第一章 万历与文臣的对决(下) 万暦と文臣の対決(下)
北京到洛阳千里之遥,福王朱常洵为了能沿途能发笔小财更是要求缓行。一天二十里的高速使得就藩的队伍像蜗牛一样爬行在大明的版图上。往往船队的头船早晨离开码头,晚上船队的尾船就又停靠在头船起程前的位置。
沿途各知府、知州、知县到也晓得福王是当今圣上和圣眷正隆的郑贵妃的宝贝疙瘩,因此也是竭力讨好。而沿途的监军太监、税监、矿监更是得到上面知会全力巴结。各地财物又纷纷向运河沿岸聚集,福王就藩的队伍也就愈发庞大。
福王朱常洵更是在沿途征发三万劳力做纤夫之用,沿运河两岸平民稍有不从王府官校便将其枭首,并将头颅做成京观以镇刁民。
在福王朱常洵的纵容下王府官校肆无忌惮,在运河两岸抢掠、奸淫做下累累恶行,也有些有良心的同知、县丞上疏朝廷。
“福王就藩一路摞掠,欺民之甚,堪比隋炀!毁民数十万,民心皆惧,望上惩治,以安民心,否,恐有民变!”
各上疏的同知、县丞还未等到惩治福王的圣旨,就被吏部的一纸公文给罢免了官职,更有一些给治了重罪。瞬间官吏们都明白了一个道理福王招惹不得,只能求神拜佛速速送走这个刹星。
“大哥,这福王手下的官校也太欺负人了,我等也是京营的兵士,圣上的亲兵。虽说圣上将我等调为王府仪卫,护卫福王爷的安危,可那王府的库大使竟说没有我等的粮饷。都说圣上甚爱福王,赏赐福王颇丰,兄弟们本想这次出京随福王就藩,怎么也混个出身,得些福王赏赐,发笔小财。但现如今连饭都吃不饱了,大哥再这样下面的兵士非哗变了不可啊!”
军营中两个把总围着千户龚孟春七嘴八舌的发着牢骚。龚孟春本是京营大汉将军帐下一名世袭百户,这次福王就藩他也是和手下打着同样的目的,花了不少银子才调到这王府仪卫里来,虽然官职是凭空升了一级,但因为不是王府心腹,却屡屡被责难。身上的银子在调令时已经花了个干净,现在也没有银子孝敬王府官校,现如今别的所的兵士去抢掠,只有他管辖下的官兵看护船队营盘。银钱没有落到一分,这气到是受了不少。如若下面的兵丁再哗变了那可就是掉脑袋的事了。
“别说了,我这就去王爷库大使那里求情,求些粮饷下来。”龚孟春黑着脸打住了两个把总的抱怨,愤然走出帐外。
“刘公公,您就发下善心吧,只要给下面的兄弟口吃的就好,下面的兄弟再没有吃的就要生出事端来了。到时候公公您也不好向王爷交代不是。”龚孟春也是个粗鄙之人也没有什么好的办法要粮只好威胁起库大使福王手下的刘全忠太监来。
“督!你这杀才,别的千户所却没有向你这厮一般来要粮,只有你这厮前来,定是你带兵不善,只知要饷不思报皇恩,还好说下面兵卒要哗变,今天定要治你育下不严之罪。拖出去,打三十军棍。”刘太监一是狠龚孟春没有给常例,二是王爷府大总管发下话来要抓一个军官来杀鸡儆猴以便王爷能彻底掌控这两卫兵马,因此刘太监不管不顾就将龚孟春拉下去打军棍。
龚孟春心说别的千户所能抢掠钱粮,自己却不能,但有口难开只能高呼无罪被拖了下去。
一顿好打将龚孟春打的皮开肉绽后由亲兵领回大营。龚孟春愤愤不平却也没有他法。
