ねていた指先は、思考の跡でも探るかのように黒木の肌を撫でている。南貝の発言、それが意味するところは理解できているのだろう。
兆しというのは先触れである。本体ではなく、本体の発生したことを周囲に告げるべく生ずるものだ。偉大なるものとなるべく定められた幼子が生まれるからこそ星は光り輝き、永く続いた名門が途絶えると庭の樹は紅葉の如くに血を吹いた。本編は前振りよりも盛大であるのが常だろう。
このささやかな、しかし不愉快な異常が全て
「一応体感だけではない、ってのを提示しようと
「微妙ねえ」
「だから気持ち悪いんだよ」
南貝が派手に煙を吐く。その眉間には深々と皺が寄っている。
彼が苛立つ理由は十分にある。明確に下回るなり跳ねあがるなりしていれば、その事実で彼の懸念についてはある程度補強される。根拠として主張を立たせる材料として使用できる。それが微妙な違和感程度に納まっているのが厄介なのだ。見逃すには盛大な、目をつけるには些細な変異──どちらにしても、まだ論を成すには足りないのだ。
僅かな沈黙を挟んで、南貝はすぐに言葉を続けた。
「怪異だけじゃなくて対人仕事も増えてるだろ。そこも嫌なんだよね、僕としては」
「それはあれだろ、治安悪化。不景気とかそういうので全部の議論がおしまいになっちゃうやつだし、それなら
「それもあるし、そこについては君の言う通りだよ。だけどさ、それ以外もいるだろ。こう、背景が変な連中」
「あー……」
南貝の言葉に、夜庵が天井を仰いだ。
「あれだな、呪物作って派手にやらかした新興宗教の残党とか、いたな」
「その案件、うちの安次と浅田さんのところの若い子二人が担当したんだよね。結構な大立ち回りになったんだ」
君の担当したやつにもその手のがいたろと問われて、夜庵は煙草を咥えたまま頷いた。怪異と取引をしようと一般市民に手を出した馬鹿どもがいたのはまだ記憶に新しい。あれはそれなりに面倒な案件だった覚えもある。何しろ現役の本家当主──生首狩りの浅田と乳首狩りの橘岡──の二人に加えて、目下売り出し中の手首狩りの若手である南貝も出撃した任務だったのだから、本部連中が相当慎重に対応しようとしたのは間違いないだろう。
「ただの悪たれ連中が馬鹿やってとか、この世に向いてないような凶人どもがやらかして流れ着くならまだ分かる。乳首狩りの新当主様が始末したような、それこそ他所で暴れて追われて逃げ込んできたっていうのは、ある。あるけど──」
思考をそのまま吐き出すような語りをぶつりと途切れさせて、南貝は眉間の皺をいよいよ深くする。短くなった煙草を灰皿で折り潰して、せわしい手つきで次を点けた。
「君も言うように、怪異については土地柄だっていったらそれまでだ。人間の方もあることだろっていわれたらそうだけども──妙なんだよ。なんかこう……引っ掛かるとしか言えないけど。明確な証拠を出せって言われたら引き下がるしかないけど、こう、ざわざわする」
「勘で物言ってんねえ。ホラー映画の霊感ちゃんくらいにふわふわだ」
「だろ? そういう有様だからさ、
夜庵が片眉だけを跳ね上げる。
南貝は瞠られた右目から視線を逸らそうとはしなかった。
「……首狩りとしての仕事中はさ、そう呼ばれんの困るんだけど」
「知ってる。
首狩りを業として継ぐ血族、その中でも足首狩りには他の首狩りの家とは異なる規律や慣習が存在している。その習わしの一つとして、足首狩りは首狩りとしての業務を遂行する際には一律先代の名を名乗るというものがある。書類上では当然個人名で処理されているが、現場で名乗るものとしては皆『足達夜庵』の名で統一されている。これは足首狩り自体がそもそも罪人の追討・捕縛等を主にしていた連中だという出自に由来するものだと伝えられ、現代においてその役割が薄れ、専ら他家の首狩りと同じく悪党怪異を狩るものとして扱われるようになった今でさえ、彼ら足首狩りに属する首狩りたちは本名を名乗らないのが常になっている。
そのしきたりを知っているであろう手首狩り当主が、彼の──夜庵の本名を呼んだ。その時点で頼み事というものが首狩りとしては
長い煙草を持て余すように指先で挟んで、南貝は言った。
「君も散々言ってるけど、根拠が僕の感覚ぐらいしか出せてない。そんな状況で、手首狩り当主として足首狩りの夜庵に依頼するには何もかもが曖昧過ぎるからね。背景もあやふや、目的もぼんやり、そんな有様で任務としては出せない」
「そんな具合のものを俺に聞かせてどうするつもりなの。愚痴ならあれだ、面白くない」
「だからさ、個人的な
「……もう一回言うけど、俺ただのヒラなんだよね。御当主様に申し上げるのもあれだけど」
「そうじゃないと困るんだよ」
南貝の声に僅かに焦燥じみたものが滲んで、夜庵が咥え煙草のまま視線を上げた。瞬きをせわしく繰り返してから、一度長く煙を吐いて、南貝は続けた。
「下手に立場のある相手に申し立てるには確証がなさ過ぎる。けど、僕個人としては見逃せない。──何だか分からないけど、何かがおかしいんだよ。そうじゃなきゃ起きないであろう事態が頻発してる。偶然だと片付けるのは危うい、僕の勘はそう言ってる」
勘を根拠にした物言いなど、本来ならば一笑に付してしかるべきだろう。だが──その譫言を口にしているのが七十五代目南貝大井戸家当主・南貝安広である以上、その勘を譫言として扱うのは愚策である。
首狩りとしての技量は並かそれ以下でさえあった南貝が本家当主として手首狩りの一門を率いているのか。それはひとえに南貝当主の異能──予知能力じみた管理能力という『厄ネタ』に対して天性の嗅覚があるからこそだ。異常への嗅覚と予兆の感知、並外れた危険への予測能力を以て、人食いの怪異と結託した宗教団体などによる数々の凶行へと迅速かつ的確な対応を行い、被害の軽減に尽力したという実績がある。
その天性の警報機が、本人すら論理を掴む以前の有様でありながら、不穏の兆しを感知しているのだ。
首狩りとしての嘆願と、友人としての信頼を無下にするような真似は、足首狩りの夜庵及び足達充智にはできなかった。
「……まあね、それなりにやってはみるけど。大して期待はしないでよ、安広くん」
「ありがとう。──身内以外にその名前で呼ばれると、なんか落ち着かないね」
「お返しだよ。そっちの方が釣り合うだろうし、な」
面倒ごとばっかり増えていくなあと、夜庵は背もたれに身を投げ出してから咳き込むように笑う。
微かな笑い声を滲ませた煙は、天井へと昇ってゆっくりと薄れていった。
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