年年歳歳人相似~同胞相偲ぶの段~

 橘岡きつおかが右手を無造作に振り抜く。

 周囲の風景が一瞬揺らめき、裂かれた空が吠えるような音を立てた。

 正面の日灼けた襖は真ん中から引き千切られたように裂けて、ゆっくりと倒れた。


「圧し破ってどうすんだよ。斬るんだろ」


 襖の残骸の側に立ち、無残な有様になったふちを革靴の足先で突きながら、井桜いさくらは呆れたような声を上げた。

 襖の木枠は力ずくで叩き壊されたような折れ口を晒し、襖紙も象に踏み破られでもしたように爆ぜ裂けている。

 埃に塗れた和室の中、明らかに異質な破壊の跡を刻まれた襖をしばし眺めてから、橘岡はスーツの肩をぐるりと回した。


「どうにも難しいですね。飛刃の応用でいけるかと思ったんですが」


 やはり素手だと加減ができませんねと、橘岡は振り抜いた右手をゆっくりとさする。スーツの袖口が擦り切れかかっているのに気づいて、微かに眉を顰めた。

 井桜はその手先をちらりと見てから、思い出したように口を開いた。


「あれか、手刀だろ? お前がやりたいの。あれ術式なしでやんの無茶だぞ。術式使うとそこそこリスキーだし」

「井桜さんはご存じでしたか」

「お前より首狩りやって長いからな。当主様に言えたもんでもないが」


 井桜の言葉に、一瞬だけ橘岡は目を逸らす。

 そのまま何事もなかったように、いつもと同じ調子で続けた。


「手刀、術式で身体の一部を武器にするんですよね。以前使い手の方とお会いしました」

「手首狩りのとこだろ。あいつらの十八番だよ」


 井桜は手首をぐるぐると回してみせる。どこからか入り込んだ日射しに手首に巻かれた腕時計が鈍く光った。


「そいつの腕見たか? 札かなんか貼ってたろ。あれ、術式で弄ってるからなんだよな。刃物であると見立てて後天的に概念を上書きすることで、腕を刃物として変性させてる」


 日常生活がむちゃくちゃ不便なんだよなと井桜は渋い顔をした。


「あれだ、シザーハンズじゃんな。だから普段は札貼って付与した性質を無効化してるんだけど、そこそこ負荷がかかるらしいからな。十全に運用しようと思うと人を選ぶんだよ。諸刃だよ。手刀だけにな」


 橘岡は頷きもせず視線を外し、井桜はその様をじろりと睨んだ。


「その顔はどっちだ。俺の冗談が面白くないのか、シザーハンズが分かんねえのか」

「両方です」

「この──一緒に見ただろ映画、お前が高校のときに漫画喫茶行きたいっていうのに付き合ったろ。そんときに見たじゃん」


 橘岡はしばし視線をうろうろと彷徨わせてから、不意に諦めたように俯く。

 その背を数度叩いて、井桜は笑った。


「誤魔化すの上手くねえな、本当。忘れたなら忘れたって言えよ」

「……申し訳ありません」

「いいよそんな謝るこっちゃないから。そもそもあんときお前漫画読んでたしな」


 当主様にこんなことで謝らせたら俺が叱られるという井桜の言葉に、橘岡は少しだけ間を置いてから微かに口元を緩めた。


 井桜雫也しずやはその名の通り左乳首分家の人間である。


 井桜とは乳首狩りの一族、本家の傍らに常にある分家のうちの一つだ。本家とは源流を同じくしながら、首狩りとしての技を共に磨く一対の存在として、本家を護りまた血首の名を絶やさぬためにその血を繋いでいる。

 分家であるからといって、本家に比して力が劣るわけではない。乳首狩りの一族の中で便宜上本家と分家に別たれてはいるものの、血首──本家当主の継受は完全に実力によって決定されている。出身がどの家であろうが実績と実力を示しさえすれば問題なく血首を継ぎ乳首狩りの長として一族を率いることとなるのだ。


 若干二十五にしてその才を認められ血首となった橘岡だが、井桜とはただの乳首狩りとして右乳首分家の一員であった頃からの付き合いになる。


 両家の仲はあからさまに険悪というわけでもないがさして親密でもない中、井桜とは橘岡は妙に気が合った。歳は井桜の方が七つほど上だったが、互いに同年代の人間が少なかったためだろう。なにかと橘岡のことを気にかけていた節がある。


 井桜は乳首狩りの師範代として、また首狩りの一員として、そして身近な友として──その日々を通して橘岡の才を誰よりも認めていた。


 先代当主が引退の意向を示した際、真っ先に血首候補として橘岡を推薦したのも井桜だ。その推薦の意図を邪推する者もいたが、橘岡が乳首狩りとして積み上げてきた実績でその猜疑はすぐさま晴れた。それだけの才が、橘岡重上しげたかにはあった。