就在龚孟春回营后,片刻间一个小旗飞马出营,在最近的一个驿站将一个竹筒交给驿卒然后离去。而后从驿站中飞出一马北上而去。
竹筒最后放在兵部右侍郎何士晋的案头。竹筒内一张小条上面写着:“福王仪卫下千户龚孟春与福王库大使刘全忠太监不和,四月十九日索粮饷不成,被杖则三十。”
兵部右侍郎何士晋看完后将其放在一个小盒内,盒面上写着福王二字。
万历四十二年九月十日,福王总算浩浩荡荡祸害了五个多月,来到洛阳住进了福王府。
一路上靠其他千户所救济被打了一百三十军棍的千户龚孟春也病怏怏的住进洛阳卫所,他手下的兵卒也不像刚出京时的威风,一个个面黄肌瘦,兵卒也由出京时的一千一百二十减员到八百零六人。一路上竟然跑了三百一十四人。
千户龚孟春这里是愁容惨淡,那边也有小旗将他的情况一一报进京中,都锁在兵部右侍郎何士晋那写着福王的盒子中。
万历四十二年终于步入年末,福王就藩的第一年也收拾河南特产入京献贡,顺便查收自己在北京崇文门外官店的年利。
福王府库大使刘太监进京了。
北京城叶向高府邸,在书房中各部大臣齐举一堂。“叶老,这次福王府的乱子有定策了。”方从哲率先开口。“什么法子?”叶向高不解问道。“还是让武莪来说吧。”方从哲笑眯眯的看着何士晋。“叶老请看,一切皆在此子身上。”何士晋将一张小条递给叶向高。“呵呵,妙计妙计!此计若成宫中那妖孽也嚣张不了多久了。”“叶老,此计虽好但还要您老人家多多小心,看护好太子啊。”方从哲微微倾身小声说着。“老夫晓得,其他还要仰仗诸位臣工了。”叶向高眼睛微眯将手中的纸条凑在烛台上。
火焰瞬间燃着了纸条,叶向高松开手指燃烧的纸条飘落在炭盆里,没烧完的部分显出龚孟春三个字但很快就化为灰烬变成一缕青烟。
库大使刘太监在京中到是逍遥,这替福王爷上京献贡到是美差,就连万岁爷和郑贵妃都问了他好些子话,还厚厚的给了打赏。北京崇文门外官店的知事也都给准备了丰厚的常例。这不连兵部右侍郎都请咱家过府赴宴。
“刘公公请。”兵部右侍郎何士晋举这酒杯微微一敬“刘公公,在下一小妾的远房正在王府当差,还要请公公多多在王爷面前美言照顾才是。”“哦,何大人还有亲戚在王爷府中?不知担当何职姓什名谁啊?”刘太监猛的将眼睛睁大。“呵呵,公公,我那小妾的远房叫龚孟春,在王府王府仪卫司是个千户所千户。”何士晋手握酒杯眯着眼睛打量着刘太监。“哈哈,一定一定,这龚孟春咱家到是有些印象,是个知趣的人。哈哈”刘太监眼睛一转哈哈大笑一口答应心中却说:“哼哼!是这小子啊,我说敢不给常例,原来有这何士晋的后台啊,这何士晋当年正是赶我家王爷出京的首脑人物,也有求咱家的时候,哼哼,这消息要告诉王爷,不让龚孟春这小子去层皮,就显示不出咱家的手段。”何士晋看刘太监先是眼睛一转然后一口答应也是一颗心放在肚里笑着对刘太监微微一敬,“在下这里谢过刘公公了,哈哈,喝酒喝酒。”
万历四十三年四月八日,福王府库大使刘全忠从北京回到洛阳,当晚在王爷府秘议。
四月九日,王爷旨“千户龚孟春带兵不善,骄横跋扈杖责五十,库大使刘全忠监刑。”
四月十三日,在千户所一小旗向龚孟春秘报,库大使刘全忠因恨其不送常例欲将龚孟春治死罪!
