大義の一刀、怪異及び罪人を断つ~廃墟巡回の段~
悲鳴が響いた。
埃に塗れた廃墟の床に倒れ込む、ジャージの男。傍らには懐中電灯が転がり、その光は倒れ伸び切った青年の足元を照らしている。
ジャージの裾に縋りつく、異様に細く長く伸びた腕の群れ。
暗がりから湧き出すように伸びた腕は執拗に青年の足に絡みつこうとしている。そのか細い外見とは裏腹に、痩せ枯れた数本の腕によって男はずるずると引きずられ始めている。どこに向かっているのかは分からない。そこかしこに燻る闇に取り込んでしまえばこちらのものとでも言いたげに、腕は纏わりつきじりじりと青年の足を掴んでいる。
鉛色の手首は一薙ぎで斬り飛ばされ、一拍置いてから鮮やかな血を吹き上げてぼろぼろと崩れた。
「や、お見事です。良かったっすね、間に合って」
一般人見殺すと後々しんどいことになりますからと声にそぐわぬ物騒な内容が廃墟に響く。
軽薄な声に、青年は恐る恐る顔を上げる。
廃屋の壁、髑髏の眼窩のごとくにぽかりと開いた部屋の入口には白々とした月光が射し込む。
男が二人。黒々とした夜闇から泡が浮かぶように現れた。
作業服の男がのしのしと青年の側へと歩み寄り、頭の先から爪先までを眺めてから、感心したような声を上げた。
「やっぱ凄いっすね、
作業服の言葉にスーツの男──橘岡は黙って首を振った。
「いえ。今のは普通の
橘岡の言葉が終わるや否や、斬り飛ばし霧散したはずの腕は荒れ果てた部屋の闇から再び湧き出し悍ましい姿を現す。そのままどろどろと床を這い進み、橘岡たちの方へと近寄ってくる。
その様子を眺めながら橘岡はかぶりを振った。
「やはり本式の、
「そういうもんすか。ま、そうでもないと俺の立つ瀬がないもんで」
軽口を叩きながら南貝は作業服の胸元から大ぶりの工具用カッターに似た刃物を取り出し、蠢く腕めがけて無造作に振り下ろ。
手首は一瞬天を仰ぐように振り上げられて、そのままざらりと灰のように夜闇に散った。
「手だけの怪異とかね、俺から──手首狩りからすれば、据え膳みたいなもんですから」
白い歯を剥き出して南貝が笑う。刃に纏いつく何かを払うようにカッターを数度振れば、月光を跳ね返して薄い刃がぎらぎらと光った。
悲鳴のような呼吸音が、廃屋の中に響く。
床に這いつくばったまま二人を見上げる青年は、数度口を動かしてからようやく声を出した。
「あり、ありがとう……でも、あんたら、何を」
作業服とカッター、スーツに日本刀。廃墟どころかどこで遭遇しても真っ当とは思えない人間を前にしたからか、青年は明らかに怯えている。
「怪しいものではありません。我々、廃墟の見回りを市役所の方から委託されていまして、その最中にあなたを発見しました」
「市役所……」
とりあえず聞き取れたであろう単語を繰り返して、青年は二人を見上げている。
作業服の袖を捲りながら、南貝は問うた。
「俺らはそうして仕事だけど、あんたここに何しに来たの? つうか表に停まってた車あんたのだろ? 何してんのこんな廃墟で」
「あの、心霊スポットだって、聞いて、その──」
肝試しにきたんですと小さい声で答えて青年はがくりと項垂れた。
「ちょっと、ちょっと最近寝付けなくって、んで暇だったんで、夜のドライブっていうか近くにそういう廃墟があるって噂で彼女から聞いてたから、そんで」
「馬鹿が馬鹿やってたってこと?」
南貝の問いに青年は答えずに俯いた。
橘岡が咎めるような視線を一度向けて、そのまま明後日の方を向く。
荒れ果てた部屋には目ぼしいものは何もない。棚の残骸や得体のしれない襤褸切れの山、雑然と廃物と埃に塗れた部屋には闇がどろりと溜まっている。
「とりあえずこの人保護しないとですかね。
「そうですね。間に合って何よりです」
橘岡たちが来なければ、青年は怪腕の群れの餌食になっていただろう。市役所から請けた廃墟の巡回警備という地味な役回りではあったが、それにおいて一般市民の安全を守りえたということは、首狩り四天王──魔技を受け継ぎ故なき害意から民草を守る一族として役目を果たせたということだ。
剥き出しにした手首をさすりながら、南貝はしみじみとした調子で呟いた。
「役所仕事なんて地味だと思ってたんすけど……やっぱ心霊スポットの見回りって大事な業務なんすね」
「危険ですから、廃墟。怪異も人間も、夜出歩くやつにロクなものはいませんよ」
ここの廃墟はことに危険ですからと橘岡が言えば、南貝が少しだけ考えこむような顔をした。
「心霊スポット扱いは知ってますけど、それ以外に危ない要因ってありました?」
「怪異の噂に重ねて、実際に死体が出てます」
「そうでしたっけ?」
「はい。先月の頭です」
この廃墟、通称『人肉食堂』──経営難に陥ったドライブインが通行人を襲ってその肉を調理していたと噂されている──の裏庭、草に埋もれるようにして女性の遺体が遺棄されていたのは、数か月前のことだった。
ローカルだがテレビニュースにもなったはずだが、南貝が覚えてないのも無理はないだろう。すぐに日常に埋没し、目撃情報を求める看板だけが国道の脇に置かれているような有様だった。その程度の、ありふれた事件だ。
