首狩所縁墓地桜~夏夜に青少年大いに悩むの段~
毟られた爪のような花弁が夏の夜風に吹き散らされていく。
熱に蕩ける夜闇が肌に纏わりつく。他人に許可もなく触れられているようだと、池首はうんざりしながら自身の腕を抱く。仕事着のスーツはまだ着慣れていないせいか、袖口や首周りのあちこちに余計なものが入り込む隙間が空いているような気がしてならない。
一際強い風が吹きつけて、池首は顔に張り付く花弁を払いながら周囲を見回す。
卒塔婆、墓石、無縁墓代わりの地蔵。足元の土は白く乾いて、まばらに散った花弁が月明かりに融けている。
墓地だ。
無数の墓石はその表面に夏の青い月光を映し、熱を帯びた夜の中で静かに並んでいる。
その墓石の群れを従えるように、桜の樹は墓地の中央に立っていた。
季節外れの夏桜。
熱を帯びた闇の中で可憐な薄紅色に覆われた枝先は蠢き、獲物を手招く触腕のようにうねっている。
「ふざけんなよ卑怯だろ枝全部使うのはよ! そんなやり口で恥かしかねえのかそんなんだからお前怪異なんかになりくさったんだな馬鹿桜がよ!」
その重たい闇を引き裂く罵倒と時折混じる雄叫びを聞きながら、池首は桜の樹を見上げている。
「手出し無用と、
池首の隣で同じように桜を見上げながら、橘岡は心底から感心したような声を出した。
「あの……ご迷惑をおかけしています。何とお詫びすればいいのか、その」
「別にいいですよ。死なない程度に好きにさせてくれって、浅田さんから言われてますので」
「そんなこと言ってたんですか浅田様」
「あの人、基本が
本当にどうしようもなくなったらちゃんと手を出しますと橘岡は言って、再び響いた怒声に片眉を持ち上げた。
首浦が桜の樹に吶喊し捕らえられてからそれなりの時間が経つが、状況は意外なほどに膠着していた。
満開の桜花に塗れた枝に四方八方から掴みかかられながらも、致命傷を寸前で躱し的確な反撃を重ねる。首浦の身体能力と首狩りとしての技量の高さは本物だと池首は痛感する。
桜の樹が首浦の首筋に向けて振り下ろした枝を身の捩りで避け、間髪入れずに鉈が閃く。無骨な刃は枝を掠めて、薄紅の花弁が夜闇に盛大に散った。
「樹齢五百年らしいですよ、あの桜」
「桜ってそんなに長持ちするんですか」
「枝垂れ桜は長いんだそうです。平均も三百年ぐらいだと聞きました」
「じゃあ平均超えてるんですね、この化け桜」
池首の言葉に橘岡は頷き、
「常軌を逸するとね、ろくなことになりませんよ。本当に」
暑いと花見は辛いですねとぼやいて、見上げていた首をごきりと鳴らした。
道苅寺の枝垂れ桜は樹齢五百年の老木である。
この寺を興した初代住職が、葬られた魂の慰めとなるようにと植えたものが根付いたのが由縁だと言われている。
初代が思い切りよく墓地の真ん中に植えたものだから、桜が見事に咲くほどに周囲の状況──何せ墓地であるのだから大小新古様々の墓石に取り囲まれているのだ──も相まって、この世の物とは思えないような情景を作りだしてしまう。桜の樹も最近では古木らしい風格と長生きしたものに特有の妖気じみたものを纏い始め、昼間に見ても人によっては怯むような異様な雰囲気を帯びていた。
雰囲気だけで留まっていれば何の問題もなかった。だが、それで済まなかったのが道苅寺及び近隣住民の不幸だった。
七月の頭、短い梅雨が明けた頃。今年に入って初めて夜間の気温が二十七度を記録した夜のことだった。
老桜の亡霊のような枝に、一夜にして夥しい花が咲いた。
真夏の狂い咲きに、皆──住職も檀家も近隣住民も身構えた。
季節外れの徒桜にしても尋常ではない。尋常ではないことが起きるということは、大概更にろくでもないことが起こる。怪異や兇人の多いこの土地に住む人々には長年の経験に基づく勘があり、今まさにその勘が全力で警報を鳴らしていたのだ。
結果、ことは起きた。
狂い咲きの妖桜は一向に散る気配のない花に塗れた枝で夜な夜な物理的に人を攫ってはその生気を啜り、吸い尽くされて気を失った人間が寺の墓地に放り捨てられるようになったのだ。
近隣住民と寺の両方から迅速な苦情が役所に届いた。役所は『怪異案件であるならば首狩りの業務範囲だろう』といつものように判断が下りた。
結果、対怪異の暴力装置として名高い首狩り四天王の血族に依頼が持ち込まれ、深夜の墓地で生首狩り二人と乳首狩りが揃って季節外れの妖桜と対峙することとなったのだ。
「仕事じゃ仕方ないですけど、ここまで見事な桜を斬るってのは……ためらいますね」