四月十四日,千户龚孟春持棍在福王府中将库大使太监刘全忠击毙后指使士兵八百人哗变,大掠洛阳,致使洛阳平民死伤千人,焚烧民居百间,福王府大门也被乱兵砸碎。因河南府都指挥使卫庭芳所率部下迟迟未到,八百叛军在龚孟春的带领下出洛阳西门而去,有闻千户龚孟春为兵部右侍郎何士晋小妾远房,叛乱之事皆兵部右侍郎何士晋指使。经锦衣卫查证千户龚孟春京师人士并无亲戚。福王殿下被叛军所扰,惊吓过度一病不起。
当八百里加急的塘报送进京城放在万历皇帝面前的时候,万历皇帝一下子就将塘报摔在地上。在万历皇帝身边的郑贵妃将塘报捡起来一看就哭出声来:“我苦命的洵儿啊,刚出京就出了这么大的事情,这孩子只是心眼厚道不知在洛阳怎么被外人欺负呢,年里还派太监来报平安,要是不出这么大的乱子,还真不知道他竟然在外面被人欺负成这样。”
万历皇帝黑着脸咬牙切齿“这卫庭芳该杀!”
郑贵妃听万历皇帝这么说也恨恨道:“何止这卫庭芳,那朝堂上的大臣都该杀。”郑贵妃疯狂了。
“庞保、刘成,帮哀家去做见事。”郑贵妃在乾清宫下令,庞保、刘成领命下去。“哼!不能只是哀家的儿子受气,任你们搓圆揉扁。你们做初一,哀家做十五。落了哀家和皇上的脸面,哀家让你们的脸面掉在地上。也算给你们长长记性。”郑贵妃的脸因愤怒而扭曲着,说不出的恐怖。
万历四十三年五月初四日,一疯癫之人乘内市之机手持木棍闯进皇太子朱常洛居住的慈庆宫,击伤守门太监,太子内侍韩本用闻讯赶到,在前殿将其逮捕,押送致刑部。
经御史刘廷元审讯,此人名叫张差是蓟州井儿峪人,以打柴为生,曾在山上遇仙人,学屠龙之术,前些日有两太监引他入宫,并给酒他吃,让见人就打。供出庞保、刘成。
朝臣们纷纷上书,要求严查,矛头直指郑贵妃。时日王志、何士晋、张问达奏疏谴责外戚郑国泰“专擅”,请圣上下旨惩办。一时间朝堂上战火纷飞。
万历皇帝不得已召开朝会,最后以疯癫奸徒罪将张差处以凌迟,张差临刑时高呼仙师照会,他要上天成仙。京师百姓皆以其是疯癫狂人。
六月一日,万历皇帝密令太监将庞保、刘成处死,梃击一案结案。
传言五月十日,万历皇帝与郑贵妃驾临慈庆宫,从慈庆宫出来时万历皇帝面色颓然,郑贵妃面有泪痕,皇太子朱常洛神色安然。
六月十四日,万历皇帝对阁部关于梃击一案票拟批红外戚郑国泰“专擅”罚俸三月;河南府都指挥使卫庭芳懈怠军情,致使洛阳百姓受损,压入京中又刑部审理;福王府可领四卫兵马建拱卫营不受河南巡抚节制,开府,仿开国沐王例。
面对这个莫名其妙、和案件毫无关系又精彩纷成的批红,朝臣们惊呆了。万历皇帝的批红瞬间在洛阳开出了一个国中国来。朝臣像疯了一样阻止万历皇帝下这个旨意。这不是又会引起一场靖难么!
面对朝臣的反对,万历皇帝只是冷冷的说:“在京城天子脚下尚且有梃击案,危害太子性命。福王远在洛阳又受叛军骚扰,如不如此,我朱家就被杀干净了!”