「自殺とかですか」
「いや、喉に跡があったので。殺されてから捨てられたそうですよ」
橘岡は僅か瞑目してから、長々と息を吐いた。
「先に言ったように、ここ心霊スポットなんですよ」
「そっすね」
南貝が軽薄な相槌を打つ。青年は闇の中でも分かるほどに蒼白な顔をして、ただ二人を見つめている。
「そういう噂があるところで、
橘岡の眼が細められ、微かな月影を飲んで剣呑に光る。
ぼたりと粘度のあるものが滴るような音がして、青年が息を飲んだ。
闇の蟠る廃屋、埃に塗れた部屋の隅。
死人の顔のように白々とした肉塊が、いた。
自販機ほどの大きさはあるだろう。小山のようなそれはうごうごと絶えず表面を蠢かせている。粘液に濡れてらてらと光る肌は生白く、そこかしこに人の顔じみたものがべとべとと浮かび、その隙間に手足や人体の各器官が悪ふざけのように配置されている。
裸の人間を無理に混ぜ合わせて捏ね上げたような有様だった。
ぶつりと表面に浮かんだ唇が動いて、
「──き、くん。ゆきくん、あたし」
名前らしきものを呼んだ、その途端。青年は悲鳴を上げて座ったまま後退った。
「間違いだったってそう思って、だからこうやってでも俺あれから寝られないしいつもお前のにおいがだって俺が、けど」
悲鳴交じりのうわ言が途切れた。
「──許してくれよ、亜夜」
その一言が聞こえたかのように、肉塊の目玉はどろりと青年を見た。
すぐさま南貝がカッターを投げつける。差し伸ばされた肉をひび割れた床に縫い付けられて、肉塊が咆哮を上げた。
「人のかたちではありませんが、人の部品があるので……ならば、まあ」
失礼しますと呟いて、橘岡が肉塊に刀を向ける。
一歩、二歩と無造作に間合いを詰めて──刹那、空間が哭いた。
肉塊の生白い肌の上、人の部品──二つの乳首があった場所を、残光が走る。
そこに黒々とした虚無の孔が開いた。そこから闇を吹き出し、肉塊はみるみるうちに縮む。
そうして、溶けるように夜闇に消えた。
「脚止めありがとうございます、南貝さん。助かりました」
抜いた刀をまた鞘へと戻しながら、橘岡は青年へと視線を向ける。
「橘岡さん。今のは」
「まあ、そういうことでしょうね」
南貝の言葉に頷いて、橘岡は言葉を続けた。
「ゆき君。殺しましたか」
青年は唸り声を上げた。
「……ほんの弾み、で。殺す気なんかなかったんだ。けど、けどあいつがあんまりにも」
だんと床を蹴る音がして、青年は息を飲む。
南貝は一度舌打ちをして、エンジニアブーツの爪先で再度床を蹴った。空虚な言葉をつらつらと並べる青年の言葉に苛立ったのだろう。
「御託はいい。意味がねえし興味もない──これだけすぐ答えろ、あんた自首する気は?」
青年が黙り込んだ。
きょろきょろと動く目玉がびたりと据わった途端、立ち上がり猛然と出口へと突進した。
南貝が跳んだ。
捲られた右腕、貼り付けられた札が弾け飛ぶ。
右手が閃く。
ぼたりと手袋を放り捨てたような音を立てて、青年の両掌が床に落ちた。
苦痛による喚声を上げながら、青年はその場に倒れ込む。
じわじわと滲む血だまりの中、千切れ飛んだ札の残骸が花弁のように舞い落ちた。
「便利ですね、それ。手刀ですか」
「文字通りにね。なんせ俺たち手首狩りですし、こうやって不意討ちみたいなことの方が向いてるんですよね」
手刀──術式及び儀式を以て腕に刃物及び武器としての属性を付与し、素手でありながら武器と同等の武力を保持できる、手首狩り一族の秘伝ともいえる技術だ。 南貝がそれを習得しているということは彼が一族の中では優れた使い手として認められていることの証明に他ならない。
だからこそ彼は橘岡の任務に同行することになったたのだろう。首狩り一族の役目として、それ以外の意図を抱いていたはずだ。
手首狩りの一族が、乳首狩りの一族の新たな当主──血首であるところの橘岡をどの程度のものか見定めるために。
南貝はひらひらと手を振ってから、捲っていた作業着の袖を丁寧に戻した。札が剥がれているのだから、今の彼の腕は刃物と同義だ。
いつでも抜刀できる体勢だけは保ちつつ、橘岡は南貝の出方を待つ。
南貝は深呼吸のように息を吐いて、橘岡に無防備に背を向けた。
「……これは俺個人の意見なんですけど、別にどうでもいいんですよね。手首狩りとか乳首狩りとか、大義とか。こうやって悪い連中が斬れれば、俺はそれで。役に立てるじゃないですか、世間様の」
「同意見です。個人的には」
橘岡の言葉に短い笑い声が返った。
「オフレコにしましょうね、お互い。俺みたいな下っ端はともかく、橘岡さんはもう当主なんですから……でも、面白かったっすよ。またお会いしたいくらいには」
とりあえず後始末どうしましょうと、びくびくと痙攣する青年の背を見下ろしながら、南貝は人懐こい目を橘岡に向けた。
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