転
「いかないで」
言いたかったいつかの言葉は、どこにも届く事なく空気に溶けて消え入る。目の前の白い天井にすらにも。ただ、ウチの心に取れない染みをつけるだけ。
言ったらどうにかなるものじゃなかった。シトネ先輩は卒業してしまうし、企業の跡取りとしてのしがらみもある。きっとこうするのが賢い選択だったとは今でも思ってる。
――シトネ先輩は、ウチにとってどういう存在だったんだろう。
友達だったと言えるほど、顔を合わせてはなかったと思うし。かといって良い後輩だった、なんて軽く言える関係でもなかったと思う。
だからきっと、それもあったんだと思う。ウチがシトネ先輩に何も言えなかったのは。そして今も、鴨ノ橋さんの手紙を見る事ができずにいるのは。
少しだけ考えたことがあったから「この手紙がもしもシトネ先輩の書いたモノだったら」なんて事を。少なくとも鴨ノ橋さんが書いたと考えるよりは、辻褄が合うような気がして。
仮にもし、シトネさんがすでに卒業している事を知った上で、そんな不在に人物に手紙を届けさせる理由があるとしたら、それを届けるウチらこそが鴨ノ橋さんの本当の目的に他ならない。
それなら、手紙の中身を見て欲しかったと考えるのが自然だ。鴨ノ橋さんにウチらと面識はない。だけど、面識のあるシトネさんが、ウチに宛てたのだとしたら納得のいく話だと思う。そう、鴨ノ橋さんを経由する形で。
ゆったりと顔を横に倒す。まだ片付けていない大皿がテーブルの端で積み重なっているのが見える。そこに紛れ込んだ封筒も。
きっと見るべきだ。
見て何が正しいのか、間違ってるかを判断するために。なのに――。
「会いたい」
ウチはまた虚空に目を向けた。それから程なくして涙が頬を伝う。
それからウチは目を閉じた。どうせ、分かっても分からなくても同じだし。この気持ちは、正しいかどうかじゃ覆らないから。
でも、それは叶わなかった。めちゃくちゃ近くで聞こえてきた「やっほー」という声で、ウチは跳ねるように飛び起きてしまったから。
「泣き顔もかわいいね」
さも当然のように部屋にいるミコを見て慌てて目元をぬぐう。もう遅いとは思いながらも。 いや、だって、え? 泣き顔って事は少なくとも「会いたい」ってセンチメンタルな独り言してたの見られてたって事? てか、そもそもウチ、ちゃんと部屋に鍵かけてたハズだよね? は? どうやって入ってきたコイツ。またハシゴとか?
ぐちゃぐちゃになった頭のまま考えてもまとまらなくて、するとミコが手のひらから「じゃーん」と一本の鍵を出した。それを見て気づく。この前ウチがピザを作ってる時に、スペアキーを持ち出したんだって。
とりあえず文句の一つでも言おうと「あんた――」と口に出しかけたところで、ベッドに飛び込んできたミコに押し倒される。そしてそのまま唇を奪われた。
こうやってマウントを取った時の最近のミコは、いつも最初に舌の裏を舐めてくる。
温泉の入浴剤が秘訣といつも豪語している、ぞっとするほど綺麗なミコの肌にも自然と目が行った。
ベッドの上でもがきながら、人の体の事を許可なく学習し始めた女に「シネ」とは思うけど、だんだんそんな敵愾心も薄れていって、少しずつ「気持ちいい」ばかりが頭の中にあふれてくる。
ウチが腕にもう力が入らなくなってきた頃に、やっとミコは口を離す。それから紅潮したかおで、妖しき笑ったあと舌なめずりをして、またそれからウチの口に吸いついてくる――ハズだった。
その代わりに「会いたいって誰の事?」と、飛んできた質問にウチは一瞬なにを聞かれたのか分からなかった。それから「シトネ先輩?」と口にしながら、パジャマからはだけた肩にミコが口づけをしてくる。ウチは声を上げるのを我慢しながらたまらずうなずいた。
「だよね、初めて会った時のクーちゃん、寂しそうだったもん」
そうかもしれない。ツカサも陸上部で忙しくて、もう図書室に行く理由もなくなったウチは、ただ暇を持て余していたと思う。ううん、暇とかじゃなくて、きっと――。
「ねぇ、アタシじゃダメ? アタシじゃクーちゃんの穴を埋められないかなぁ」
耳元でミコが嘯く。手をウチのふとともの内側に這わせながら「もっと気持ちよくしてあげるんだけどなー」とも付け加えた。その言葉に、あるいは声に体がブルりと震える。
たしかに、それがいいのかもしれない。事実ウチは、ミコといる間は先輩の事を思い出した事もない。だからきっと、ミコに流されてしまうのも一つの幸せなのだと思う。でも――。
うちは残った力で首を横にブンブンと振る。ミコはそれが分かってたかのように、晴れやかな笑顔を浮かべる。それから「そっか」とだけ口にして、ベッドから降りていった。
