第36話 我の名は。
ふと気がつくと、僕は緑の丘の上に立っていた。
そこが、いつも牛や羊たちに草を食ませている場所であることはすぐにわかった。
でも……おかしい。今の季節は冬だ。こんなに青々と草が生い茂っているはずがない。
いや、それ以上に、僕はカバシマ率いる山賊どもと戦っていたはずだ。
装甲車の動輪をフュリの火炎弾で破壊し、逃げ出したカバシマを探していた。
その時、突然僕の『目』が……
「ようやっと、自分の意志で『目』を使ったのう。ずいぶんと時間がかかったものじゃが……とにかく、こうして
背後から声がした。聞き覚えのある声だった。
はっとして振り返ると、
「君は……あの時の!」
丘を渡る爽やかな風に髪をなびかせた、ひとりの少女が立っていた。
その顔を、僕はよく覚えていた。
僕が初めて竜牧民の村を訪れたあの日、暴れるフュリをどうにかしようとした時に、フュリの背に乗っていたあの少女だった。
「どうじゃ? 我の目は。よう見えるじゃろう?」
あの時は、一瞬でその姿を消してしまったが……今回は違うみたいだ。
少女はそう言って、ニイッと小さく形の良い唇の端を持ち上げていたずらっぽく笑った。
「我の……目?」
「いかにも。生前の我が宿しておった正真正銘、世界でただ一対、真なる『竜の目』じゃ」
「ち、ちょっと待って! わけが……わからない! 僕はどうなったんだ? そして君は、本当に何者なんだ!?」
「そう、うろたえるでないわ。これは、夢じゃ。別にぬしが死にかけとるとか、そういうことはないから安心せい」
「ゆ、夢……って」
「そう思っておればよいということじゃ。次はなんじゃ? ああそう、我が何者かという話じゃったな。と言うか、ぬしらいつも気安く呼びかけておるじゃろうが。……大いなる地母、じゃったか? それよ、それ」
少女は、さらっととんでもないことを口にした。
大いなる地母とは、折に触れて竜牧民の祈りの言葉に表れる信仰の対象……つまり、彼らの神様のような存在のことである。
「大いなる地母……君は、神ということ……なの? ……なんですか?」
「その呼び方な、我はあまり好んでおらん。別に我はぬしらの母親でもなんでもなかろう。それに、この可憐な容姿をつかまえて、よう母とか呼びおるな」
「可憐……」
確かに、少女は可愛い。
年の頃はどう見ても十代半ばといったところだろう。
……いや、問題はそんなことではないんだけど。
「まあ良いわ。他の者には無理な話じゃが、ぬしは違う。せめてぬしだけは、我のことは母などと呼んでくれるな」
「はぁ……。では、どう呼んだら? 名前があるなら、ぜひ教えてほしい……です」
「名前? ……ああそうか、名前か」
僕が尋ねると、少女は急に腕組みをして、難しい顔で首をひねり始めてしまった。
「名前……と言われると困るの。我は……我じゃからな」
「では……『ワレ』さん?」
「い、嫌じゃ。それは……なんとなく嫌じゃ。他のにせい」
「トゥーラ……なんていうのは?」
「おお、良いではないか。母などと呼ばれるより、よほど良い。トゥーラ、我のことはそう呼ぶがよい」
少女……改めトゥーラは、よほどその名前が気に入ったのか、何度も自分で口にしながらうんうんと満足げにうなずいた。
それを見て、僕は思う。
トゥーラというのが、光魔大戦の時にいつの間にか僕の部隊に迷い込んでそのまま居着き、マスコットのような存在になっていた野良犬の名前であることは、僕だけの胸にしまっておこうと。
「ぬしは確か、ソウガじゃったな? ここより東の海にある島の者か」
「えっと……はい」
「そうか……。やはりあやつは、その地を己の新たな日本にしたのじゃな……」
「ニッポン?」
「……ああいや。これはぬしには関係無い話じゃ。気にするでない。……ともかく、じゃ」
一瞬だけ、どこか寂しそうな、それでいて嬉しそうな顔をしたトゥーラだったが、すぐに気を取り直すように、わざとらしく手で後ろ髪を払うような仕草を見せ、また笑みを浮かべて僕を見る。
「ぬしが我の目を使ったことで、我とぬしの間には悠久の時を超えた縁が繋がった。これから、よろしく頼むぞ?」
「え? あ……うん。よ、よろし……く?」
「では、今宵はこの辺でな。……最後に一応言うておこう。ぬしが持つ『竜の目』は、森羅万象を見通す力。その力あらば、世界を己が手中に収めることもたやすい。ぬしがそれをどう使うのか……我は見ておるぞ。ゆめ忘れるな?」
ぐらり、と視界が揺らいだ気がした。
いや、気のせいじゃない。実際に……僕が立っている丘が、ぐにゃぐにゃと形を変えている!
「……そろそろ夢から覚めるようじゃの」
「ま、待って! まだ君には聞きたいことが!」
「今宵は、我の目を受け継ぐ者に少しばかりあいさつをしておこうと思ったまで。なに、これからはちょくちょく会いに来るでな。続きはいずれ、じゃ」
ひらひらと手を振りながら、トゥーラがきびすを返した。
僕に背を向け、どこかへ歩き去ろうとする。
僕はそれをとどめようと、手を伸ばし……
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