第4話 一回目の人生 リンディは5歳 (4)
クリステン公爵家の令息、ルーファスは非常に賢かった。難しい公式を直ぐに理解し、記憶力も良い。
ただ、突然ペンを持つ手がピタリと止まり、何を問い掛けても反応が失くなる。
リンディが何か他のことに夢中になるのとは異なり、彼は全ての情報をシャットアウトしている様に見えた。
そういう時は勉強を中断し、フローラは気長に彼が戻って来るのを待つことにした。
また、最初の挨拶以外に彼の声を聞くことはなかった。
否定の時は首を微かに振り、肯定の時は微かに頷く。後は問題の答えを書き込む際の筆談だけである。
母親を失くした為と聞いていたけど……もう二年も経つのに。
相当なお母さん子だったのかしら。
僅か7歳の子供がここまでになるには、何か他に事情がある気がするが、他人様の家庭に足を踏み込んではいけない。
自分に依頼されたのは、この子の勉強を見て成績を上げる。ただそれだけなのだから。
中庭の池で金魚を描きながら寝落ちしたリンディを、フローラはそっとベッドまで運び一息つく。
拾い集めた色鉛筆を箱に並べていると、黒色だけが異様に短くなっていることに気付いた。
こんなに減るのは、あのおたまじゃくし事件以来だ。今度は一体何を描いているのかしら……とスケッチブックを見ようとするも、それはすやすやと眠る彼女の腕に抱かれている。
「失礼致します」
モリーが洗濯物を手に、静かに部屋に入って来る。
「お嬢様、お休みになられたんですね」
リンディの寝顔を見てにこりと微笑む。
「ありがとうございます。いつもすみません」
「いいえ、お嬢様と遊ぶのはとても楽しいですよ。時間や空間、常識からも全て解放される様な、不思議な体験が出来ます」
そんな風に言ってくれるのは、此処の主人であるクリステン公爵と彼女くらいだ。
この先どうなるかは分からないが、かたつむりが繋いだこの縁に、フローラは深く感謝していた。
「あ……モリーさん」
「はい、何でしょう?」
「黒い色鉛筆が減っているのですが、リンディが何を描いていたかご存知ですか?」
「ああ、最近よくお庭で
「烏……よく飛んでるんですか?」
「私はあまり見ませんが、お嬢様の想像力はそれは素晴らしいものですから。絵を幾つか拝見して、私大変感動致しました。個展を開きたいくらいです」
想像力ね……烏に見えるものって何だろう?
「先日お伝えしましたが、明日はルーファス坊っちゃまの8歳のお誕生日です。旦那様より、昼食をご一緒にとの指示を受けておりますので、お時間迄にお嬢様と食堂へお越し下さい」
「承知致しました」
「お二人のお召し物は、クローゼットからお好きな物をご着用下さいとのご伝言です」
“食”と“住”だけでなく“衣”まで。こんなに至れり尽くせりで良いのだろうか。
フローラは涎を垂らしながら眠る娘に目をやる。
一緒に食事か……リンディと坊っちゃまが会うのは初めてだわ。何か失礼がなければ良いのだけれど。
明日でクビなんてことになりませんように……こんなに良い職場を失いたくないわ。
手を固く組み、神に祈るフローラ。
……何だかよく分からないけれど、とりあえず烏には気を付けよう。
翌日、昼食の時間が迫っているというのに、中庭の池から動かないリンディ。
困ったわね……食堂に池を持っていく訳にはいかないし。
「お嬢様、こちらを金魚のお家にされてはいかがですか?」
モリーの手に抱かれた美しい硝子の鉢を見て、リンディは目を輝かせる。そして池に向かい、水に顔を付ける勢いで叫ぶ。
「エリザベス!このお家はどう?とても素敵だと思うけど」
今度は耳を水に向け、何やらうんうんと頷く。
「これに住みたいって!」
「それはようございました。エリザベス達にも、一緒に食堂で美味しいお食事を召し上がって頂きましょう」
モリーは手際よく、柄杓でエリザベスらを鉢に入れると、フローラにこそりと耳打ちする。
「旦那様にはお許しを頂いてますので」
フローラはほっと胸を撫で下ろした。
普段服に興味を示さないリンディが、「カラス!」と興奮しながら選んだのは、黒い光沢のあるオーガンジーに、赤い薔薇の飾りが付いたワンピースだった。
やはり彼女の、現在の最大の興味は烏らしい。食事会が終わったらスケッチブックを見せてもらおう。
そう考えながら急いで着替えさせると、鉢を抱き食堂へ向かう。エリザベスらに夢中になってくれていたおかげで、長い廊下を何とか脱線することなく食堂に辿り着いた。
食堂には既に、
「遅くなり申し訳ありません」
主人より遅れて到着するなど何たる失態。ああっと悶(もだ)えそうになるフローラに、主人であるクリステン公爵ことデュークは静かに言った。
「……そんなに眉間に皺を寄せて頂かなくても大丈夫です。少し早く来ただけなので。どうぞお掛け下さい。あ……鉢置きスペースも用意しましたので、お嬢さんはどうぞそちらの席に」
テーブルを見れば、子供用の背の高い椅子の横に、小さな台が用意されている。
なんという配慮!これなら鉢に集中している間に食事を済ませられる(もう最悪リンディは食べなくてもいい)し、万一鉢をひっくり返しても被害はあの台の上だけで済む。フローラは感激のあまり泣きそうになった。
「ありがとうございます!さ、リンディご挨拶を」
「カラス!!」
…………え?
気付けば隣にいた筈のリンディは、ルーファスの元へ行き、彼の顔を指さしている。
「赤い目のカラス!」
カラス……烏……カラス
フローラはひゃっと声にならない悲鳴を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます