第8話 一回目の人生 リンディは10歳(1)


「お帰りなさい、ルーファス」


 今年から名門王都学園の姉妹校、王律学園中等科に通い始めた自分を、毎日玄関で迎える二番目の母親。

 何かを書いている途中だったのだろうか……その手にはペンが握られている。


 にこにこと笑顔を向けるこのフローラという女性は、亡くなった本当の母とはあらゆる点が異なっていた。

 王家の血を引いており、寡黙で淑やかだった元母に対し、この新しい母は行動も表情も忙しない。

 一言で言うならば、全身で“生”を表現している様な、活力に満ちた女性である。


 だが、決してそれを人に押し付けたり、強要することはない。

 初めて出会った時から居心地が悪くなかったのは、自分を尊重してくれていた為だろう。(その時期の記憶がやや曖昧ではあるが)


 現在は公爵である父を支える傍ら、家庭教師の経験を活かし、子供の為の新しい教材づくりに没頭している彼女。

 教師と生徒の関係は、母親と息子に変わったが、特に息苦しさや不便さを感じることもなく、早五年の月日を共に暮らしていた。



 チラチラと周りを見るルーファスに、フローラは言う。

「ああ、そうなの。リンディったらなかなか帰って来なくて……多分またあそこだと思うわ。もうおやつなのに」

「迎えに行きましょうか?」


 フローラの顔がぱっと輝く。

 彼女の中で、もはや“リンディ使い”の異名を持つルーファス。今回も安心して仕事を託すことが出来た。




 クリステン公爵邸から歩いて15分程の所にある海。

 この海を一望出来る場所に、デュークによって建てられた東屋。

 今日も此処で、リンディは長いくるくるの金髪を潮風になびかせていた。


 キャンバスに描かれるのは、大きな貝殻に眠る美しい人魚。その周りには、青い波と赤い空が交互に広がり、紫色の光を放っている。


 海辺で幻想的な絵を描く美少女は、この辺りのちょっとした名物だ。

 今やクリステン公爵令嬢であり、護衛も付いている彼女に気安く話し掛ける者は居なかったが、遠巻きにうっとりと見惚れる人影は絶えなかった。



 東屋へ向かう途中、ルーファスは白い砂浜からリンディを見つめる少年達に気付く。


 あの制服は……自分と同じ、王律学園の中等科か。


 ルーファスがひと睨みすると、少年達は慌てて駆けて行った。


「リンディ」

 筆先に集中しているのか、呼び掛けても返事がない。

 彼女の視線の先に静かに回り込み、もう一度呼び掛ける。

「リンディ」


「……お兄様!」

 満面の笑みを浮かべ立ち上がったと同時に、膝がテーブルにぶつかり、筆洗いのバケツが倒れた。

「ひゃあっ」

 クリーム色のエプロンに、色水が滲んでいく。


 ルーファスは慣れた手付きで彼女からエプロンを外すと、ハンカチでワンピースに染みた水分を拭き取っていく。

「またやっちゃったわ」

「紺色だからあまり目立たないよ……はい、もういいよ」

「ありがとう。絵にかからなくて良かった」


 バケツを片付けながらキャンバスを見ると、昨日は貝殻と人魚だけだった絵に、美しい背景が生まれていた。

「綺麗だね」

「この赤、お兄様の瞳の色にしたかったんだけど、難しくて。上手く出せたかな」

「どうだろう。自分の色はよく分からないけど……この青と相性がいいと思うよ」

「それなら良かったわ」

 にこにこと母親譲りの笑顔で道具を片付け始める。



 リンディの想像力は、とてもスケッチブックでは受け止め切れないと判断したデュークは、こうして大きなキャンバスを幾つも用意した。

 だがリンディは未だに、何処へ行くにもスケッチブックと色鉛筆を持ち歩く。


 片手にスケッチブック、片手にルーファスの手。

 幼い頃から変わらないリンディのスタイルだ。


 リンディの護衛兵が慣れた様子でキャンバスを抱え、ルーファスの兵が二人を守る様に付いて行く。