朝臣相争无果,拒不执行万历的这道旨意。最后万历发中旨于福王,后以成事实不了了之。
万历四十三年,小冰河期出见威力北直隶久旱不雨、畿辅、山东大旱、湖广各地水旱频生。饿殍千里,易子而食。
万历四十三年六月,辽东总兵李成梁去世。
万历四十三年十一月,奴酋努尔哈赤在赫图阿拉把建奴原有的黄、白、红、黑四族中的黑旗改成蓝旗,并增加了镶黄、镶白、镶红、镶蓝,共八旗。奴酋努尔哈赤正式建立八旗制度,每三百人立一牛录额真,五牛录立一甲喇额真,五甲喇立一固山额真,固山额真左右各立梅勒额真。原有黄、白、蓝、红四色之旗,复增镶黄、镶白、镶蓝、镶红,共为八色,成八固山,约有六万之众。一个强大的强盗集团整合完成,初漏峥嵘。
内忧外患,大明危机已现。
北京から洛陽まで千里の遥、福王朱常洵は沿道で小金をもうけるためにさらに徐行を要求した。一日二十里の高速道路で就藩の隊列はカタツムリのように大明の版図を這っていた。往々にして船団の頭船は朝埠頭を離れ、夜には船団の尾船はまた頭船の出発前の位置に停泊する。
沿道の各知府、知州、知県は福王が今の聖上と聖眷正隆の鄭貴妃の宝物であることを知っていて、そのためにも全力を尽くして歓心を買う。また、沿道の監督軍太監、税監、鉱監は、上の知らせを得て全力で取り結ぶことができた。各地から財貨が運河沿いに集まり、福王就藩の隊列もますます巨大になった。
福王朱常洵はさらに沿道で3万人の労働力を集めて繊夫のために使い、運河沿いの両岸の庶民は王府官学から少しも離れていないと首を絞り出し、頭を京観にして民をいじめる。
福王朱常洵の放縦の下で王府官学は野放図になり、運河両岸で略奪し、姦淫して悪行を繰り返し、良心的な同知、県丞が朝廷を疎かにしたこともある。
「福王は藩について略奪し、民をいじめることは極めて、隋煬に匹敵する!民を破壊して数十万、民の心はすべて恐れて、処罰を望んで、民の心を安らかにして、いいえ、民変を恐れます!」
各上疎の同知、県丞は福王退治の聖旨を待たずに、吏部の公文書によって官職を罷免され、さらにいくつかの重罪を治した。一瞬にして役人たちは福王が怒らせてはいけないことを理解し、神に仏を拝む速さを求めてこの刹星を送るしかなかった。
「長兄、この福王の配下にある官学はあまりにもいじめる。私たちも京営の兵士で、聖上の親兵だ。聖上は私たちを王府儀衛に配属し、福王爺の安否を守ってくれたというが、その王府の庫大使は意外にも私などの食糧がないと言った。聖上は福王を愛し、福王を豊かに賜ったと言われている。兄弟たちは今回出京して福王に従って藩に就こうと思っていたが、どうしても出身を混ぜて福王の賜物をもらって小銭をもうけなければならなかった。しかし今ではご飯さえ食べているもうお腹がいっぱいにならないから、兄貴がこのように下の兵士を変えなければならないんだよ!」
兵営の中で2人はいつも千戸のゴン孟春を囲んであれこれ文句を言っている。ゴン孟春はもともと京営大漢将軍帳の下の世襲百戸で、今回の福王就藩も部下と同じ目的で、多くの銀を使ってこの王府儀衛里に異動したが、官職は空で1級に昇進したが、王府の腹心ではないため、しばしば非難された。身につけていた銀子は調令の時にきれいに使っていたが、今も銀子が王府官学に孝行していない。今では別の所の兵士が略奪に行き、彼の管轄下の将兵だけが船団の営盤を看護している。お金が一銭も落ちなかったので、ずいぶん怒った。もし次の兵士がまたガラガラになったら、それは頭を落とすことだ。