「綺麗ですからね。引き換えに人が吸われますが」
首浦の悪口雑言の音量は一向に衰えず、また抵抗も緩む様子がない。
鉈が閃くたびに血を吹くように花弁が散り、風に舞う様は確かに美しかった。
「そういえば、これ樹じゃないですか。怪異だとは聞いてましたけど、これは……難儀しませんか」
首、手首、足首、乳首。首と名の付く人体の急所を斬ることで、どのような相手でも確実な死を与えるのが首狩りだ。無数の首を持つ化け蛇も長く捩れた腕をぶら下げた亡霊も、およそ異形異界のものであろうが『首』があるならば存在ごと始末をつけることができる。
だが、今回のように相手が樹木だった場合はどこが首になるのか。経験の浅い首狩りである池首には、どこを首とするべきかの見当のつけようがなかった。
「まあ、その辺はどうとでも。首狩りをやっていれば慣れます……というか、慣れないと死ぬだけなので」
橘岡は目を細める。
乳首狩り本家当主の横顔に微かに過ったものの気配に、池首は背筋に刃物を押し当てられたような錯覚を抱いた。
首狩りは基本的に任務には最低限でも二人組で出撃するようになっている。
個々の技術が『首』を狩ることに特化したものである以上、対象の怪異に対応しきれない場合があると困るからだ。生首狩り相手に首のない怪異がぶつかった場合、未熟な首狩りには難易度が高い。
だからこそこの任務で、生首狩りの新人である池首と首浦、その監督役として乳首狩り本家当主が配置されるのは理に叶ってはいる。
だが池首にとっては、この組み合わせは最高に居心地が悪い。
ただでさえ首浦が実戦では飛び抜けた才能を示す天才であり、自分はそのおまけ程度だと思っていたところに他家の当主──しかも最年少で当代最強の首狩りの地位にまで上り詰めた人間だ──まで同行することになったのだ。
場違い。いたたまれない。身の置き場がない。
平凡な首狩りでしかない自分が友人の──天才の足を引っ張っているのではないかという恐怖感が池首に張り付くようになったのは、いつからだろうか。
与えられた鍛錬も課題もまっとうにこなしてはいる。だからこそ首狩りとして実戦に出ることが認められた。実戦の許可を出したのは生首狩り一門が十六代目当主、浅田寅正その人なのだから、その判断に疑いを持つこと自体が傲慢であり不敬である。
それが分かっていたところで、不安が拭えるものでもない。
今の状況は全て親しい友人の、首浦のおかげなのではないか。首浦を育て首狩りとして鍛えるために、餌として添え物として、天才の機嫌を取るための手段として使われているだけではないのか──。
そうやって思い詰めていたところでその友人が怪異に突進して暴れているのだからどうしようもない。ともかく仕事相手に同門として事態をややこしくしたことを謝るぐらいしかできないと、池首は腹を括った。
「それにしてもですね、あの、この度は本当に──」
「筋はいいんですけどね、首浦くん。あの状況でまだ怪我もないようですから、逸材なのは確かだ」
首狩りという武技を極めた連中、その中でも生首──文字通りの首を狩ることで対象を死に至らしめる絶技を継承するのが池首と首浦が属する生首一族だ。
その中でも首浦の腕前は生首狩りの同門、同世代の中では群を抜いている。だからこそこの任務にも他の首狩りをおいて抜擢されたのだろう。そこに自分まで紛れ込んだのは何かの手違いか抱き合わせ商法のどちらかではないかと考えそうになって、池首は慌てて邪念を振り払う。
「そう、すごいんですよ首浦。あいつに勝てるやつ、生首の同世代じゃ誰もいません」
「池首さんも勝てませんか」
「あ……はい。俺は本当、あいつに比べるとからっきしで」
橘岡の言葉に、池首は視線を逸らす。桜の方からは相変わらず首浦の怒号が聞こえる。
墓碑銘を夜に塗り潰された墓石を見つめながら、池首はどうにか返答を探す。
「でも、友人のはずなんですよ。あいつ馬鹿だなとは思いますけど、でも友達です」
「以前、うちに道場破りに来ましたね。師範代から報告を受けて驚きました。今時いるのかって」
「その節は、というかその節もご迷惑をおかけしました」
数ヶ月前に首浦が決行した道場破り、その目標は乳首狩りの一族が武道場だった。過去の愚行に最悪のタイミングで背中を刺されて、池首は深々と頭を下げた。
「その件に関しては手打ちが済んだので……そういえば、池首さんも来てたんですか。道場破りに」
