第3話 一回目の人生 リンディは5歳 (3)


「ご子息の……?」

「はい。私には7歳の息子がおりまして。その子を教えて頂きたいのです。……少々お待ち下さい」


 男性は一旦部屋を出ると、一冊のノートを手に戻って来た。

「息子の成績表です。初めて家庭教師を付けた3歳の頃から記録したものです。どうぞご覧下さい」

 パラパラと捲ったそれには、月に一回、科目ごとの丁寧な記録が記されている。

「非常に優秀なお子様ですね。ご年齢より2~3歳程上の知能をお持ちだと思われます。ただ……」

「はい。5歳から成績が不安定になりました。母親を亡くしたことで、精神が不安定になったのです。今でも同じ歳の子供の中では優秀な方ですが、やはり以前に比べると」

「そうですか……カウンセリングは受けられていますか?」

「はい。ですがあまり効果が見られません」

「私は心理学を専攻していた訳ではございませんので、お役には立てないと思いますが」

「いえ、ただ普通に勉強を見て頂ければ良いのです」


 男性は、かたつむりの殻をツンツンと突っつくリンディを、チラリと見る。

「貴女方親子は、今までに私が出会ったことのないタイプの人間です。私が初めて自分の帽子にかたつむりを入れた様に、息子も貴女方と接することで何かが変わるかもしれません」

 そして、メモとペンを取り出すとサラサラと何かを書き、フローラに手渡す。

「ひと月の給与はこの位でいかがでしょうか?」


 ……ん?


 フローラは思わず、その額面を二度見する。

 一、十、百……何かの間違いではなかろうか。

「あの……こちらの金額から、食費と家賃が引かれるのでしょうか?」

 これだけ立派な屋敷だ。高級ホテル並みの宿泊料を頭に浮かべ、フローラはゾッとした。

「いえ。食料も部屋も余っておりますので。象や熊の様な特別な食欲をお持ちでない限り、特にお支払い頂く必要はありません。成績が上がった場合は別途報酬もお支払い致します」


 メモがくしゃっと潰れる程、両手を固く握りプルプルと震え出すフローラ。やったー!!と叫び出したい気持ちを抑え、くるりと後ろを向くと、小さなガッツポーズを繰り出した。

 精神を病んでいるという令息の教育に不安がない訳ではない。ただ、何事も取り敢えずはやってみようというのが、彼女のモットーであった。


「……もし貴女に不都合がない様でしたら、早速契約させて頂いてもよろしいですか?」

「ええ!不都合など一切ございません!明日からでも……いえ、流石に荷物をまとめたいので、明後日からでもよろしくお願い致します」

 フローラの迫力に呆気に取られた男性は、唇の端から一瞬フッと息を漏らすと、若干声を震わせながら言った。


「申し遅れましたが……私の名は、デューク・セドラーと申します。こちらこそよろしくお願い致します」


 セドラー……セドラー家。もしや、クリステン公爵!?

 王家の血を引き、代々宰相を務める家系だ。

 勉学一筋で、社交界や貴族のあれこれに疎いフローラでも知っている。そういえば、首都ではなく隣町に住んでいると聞いたことがあった。

 目と口をパクパク開く金魚の様な彼女に、とうとうフフッと笑い出すデューク。その声にフローラは我に返り、初めてまじまじと彼の顔を見つめる。

 流れる金髪。計算して描かれた様な、左右対称の整った顔。

 高い鼻の上に光るルビー色の瞳は、美しいのにどこか哀しかった。






 あの後無事に契約を済ませたフローラは、僅かな荷物とリンディを手に、意気揚々とクリステン公爵邸を再び訪れた。

 年配の召使により通された部屋には、中庭と呼ぶには立派過ぎる程の庭が付いており、ブランコや砂場などの遊具から、金魚が泳ぐ浅い人工の池までが設置されていた。

「うおおおお!!」

 リンディは目を輝かせると、令嬢(一応)らしからぬ雄叫びを上げ、一目散に庭へ走っていく。


 その様子を笑顔で眺める召使は、フローラへ向くと言った。

「私は、旦那様の命でリンディお嬢様のお世話係となったモリーと申します。よろしくお願い致します」

「よろしく……お願い致します」

 子供を見に来た家庭教師が、自分の子供の世話をしてもらって良いものだろうか。

「リンディ様のことはどうぞ私にお任せになって、坊っちゃまのお勉強を見て差し上げて下さい」

「ありがとうございます。ただ……あの、あの子は少し個性的な子供でして。お手を煩わせてしまうかもしれませんが」

「大丈夫ですよ。私の娘も少々個性的な子供でしたので、取り扱いには慣れております。」


 どんと胸を叩きながら言うモリーには後光が差している。フローラはその肉厚の手を、期待を込めて強く握り締めた。





 中庭から動かないリンディをモリーに任せ、フローラはデュークと共に令息の元へ向かう。

 案内された室内には、7歳にしては大きめの少年が、窓辺に立ち外を眺めていた。

 物音に気付くとゆっくりこちらへ向く。

「ルーファス、今日から勉強を教わるフローラ・フローランス先生だ。ご挨拶しなさい」

 人に紹介されるのを聞くと、改めて可笑しな名だと思う。しかしルーファスと呼ばれたその少年は、眉毛一つ動かさずに淡々と言った。


「ルーファス・セドラーと申します。よろしくお願い致します」


 カラスの羽の様な黒髪に、デュークと同じルビー色の瞳。だが父親と違い、その瞳は無機質で、何の感情も窺えなかった。

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