「言わないで、今から王爺庫大使のところに行って、食糧を求めてきます」ゴン孟春は顔を黒くして2つの将総の愚痴を打ち止め、憤然として帳簿の外に出た。
「劉義公、あなたは善心をしてください。下の兄弟に食べ物を与えさえすればいいのです。下の兄弟はこれ以上食べるものがないとトラブルが発生します。その時になっても義父は王に説明しにくいのではないでしょうか」ゴン孟春も下品な人であり、食糧を得るには何の方法もないので、庫大使福王の部下である劉全忠太監を脅かすしかなかった。
「督!あなたのこの殺才、他の千戸所はあなたのこの野郎に一般的に食糧を求めに来ていない、あなたのこの野郎だけが来て、きっとあなたが兵を率いて不善で、ただ皇帝の恩を報いることを知らなければならないことを知っていて、また次の兵卒は騒然としなければならないと言って、今日はあなたが不厳な罪を育てたことを治しなければならない。引きずり出して、30軍の棒を打つ」劉太監の1つは厠龚孟春が常例を与えなかったこと、2つは王爺府の大総帥がこの2つの衛兵馬を徹底的にコントロールできるように将校を捕まえるために発言したことで、劉太監は放っておくことなくGONG孟春を引きずって軍棒を打った。
ゴン孟春心は他の千戸が食糧を奪うことができると言ったが、自分はできなかったが、口が開けにくいので無罪を叫んで引きずられた。
好打でゴン孟春が打った皮をほころばせた後、親兵が大隊に引き取った。ゴン孟春は憤慨しても他の方法はない。
ゴン孟春がキャンプに戻った後、しばらくの間小旗が飛び出し、最寄りの宿場で竹筒を宿卒に渡して立ち去った。そして宿場から馬を飛び出して北上した。
竹筒は最後に兵部右侍郎何士晋の机の上に置かれた。竹筒の中の小さなメモには、「福王儀衛下千戸GONG孟春と福王庫大使劉全忠太監は不仲で、四月十九日に食糧を求めてもだめで、杖をつけられても三十になる」と書かれている。
兵部右侍郎何士晋はそれを見終わった後、小さな箱の中に入れた。箱の面には福王の二文字が書かれていた。
万暦四十二年九月十日、福王は何とか五ヶ月以上もの間、洛陽に来て福王府に住んでいた。
途中で他の千戸所に助けられて百三十軍の棒を打たれた千戸GONG孟春も病んで洛陽衛所に住み込んだが、彼の部下の兵卒も上京したばかりの威風には似ておらず、顔が黄色く筋がやせており、兵卒も上京時の千百二十から八百六人に減員された。途中でなんと314人も走った。
千戸GONG孟春ここは憂い顔で惨憺たるもので、あちらにも小旗が彼の状況を一つ一つ京に報告し、兵部右侍郎何士晋那の福王と書かれた箱の中に閉じ込められている。
万暦四十二年がついに年末に入り、福王は藩の初年度にも河南の特産品を片付けて上京して貢ぎ、ついでに北京の崇文門外官店での自分の年利を調べた。
福王府庫大使の劉太監が上京した。
北京城葉向高邸は、書斎の中で各部大臣が一堂に会した。「葉老、今度は福王府の乱子に決まった」方従哲が率先して口を開いた。「どんな方法ですか」葉は高さに向かって尋ねた。「武に言わせてくれ」方従哲は何士晋をにこにこ笑って見ていた。「葉さん、見てください。すべてはここにあります」何士晋は葉向高に小さな棒を渡した。「ほほほほ、妙案妙案!この計が宮中の妖しい罪になっても長くは続かない」「葉老、この計略はいいですが、お年寄りは気をつけて、太子の世話をしてくださいね」方従哲は体を少し傾けて小声で言った。「先生は、他にも臣工の皆さんに頼っていることを知っています」葉が高く目を細めて手にしたメモを燭台に寄せた。