 橘岡にとっての井桜は兄であり、同門の師であり──部下である。その微妙に変化した関係を彼らがどう受け止めているかは、本人たちすらその本心には気づいてはいないだろう。


「ところでいつまで俺たちはここにいればいいんだ」

「柊収会の方々から先程連絡がありまして、もう少しかかるそうです。他の現場との兼ね合いで、人手が足りないと」

「回収屋も忙しいんだねえ。いい迷惑だ」


 井桜は何度か頷いてから、視線を襖から逸らす。

 廃屋の一室、薄汚れたガラスから午後の陽が射しこむ和室。元は客間として使われてでもいたのだろうか、広い間取りに日に焼けてこそいるがさほど傷んではいない畳が敷かれ、床の間には空の花瓶が横倒しになっている。


 その廃れた和室の隅、埃に塗れた大机の上。長々と伸びた真っ白な胴体をしどけなく放り出して、人とも蛇とも分からぬものが横たわっていた。


「化け物屋敷に蛇が出る、だっけ。言うほど蛇じゃないんだから詐欺だよな」


 井桜の軽口に橘岡が頷いた。

 市役所からの依頼だった。怪しいものが出ると評判の廃屋で、実地調査と場合によっては駆除までを任せたいとのことだった。行方不明者はまだ出ていないが、何かに遭遇して気が触れたようになった若者が何人か出たことで対応せざるを得なくなったのだろう。


「まあ、異形とはいえ人に近いかたちだったので……手間はかかりませんでしたね」

「『首があるなら何でも殺せる』のが首狩りだからな。仕事自体は楽な方だよ。早く済んだしな」


 回収屋が来ねえから意味がねえなと井桜は煤けた天井を仰いだ。


 始末した対象の痕跡は基本的に消去することになっている。

 見せしめなどの意図がある場合は別だが、基本的に例外はない。不用意な痕を残して不要な詮索をさせないために、現場の清掃は徹底的になされる。

 血痕、死骸、肉片などの現場に残された痕跡を回収し、何ごともなかったかのように日常を取り繕う術に長けた連中。それが回収屋──柊収会だ。

 怪異や外法に手を出した人間などはその残骸を遺さないこともままあるが、その場合も現場に回収屋の確認を入れる必要がある。首狩りたちへの監視の意味もある。きちんと業務を終えているか、対象は本物か──痕跡から類推される仕事ぶりなども彼らの報告には記載されている。

 首狩りとの関わりは深いが、同じものでは決してない。同じ闇に身を浸しながらも、負った業も役割も異なる。

 異能を以て闇に蠢くものでありながら、その行き先は首狩りたちとは交わりこそすれ重なることはないのだ。


「とりあえず、柊収会の方が来たらすぐに引き継げるようにしておきましょう。私も早く帰りたいので」

「まったくだ──ところでお前襖あんなんやったけど、それはいいの?」


 井桜の言葉に橘岡は目を伏せた。


「手刀試してみたかったのは分かるけどさ。現場で無駄に被害出すの、減点つくだろ」

「……業務中のやむを得ない損傷、ってことで通せませんかね」

「無茶がないか。蛇一撃で削いだろ」


 二人はもう一度倒れ伏す怪異に視線を向ける。人間の胴体を適当に引き延ばしたようなその姿は異様ではあるが、胸元に大きな虚が穿たれている以外は、その表面には傷一つない。

 圧倒的な技量の差を見せつけるような死に様だった。


「なまじ腕がいいと言い訳に苦労するな? 最年少血首さんよ」

「これは……私の、落ち度ですので、その」

「いいよ。どうせ報告書書くの俺だしな。なんか適当に理屈つけて書いとくわ」

「ありがとうございます」


 済みませんでしたと目を伏せる橘岡に、井桜は目を眇める。

 かつて橘岡が何かしら後ろめたいことをしでかしたときに、問い詰めた井桜に見せた表情。

 ただの少年だったのは昔の話だ。ここにいるのは本家当主、先代を打ち倒し血首を継いだ剣鬼だ。

 そうだとしても、目を伏せて俯く表情──それだけは確かに、井桜がよく知るあの日のままだった。


「……じゃああれだ、どうせ飯食って帰るだろ。口止め料代わりに奢ってくれよ」

「それくらいなら勿論。そもそも経費で落ちますし」

「それじゃ意味ねえだろ。お前が出しな」


 橘岡は井桜の物言いに明らかに困惑した表情を見せる。井桜は苦笑しながら続けた。


「本家当主様じゃなくて、お前と飯行きたいんだよ。


 久方ぶりに呼ばれた名前に、橘岡は一瞬目を見開く。僅かためらうような間があって、橘岡は井桜の顔をようやくまともに見た。


「分かりました。井桜さん、いえ──雫也兄さん」


 手加減してくださいねといつもより気安い様子で投げかけられた一言に、井桜はかつてのように晴れやかに笑った。

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