「今日のおやつは何?」

「苺のショートケーキだって」

「やったあ!」

 ブロッコリーに次いで好きなショートケーキ。リンディは手を握ったままスキップする。


 変わらないな……


 微笑むルーファスに、リンディは突拍子もないことを言う。

「ねえ!もし大好きな物同士がくっついたらどうなるかなあ?苺とブロッコリーのショートケーキとか」

 ルーファスの顔がひきつる。

「……どうだろう。ただ苺の隣に乗せるだけだと、ブロッコリーが主張し過ぎるんじゃないかな」

「そっかあ、見た目は絶対素敵なのにね。じゃあスポンジに混ぜてみる?」

「どうだろう。ブロッコリーの粒々がスポンジの食感を邪魔するかも」

「そっかあ、潰して絞った汁なら大丈夫かな。生クリームに混ぜるとか。色も綺麗だわ、きっと」


 ……想像するだけで吐きそうだ。

 ルーファスはさらっと話題を変える。

「今日算数の追試だったよね?どうだった?」



 中等科入学前のルーファスと同じく、リンディも家庭教師(フローラ・フローランス改めフローラ・セドラー先生)から勉強を教わっている。

 実の娘であろうと容赦せずビシビシ教える教師は、試験の採点にも超シビアで、合格点を取るまで永久に追試を受けさせる。


「全然解らなかった!だって覚えていた問題と数字が違うんだもの」


 リンディの学力は、科目ごとの差が激しかった。

 記憶力は非常に良く、歴史や地理などは得意。

 表現力にも長けていて、作文もなかなか素晴らしい。


 一方、壊滅的に苦手なのが算数だった。

 彼女曰く……頭の中で数字は1から順に上に上がっていく。上に上がれば上がる程霧がかかり、100以上は完全に見えなくなってしまうと。

 数式を暗記することは出来るが、計算が上手く出来ないのだ。また、式の応用も出来ない。

 ちなみに彼女が追試を受けているのは、7~8歳相当の算数である。


「問題を丸暗記しても解けないよ。数字は毎回変わるから」

「どうして変わっちゃうんだろう。いつも同じだったらいいのに」

「それじゃ計算の試験にならないからね。……暗記の試験だったら満点なのにな」

 ルーファスは、難しい顔をするリンディの頭を優しく撫でた。


 こうしてルーファスに撫でられると、頭の霧が晴れていく様で。いつか100以上の数字も見える様にならないかな……と、淡い期待を込めて、その手にすりすりと頭を寄せるのであった。




 あまり人混みが好きではないルーファスは、徒歩の時は大通りを避け、遠回りをしても裏道を歩く。

 だが今日は裏道も何やら騒々しい。


「割引券ありますからね~良かったら覗いてみて下さい」

 どうやら大通りに新しくオープンする店のスタッフが、チラシを配っているらしい。


 さっきまでは居なかったのに……顔をしかめ、早足で歩く。


「はい、お嬢さんもどうぞ」

 リンディに差し出されたチラシを、ルーファスは警戒しながらパシッと受け取った。

 その瞬間、チラシの上に浮かび上がる、店の地図と商品の立体像。

 光の魔術とはまた違う、何かしらの魔力だ。


「すごい!!」

 リンディは興奮してルーファスの手をぱっと離し、その立体像に手を突っ込んでみる。

「リンディ!」

 ルーファスは慌ててチラシを折り畳む。すると何事もなかった様に、それは消えた。


「驚いたかい?魔道具で刷ったチラシだよ」

「魔道具?」

「ああ。うちは珍しい魔道具を扱う店なんだ。玩具から実用品まで安く取り揃えてあるよ。よかったら見においで」


 リンディの喉から、ひゅうっと息を吸い込む音が聞こえる。

 まずい……これは。


「行く!!」


 ルーファスが彼女へ伸ばした手は、あと数センチ届かず空を切る。

 リンディは叫び声と共に、大通りへ向かい駆け出していた。

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