炎は一瞬にしてメモを燃やし、葉は高松に向かって指を開いて燃やしたメモが炭鉢に舞い降り、燃え残った部分にはゴン孟春の3文字が現れたが、すぐに灰になって青煙になった。
ク大使の劉太監は京中で逍遥に着いたが、この福王爺の上京のために献上したのは美差で、万歳爺と鄭貴妃まで彼にたくさんの子話を聞いて、厚く賞を与えた。北京崇文門外官店の知事も、豊富な常例を用意している。これは兵部右侍郎でさえ私たちの家を招待して宴会に招待したわけではない。
「劉公どうぞ」兵部右侍郎何士晋はこの杯を挙げて軽く一敬した。「ああ、何様と親戚はおじいさんの家にいますか。誰という名前で何を担当しているのでしょうか」劉太監は目を大きく開けた。「ふふ、義父、私の妾の遠縁はゴン孟春と申します。王府王府儀衛司では千戸所千戸です」何士晋は杯を手にして目を細めて劉太監を見ていた。「ははは、きっと、このGONG孟春は私たちの家には少し印象があって、面白い人です。ははは」劉太監は目を回して大笑いして心の中に答えた。「ふんふん!この野郎だよ、常例にはしないと言ったが、この何士晋の楽屋があったのか、この何士晋は当時私の家の王爺を追い出した首脳人物であり、私たちに頼んだ時もあった。ふんふん、このニュースは王爺に伝えなければならない、ゴン孟春という小僧に皮を張らせないと、私たちの手段を示すことができない」何士晋は劉太監を見てまず目を回してから一言承諾したのも心を腹に入れて笑って劉太監に少し敬い、「ここで劉公に感謝したことがある、ははは、酒を飲む」。
万暦四十三年四月八日、福王府庫大使の劉全忠は北京から洛陽に戻り、その夜に王爺府で密議した。
4月9日、王爺旨は「千戸GONG孟春は兵を率いて不善で、傲慢で跋扈して杖を責めて50、庫大使の劉全忠は刑を監督した」と述べた。
四月十三日、千戸所一小旗でGONG孟春秘報に、庫大使の劉全忠は常例を送らないことを恨んでGONG孟春を死罪にしようとした!
四月十四日、千戸のGONG孟春は棒を持って福王府で庫大使の劉全忠太監を射殺した後、兵士八百人を騒然とさせ、洛陽を大いに略奪し、洛陽の庶民を千人死傷させ、民家百間を燃やし、福王府の門も乱兵に破壊された。河南府都指揮使衛庭芳が部下を率いて遅れて到着しなかったため、八百反乱軍はGONG孟春の指導の下で洛陽西門を出て行き、千戸GONG孟春が兵部右侍郎何士晋小妾のために遠家したと聞いて、反乱のことはすべて兵部右侍郎何士晋が指示したと聞いた。錦衣衛を通じて千戸のGONG孟春京師の関係者には親戚がいないことを検証した。福王殿下は反乱軍に邪魔され、驚きのあまり一病も起きなかった。
八百里の急ぎの塘報が都に送られて万暦皇帝の前に置かれると、万暦皇帝は一気に塘報を地面に落とした。万暦皇帝のそばにいた鄭貴妃は塘報を拾ってみると、泣き出した。「私の苦労した洵児よ、京を出たばかりなのにこんな大きなことがあったなんて、この子は洛陽でどのように外部の人にいじめられているのか分からないと思っているだけで、年中太監を派遣して平安を報告しているのに、こんな大きな騒ぎがなければ、外でこんなにいじめられていたとは知らなかった」。
万暦皇帝は顔を黒くして歯を食いしばった。「この衛庭芳は殺すべきだ!」
鄭貴妃は万暦皇帝の言うことを聞いても、「この衛庭芳だけでなく、あの朝堂の大臣も殺すべきだ」と恨んだ。鄭貴妃は気が狂った。
