第29話 僕のイケナイ誘惑

「そんなことないさ。僕だってシオと同じ立場なら、きっと同じ事を考えたと思うよ。士官学校を出たエリートでもそんな風に思うんだ……ってね。僕は……士官学校には行ってないから」


 僕が言うと、シオの表情がまた少し和らいだ。


「わち……この半年、ずっとソウガ様のことを見てきました。最初は、ソウガ様がこの村で狩りをしたり竜のお世話をして、楽しそうに暮らしてらっしゃるのを見て、どうしてこんなお優しい方が戦争の最前線にずっと身を置いていらしたのかと不思議でした。……でも、最近わかったんです」

「……」

「ソウガ様は……お優しいからこそ、軍の仲間たちが死なないように、傷つかないように……ずっとみんなのために前線に立たれていたんですよね?」

「シオ……」

「でも、そのことにソウガ様は……いつしか疲れてしまった。だからソウガ様は、もう戦いたくないって……わち、わかったのに……わかっているんです……」


 わずかに唇を噛みしめ、一瞬だけシオがうつむいた。

 しかし、すぐに顔を上げてまっすぐに僕を見る。


「それでも……ソウガ様、どうか……どうか竜牧民のみんなを助けてください!」

「それは……僕にカバシマ中佐たちと戦ってほしい……そういうことかい?」

「はい……。だから、イケナイお願いなんです。ソウガ様のお気持ちはわかっているのにこんな……」


 言ってしまった……と思ったのだろう。

 シオの目から、ぽろりと涙が一粒こぼれた。


「戦うことだけが、竜牧民を救う道とは限らない。安全に、誰も死なせずにと言うなら、逃げてしまえばいい。シオも軍人だったらわかるはずだ。撤退は、決して悪いことじゃない」

「わかります。多分、カバシマ中佐たちには行動物資が足りていません。食料やお金は奪えても、装甲車やバギーを動かす”魔鉱”は少ないはずです。だから、広い草原を逃げてしまえば、そう長い間は追撃もできない……」


 内心、僕は舌を巻いた。

 シオはかなり冷静に、敵の状況も踏まえて全体を俯瞰できている。

 先に見せた情報分析能力といい、やはり算盤だけが取り柄などというのは謙遜だ。だが、惜しいかな……彼女のこの才幹を見抜ける上官に恵まれなかったのだ。事実、あの<赤雷>ユミナをしてもシオの意向をそのまま利用して僕の案内役を命じることしかできなかったのだから。


「そこまで読めていて、それでもシオは僕に戦えと言う。……理由を聞いてもいいかい?」

「それは……逃げるのは……気持ちよくないからです」

「気持ちよく……ない?」

「変な言い方なのは、わかってます。でも、そうなんです。わちには……わかるんです。わちは、そうやって戦わないで逃げてばかりいたから……。逃げるのは、悪いことじゃないです。逃げればきっと、みんな死なずに済みます。でも……でも……一度逃げる度に、ちょっとずつ……心は傷ついていきます」


 はっと、胸を打たれたような気がした。

 シオは今、もの凄く大事な話をしている。それは、一般的には”尊厳”とか”誇り”と呼ばれるものの話なのだが、それ以上の何かもっと根源的なことを訴えようとしている……そんな気がした。


「わちは、自分じゃできなかったこと、頑張れなかったことをソウガ様には押しつけようとしています。本当にイケナイことです。でも、これからもわちや、みんなが……いいえ、ソウガ様が気持ちよく生きていけるために……お願いですソウガ様! もし、ソウガ様が戦ってくださるなら……わちも、今度こそ逃げないで、ソウガ様のお役に立って見せます! お願い……お願いしましゅ!!」


 『僕が気持ちよく生きるために戦う』。


 シオの言葉が、草原を吹き渡る一陣の風のごとく僕の胸を優しく撫でていった。

 盛大な噛みっぷりすらも、いっそ心地いい。


 そして……ああ、なんてまっすぐで、純粋で、清々しくて、そして利己的な理由だろう。

 軍のため、祖国のため、平和のため……そういう理由以外でも、僕は戦って良かったのか。

 僕の全知全能を、僕自身のために……僕を慕ってくれる人たちだけのために使って戦う……。


 それは……本当に、甘美で”イケナイ”魅力に満ちあふれていた。

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