手近なベッドのシーツを胸元に引き寄せたウチは「襲われると思った」と、目元をぬぐいながら絞り出した悪態を辛うじて口にする。
それから「遊びなら襲ってたけど、クーちゃんのこと本気だからねー」と切り返してくるミコに、ウチはまたもや顔を熱くした。それから「今日はおっぱいちょっと触れたからヨシ!」と余計な事を付け足したミコの顔面に、うちは足元のスリッパを投げつける。
それからウチは、テーブルに有った封筒を手に取って中身を改めた。ミコから目をそらした上に先輩からも目をそらしたら、あまりにカッコ悪すぎる。そして確認する、その手紙が先輩の書いた字ではない事を。
そしてあらかじめ用意していた、この結論だった場合にどうしようかのプランを思い出して。ウチは首をかしげるミコに向き直った。
「協力してほしいことがあるの」
◆
次の日、うちらと鴨ノ橋さんは、他愛のない話をしながら寮の中に入って、それからエレベーターのボタンを押す。すると――。
「間違っていますわよ。お姉さま」
微笑ましいモノと出会ったかのように「うふふ」と愛らしい笑顔を見せた鴨ノ橋さんが、横から新しいボタンを押すという形で、向かう階を訂正してくれる。すかさず「もー、そそかっかしいなぁ」としらじらしいことを言ってくるミコの足を、ウチはこっそり踏んだ。
それからうちらは横並びになりながら廊下を歩いて、部屋の前までたどり着く。それからウチが「開いてるからあけていいよ」と促すと、鴨ノ橋さんは「ピザの時以来ですわね」と、なぜか緊張した顔つきでドアノブに手をかける。
集まったのつい一昨日なんだけど、それだけ彼女の仲でピザの
だけど、そんな彼女も廊下を抜けて、部屋の中央で立ち止まった。それから次いで手からカバンを落とす。そう――もぬけの殻の部屋を見て。だからじゃないけど、ウチは真っ先に口を開いた。
「実はね。エレベーターのボタンに少し細工をしたんだ」
細工なんて大げさなもんじゃない。ただ表面にシールを貼っただけ。あとはこの階の表札だったかな。むしろ管理人さんの許可を取る方が難しかった。この空き室の鍵を借りるのと、その細工をさせてもらうのに。
そんなウチの言葉を継いで「はいはーい、アタシがやりました!」と挙手をしているミコは置いといて、こちらに振り返った鴨ノ橋さんに答えるべきだ。顔に「なんのためにこんな事を」という疑問が、ありありと浮かんでいる彼女に。
「試したんだ。鴨ノ橋さんが、ウチの部屋の階数を覚えているかどうか」
「そんなの、一度来たら忘れませんわよ」
「今日のことじゃない」
当然のように「えっ」という言葉を漏らす彼女にかぶりを振ってから告げる――ウチが言ってるのは、一昨日の話だという事を。言われて彼女は、なにかに気づいたかのように目を見開いた。
おかしいと思った。女子会の時、真っ先にエレベーターのボタンを押したのは鴨ノ橋さんだった。二年生のウチ等よりを差し置いて。それも、ウチの部屋がある階層をピンポイントで押し当てた。
「それって、ウチの部屋の場所を以前から知っていたって事でしょ?」
それも、おそらくまだ入学していない時から。シトネ先輩がまだこの学校にいる時に、鴨ノ橋さんはしなければならない事があったんだから。
そう追及されて、歯噛みした彼女はウチの目を睨みつけると、「その主張には、まだ問題がございます」と口にした。
「わたくしがどうやって、まだ入学していない学園に入り込んだとお思いで?」
その言葉にミコもうなずく「たしかに! この学園は校門の警備員さんもいるしね」と、うちに期待するような目を向ける。お前にはさっき聞かせたはずなんだけどもう忘れてるらしい。
どうして卒業生の存在を事前に知っていたのか。そして、彼女がシトネさんの名前を使ったのか。今までの事を統合的に考えれば答えは一つしかなかった。
「そう、本来なら部外者の鴨ノ橋さんが合法的に学校に入ることは出来ない。たった一つの方法を除いては」
二人がはっとした表情でこちらを見る。だからじゃないけど、ウチは口から溶けた飴の棒を取り出しながら、こう告げた。
「もしもこの学園に、家族がいたとしたら?」
ウチのその言葉にミコは「えぇ!?」と驚き、鴨ノ橋さんは目を伏せて口の端をかすかに歪ませている。それから「そこまで言うからには、もちろん提示していただきますわよ」とも続けた。
「そこまで苦労を弄して、なぜわたくしがこの学園に来る必要があったとお考えでしょうか。中途半端な解答は許しませんわ」
どこから取り出したのか、孔雀の羽根があしらわれた扇子を、ウチの鼻先に突きつけ挑発する様に、ウチは当然「それこそ簡単な話」と答え口角を持ち上げる。