「ポンポ、劉成、哀家の面会を手伝う」鄭貴妃は乾清宮で、ポンポ、劉成が命を落とした。「ふん!哀家の息子がいじめられているだけではいけない。あなたたちは初一をして、哀家は十五をしている。哀家と皇上の顔を落として、哀家はあなたたちの顔を地面に落としている。あなたたちにも記憶力を与えている」鄭貴妃の顔は怒りで歪んでいて、何とも言えない恐怖だった。
万暦四十三年五月初め四日、気が狂った人が内市の機に乗って木の棒を持って皇太子朱常洛が住んでいた慈慶宮に侵入し、守門太監を撃った。
御史劉廷元の尋問を経て、この人の名前は張差というアザミ州井児峪人で、薪を打って生計を立て、山の上で仙人に出会い、屠龍の術を学んだことがあり、先日2人の太監が彼を宮中に引き入れ、酒を飲ませると、人に殴られた。ポンポ、劉成を供出する。
朝臣たちは次々と本を出し、厳正な調査を求め、矛先は鄭貴妃に向けられた。時の王志、何士晋、張問達奏疎は外戚の鄭国泰を「専ら得意」と非難し、聖上下の旨で処罰してもらった。一時は堂の上に向かって戦火が飛び散った。
万暦皇帝はやむをえず朝会を開き、最後に狂気奸徒罪で張差を凌遅に処し、張差は刑期に仙師を叫んで照会し、彼は天成仙に上ろうとした。北京師団の人々はみなそれを狂気の狂人だと思っている。
6月1日、万暦皇帝は太監にポンポ、劉成を処刑させ、事件を結審させた。
五月十日、万暦皇帝と鄭貴妃が慈慶宮を訪れ、慈慶宮を出た時、万暦皇帝は退廃した顔をしていたが、鄭貴妃は涙の跡があり、皇太子朱常洛は穏やかな顔をしていたと伝えられている。
6月14日、万暦皇帝は閣部に対して紅外戚の鄭国泰を「得意」と評して3月を罰した。河南府都の指揮は衛庭芳に軍情を怠らせ、洛陽の庶民を損害させ、京中又刑部に圧入して審理させた、福王府は四衛兵馬建アーチ衛営を率いて河南巡撫節制を受けず、開府し、開国沐王例を模倣することができる。
このわけのわからない、事件とは関係のない素晴らしい批判に、朝臣たちは驚いた。万暦皇帝の赤い批判は一瞬にして洛陽に中国を開いた。朝臣は万暦皇帝のこの意図を狂ったように阻止した。これはまた靖難を引き起こすのではないか!
朝臣の反対に対して、万暦皇帝は冷ややかに言っただけだ。「京城天子の足元にはまだ打撲事件があり、太子の命に危害を及ぼしている。福王は洛陽で反乱軍の嫌がらせを受けたが、そうでなければ、私の朱家はきれいに殺された!」
朝臣の争いは実がなく、万暦のこの目的を実行しないことを拒否した。最後に万暦は福王に旨を発し、後に事実となってうやむやになった。
万暦四十三年、小氷河期に威力を発揮した北直属の長い干ばつ、畿輔、山東大干ばつ、湖広各地の干ばつが頻発した。腹が減って千里も飢えていて、容易に食べられる。
万暦四十三年六月、遼東総兵の李成梁が死去した。
万暦四十三年十一月、ヌルハチはヘトゥアラで建奴元の黄、白、赤、黒の四族の黒旗を青旗に変更し、黄、白、赤、青を加え、八旗を増やした。ヌルハチは正式に八旗制度を確立し、300人ごとに牛録額真を立て、五牛録立一甲拉額真、五甲拉立一固山額真、固山額真左右各立梅勒額真を立てた。元は黄、白、青、赤の4色の旗があり、再び黄、白、青、赤を増やし、8色とし、8固山となり、約6万人の人々がいる。強大な強盗グループの統合が完了し、初めて漏れた。
内憂外患、大明の危機が来た。
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