「僕は付き添いです。現地に連れて行かれて初めて知らされました」
「付き合いがいいですね」
「それだって、首浦の好意っていうか、付き合わせてくれてるんじゃないかって、思ってます」
自分は何を話しているのか。初対面の人間──それも自身より圧倒的に上の立場に話す内容ではない。それでもここまで吐いてしまった以上、もうどうしようもない。
「本当なら、僕があいつと対等に打ち合えるくらいなら良かったんですよね。そういう相手になれれば、あいつだって道場破りなんて馬鹿をやらかさなかったでしょうし。だから、その──僕、あいつの役に立ってないんです、きっと」
言い切ってから黙り込む。さすがにまともに正面を向いていられなくなって、池首は俯く。
橘岡は少しだけ間を取ってから、低い声で続けた。
「つまり、あれですかね。ご友人ですよね、お二人」
「はい。済みません、変な話をして、あの」
「首狩りとしての才能が釣り合わないから自分は友人として不適格なのではないか、みたいな話をしてますか」
正確だが容赦のない問いに、池首は顔を上げた。
橘岡は至って真面目な顔で、桜──怒号が散発的に聞こえてくる──を見つめている。
「……すごいまとめ方をされましたが、そうです」
「気のせいですよ、確実に。首浦くんにとっては
「そうなんですか」
「他人が言うのもあれですけど、だったらもっと早くに見捨てると思いますよ。池首さんを道場破りに付き添わせて責任逃れもしなかったんですから、そういうことじゃないですか」
右肩潰されたんでしょうと問われて、池首は頷く。
浅田から呼び出され罰を受ける段になっても、首浦は池首に責任を負わせようとはしなかった。
「あとは……まあ、浅田さんが君たちを組ませたってことで、十分証明になると思いますよ。あの人、後進育成も真面目にやってますし」
こんな感じで納得できますか、と橘岡が結んだその刹那。
ぶんと音がして池首の足元に鉈が突き刺さった。
「これ、首浦の」
「駄目ですね。ではここまでということで」
池首さんはそこで待機していてくださいと、橘岡が桜に向かって歩き出した。
一歩、二歩、墓地の乾いた土を革靴が踏んでいく。
桜の枝が縋るように伸びる。花に飾られた垂れ枝の先が橘岡の肩口に届く寸前、
「では、失礼します」
池首は息を飲む。
ぐったりとした首浦を妖枝を蠢かせて弄ぶ桜の樹、その漆黒の幹が須臾の間──長々と伸びた人の胴に、見えた。
橘岡が右手を振る。
一閃。
刃の鈍い光は幹の胸元を走り、瞬きの合間に夜に溶ける。
刹那、桜の樹は蠢くのを止め力なく垂れた枝の中から首浦が落下した。
池首は視線を樹へと向ける。
黒々とした幹の上方、先程人の胸と見えた箇所が一文字に抉れている。
乳首狩り本家当主、最強の乳首狩りである『血首』の名に恥じない、妖樹の幹に概念として穿たれた
「──加減をしました」
橘岡の手元で一瞬だけ陽炎のように闇が揺らぎ、刀身が鞘に納まる。
「加減、っていうのは」
「過剰な精気を削いだので……そうですね、十年ぐらいはただの桜でいてくれると思いますよ」
「殺さなかったんですか」
「思うところがありまして。殺してしまうと、それきりになりますから」
あとは回収屋と実検組に任せましょうと言いながら、橘岡は屈みこむ。
地面に落ちたまま気を失っている首浦──右耳が派手に千切れている以外は無事そうだった──を担ぎ上げて、そのまま桜に背を向けて歩き出した。
池首はその後を慌てて追う。人一人を担いだまま平然として、橘岡が口を開いた。
「今のでそこそこ散りましたけどね、今週一杯ぐらいならぎりぎり花見とかできるんじゃないですか、夏ですけど」
「やるんですか」
「今の時期だと暑いんですよね。夜の巡回がてら眺めるぐらいならするかもしれませんけど、そうなると酒が飲めないので」
「お酒好きなんですか」
「好きというか……色々教わったんですよ。だからまあ、大事にしたいなと」
橘岡が立ち止まった。池首も慌ててその場に停止する。
足元の砂が擦れて微かな音を立てた。
そのまま動かない橘岡の横顔を見て、池首は視線の先を辿る。
黒々とした夏の夜闇に淡紅の花弁は音もなく降り、夜風に吹かれ舞い散っていく。
「綺麗なものを見て飲む酒、楽しいんですよ。夏の夜桜、花見に来るのも悪くはないでしょう」
狂い咲きでも桜は桜ですと橘岡は池首を見て微かに笑った。
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