「キミがどうしてうちの部屋の場所を知っていたのか。その半分はお姉さんに聞いただけかもしれない、だけどもう半分は君の目的もあった」
思い浮かぶのは、あの日シトネ先輩が図書室で見せた、どこか煮え切らない感じの様子。ウチの返答に違和感を感じていたのかって最初は思ったけど、そうじゃなかった。あれは、ウチの返事が、メモに対する回答になってなかったからなんだ。
「そう、鴨ノ橋さんがそのメモを差し替えたことによって」
玄関に差し込んでいたメモを回収して、鴨ノ橋さんが入れた別のメモをうちが読んでしまった。だからウチがしたのはシトネ先輩への返事ではなくなってしまっていた。
「でも、どうして先輩はクーちゃんの回答に対して、追及しなかったの?」
「できなかったんだと思う」
卒業日が迫るにつれて、すこしずつよそよそしくなっていった先輩。もしもその原因がこの時のやり取りにあるとしたら、メモの内容をはき違えただけであんな態度になるはずが無い。
それも、鴨ノ橋さんがメモをすり替えなければならなかったほどの――だからきっと、それほど大事な内容だったんだと思う。あのメモは。
ガリッ――口の中で噛まれた飴が弾ける。だからじゃないけどウチは「内容はきっと、姉妹制度をうちに申し込んだ。告白だったんだ」と真相を告げた。
きっと鴨ノ橋さんと先輩は、ラインかなにかで会話でもしていた。姉妹制度の事、ウチにそれを頼もうとしてる事を。そして、その日に学園に訪れたいという事を。
人のいい先輩のことだ。二つ返事で「いいよぉ」と間の抜けた笑顔で返したんだろう。なによりも、家族の頼みならなおさらだと思う。
「鴨ノ橋さん。あなたはシトネ先輩の実の妹、なんでしょ?」
それを聞いたミコは手を口で覆って、それから鴨ノ橋さんは目を伏せて口をつぐんだ。
「お見事ですわ。さすがはこの学園の誇る探偵様、ですわね」
いや、誇ったつもりも名乗った覚えもないんだけど。そう思いながらウチがミコに目を移すと、舌を出してウィンクをきめている。犯人お前かよ。
拍手をし終えると鴨ノ橋さんは、すっと顔つきを変えてうやうやしくスカートの端を指先でもち上げる。それから「改めまして、宮下サーヤと申します」と告げた。それから苗字は、学校が便宜を図って変えてくれたとも付け加えていたと。
「でも、どうしてシトネ先輩――お姉さんの告白を邪魔しようとしたの?」
ミコのそんな言葉で、サーヤさんはウチらから背を向ける。それからブラインドで遮られた窓に目を向けた。
「バカな姉です。宮下家の跡取りが、姉妹制度なんてものにかまけるなんて」
「……でも本当は分かっていますの」
握りしめられたブラインドがグシャッという音を鳴らす。それから「わたくしが、一番の大バカなんだって」と零した。それから振り返った顔には大粒の涙が浮かんでいる。
「そんな簡単に、奪っていいモノじゃなかった」
それからサーヤさんは話し始めた。卒業してから、姉が茫然としている姿を見かける事が多くなったこと。うわごとのように、ウチの名前を呼んでいるところも加えて。そして、中等部に入って姉の気持ちに気づいたころには、もうすべて手遅れだった事。
「もう、姉は縁談の話もまとまり。近いうちに嫁入りしてしまう。心残りを残したままで」
それから「わたしのせいで」と。すでに涙でぐちゃぐちゃの中に、これでもかと涙で追加されている顔を、手で拭っている。だからじゃないけど、ウチはサーヤちゃんの頭に手を乗せた。そして胸元にそっと抱き寄せる。
「いいよ。ありがとう」
強がりとか同情でもない。思った本心が口から出る。
だってそうじゃん。ウチはサーヤちゃんの手紙があったから、今まで忘れてた気持ちや、先輩にまた向き合えたんだ。これで何も感じない方がおかしい話だ。なによりも――。
ウチが体を離して、ミコが手招きする先を目で追った。
それからサーヤちゃんは涙を止めて、しゃくりあげあがらもそこにいた人、シトネさんを見て目を見開いた。
「元気にしてた? ちょっと背伸びたんじゃない?」
「お姉ちゃん……お姉ちゃあん!」
サーヤさんは抱き着いた。綺麗なワンピースを着た自分の姉に。大好きだよと示しているかのように。
本当はそこまで読み切って、シトネさんを呼んだウチをほめて欲しかったんだけど。まぁ良いかと顔を見合わせたウチとミコは、いったん部屋を出る事にした。
ただ嬉し泣きが響き続ける、暖かい部屋から見送られながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます