三四.焼失した記憶
伊奈さんの口から語られたデリーという男の名前。そして手紙。
僕ははっきりと思い出した。
特寺の校長室で、彩美と話した帰り、彩美は一枚の紙を落とした。僕はその手紙を拾ったが、異国の言葉で書かれていて、読めなかった。そして手紙をポケットに入れたまま、洗濯してしまったのだ。
「やっちまった……」
後悔でまた意識を失いそうだ。
「……瑞樹さん、お水飲みますか?」
伊奈さんの優しさが胸に染みる。僕は三口ほど水を口に含む。
「取り乱してごめん。ひとまず、最後まで話してくれますか?」
「はい。ええと」
伊奈さんは僕が使ったコップを下げながら、続きを話し始めた。
「デリーが要求した内容はまとめるとこうです。
・日本の開国、大阪湾の開港
・アメリカ主導による、貿易体制の構築
・日本でのアメリカ人
・日本の治外法権の容認( アメリカ人が日本国内で罪を犯しても、日本の法律では裁けない )
・アメリカのみの関税自主権( 貿易の関税は、アメリカ側でのみ決定できる )
正直、不平等にも程がある内容です」
日本もなめられたものだな、と思った。
アメリカ人がどれだけの重罪を日本国内で起こしても、アメリカ側で
そして貿易条件もアメリカが有利すぎる。関税の決定権がないということは、とてつもなく安い値段で輸入されたり、高い値段で輸出しなければならないわけだ。
その状況で日本の商品が売れるわけがない。国力は落ちていく一方だろう。
「陽菜さまは、彩美公の命令通り、デリーの要求を保留しました。
『今は将軍が病に伏しており、決断できる状況にはない』と。
信じたのか信じていないのかは定かではありませんが、デリーは『一か月後に返事を聞きにまた来る』と言い、アメリカへ引き上げていきました」
一か月後、今からあと一週間くらいか。
「なるほど。肝心なときに老中である僕が不在で、申し訳ないです」
僕は深々と頭を下げた。
「いいえ、初鹿野さんを助けることも大事ですから。アメリカ通商艦隊が引き上げた一時間後に、瑞樹さんが戻ってきたんです。覚えていますか?」
必死で思い出そうとする。
そうだ、平将門が憑依して、それでこめかみを撃たれた。
平将門は最後になにかを言っていたような……。とにかく、こめかみを撃たれてから僕の霊体は消えていき、そこからはなにも覚えていない。
「いや、実は、僕がどうやって大阪城に戻ったのか、覚えていないんです」
伊奈さんは思いつめた顔をして、体をガタガタと揺らした。
「思い出しただけでもこわいです。まるで瑞樹さんじゃないみたいでしたよ」
実際、中身は僕ではない。平将門だ。
「大阪城門前に現れた瑞樹さんは、全身血まみれで、初鹿野さん、久世さん、ピスタを抱えていました。そして、二人とピスタを投げ捨て、瑞樹さんは大声で、『そこの陰陽師を一二時間以内に治療し、この体に札を貼らせろ! でないと齋藤瑞樹は死ぬ!!』と言って倒れたんです」
段々と思い出してきた。
平将門は最後に、久世さんならなんとかしてくれる、と言っていたような。
あと一人、名前を言っていた気がするが、だれだっけ。
「その場にいたのは、私と、瑞樹さんが帰ってくるという情報を聞きつけて、門前へ駆けつけた彩美公でした。彩美公は言う通りにし、官医に久世さんの優先治療を命令し、久世さんは一〇時間も経たないうちに、問題なく動けるようになりました」
久世さんは至近距離で銃弾を受けていたが、後遺症がないようでよかった。
「彩美公は、回復した久世さんを、すぐさま医務室で寝ている瑞樹さんのもとへ連れて行きました。瑞樹さんを見た久世さんは、『二人だけにしてくれ。なんとかする』と言って、彩美公を医務室から退出させたようです。
そして、そこからずっと、瑞樹さんの
これは久世さんが貼ったのか。よくわからないが重要なものらしい。
僕の現状は把握できた。彩美や、他の奉行はどこにいるのか。
「それで、一番重要なことを聞きたいんですけど」
「はい」
「大阪幕府はなぜ滅亡したのか? 彩美や他奉行の今の状況は? 教えてください」
伊奈さんは、部屋着の袖をもぞもぞと触っている。
そのとき、伊奈さんの通話機がリンリンと鳴った。
「はい。はい……。承知いたしました」
伊奈さんは電話を切ったあと、腰巻に着替え始めた。
「どこにいくんですか?」
「えーと、幕府に……」
ばつが悪そうにしている。
「幕府は滅亡したんじゃ?」
「
今まで伊奈さんの話を黙って聞いていたピスタが、ようやく喋った。
「枚方幕府?」
「今は詳しいことを話している暇はない。齋藤も一緒に来ればいい。朱里、将軍に呼ばれたんだろ?」
ピスタは伊奈さんの頭の上にぴょんと飛び移った。
猫耳と猫耳の間に猫がいる。
「いや、それはまずいよ。瑞樹さんをかくまっていることがバレちゃう」
「いつかはバレる。そしてバレたとしても、朱里も齋藤も無事だろう」
「……」
伊奈さんは僕の目を見る。
「枚方幕府へ、一緒に行きますか?」
僕は力強く頷いた。
まだ万全ではないので、片方に
そこには思いがけない光景が広がっていた。
「え……」
僕は
「瑞樹さん、すみません。言えなくて……」
伊奈さんは下を向き、目の前の光景から目を背けている。
大阪城が、消えていた。
「なんで……どうして……」
伊奈さんの家は京橋にあり、そこから大阪城はでかでかと見えるはずだ。
その大阪城が灰と化している。一帯が黒く焦げた
「齋藤、朱里が何度も言ってるだろう。大阪幕府は滅亡したんだ」
ピスタが、自分にも言い聞かせるように言った。
僕は、燃え残った大阪城の跡を見て、両親が死んだときのことが、重なるように思い出されていた。
僕の生みの両親は、火事で
苦しそうにもがく両親の顔が鮮明に浮かび上がる。気が付くと涙を流していた。
「瑞樹さん、大丈夫ですか?」
伊奈さんが心配そうな顔でこちらを覗き込む。
「ちょっとだけ、ちょっとだけこのままで」
どんどんと当時の記憶が呼び起こされる。
お父さんは体が焼かれながらも、僕を家の外へ投げ、逃がしたんだ。僕を守らなければ、おそらく両親は助かっていた。
二人は自分たちの命と引き換えに、僕を救ってくれたんだ。
……ありがとう。ありがとうございます。
僕は大阪幕府老中まで上り詰めました。あなたたちの息子は、立派に、たくましく生きています。
両親のことを思い出すと、
孤児院時代の僕は、暗く、いつも一人で遊んでいて、友達がいなかった。孤児院のお姉さんは、僕を心配していたように思う。
そんなことは関係なしに、僕はいつも孤児院を抜け出しては一人で散歩をする少年だった。
あるとき、僕と同じ歳くらいの女の子が僕に話しかけてきた。あれは大阪城の近くだったか。
「ねえねえ、ちみ、なにしてるの?」
女の子は『君』とはまだ言えていなかった。
「さんぽしてるんだよ。君は?」
「わたしもそうだよ。一緒にする?」
僕と女の子は、一緒に散歩をした。
京橋の商店街は、子供二人で歩くにはちょっとこわくて、手を繋いで通り抜けた気がする。
「ちみ、好きなものはあるの?」
「うーん、映画かな。夢の世界に連れてってくれるんだ!」
「そうなんだ! 見たことない!」
女の子は目をキラキラさせている。
「じゃあ、連れてってあげるよ!」
「やったぁー!」
僕はだれとも喋りたくなかったが、なぜかその女の子とは楽しく話せた。
その子から出ている、明るく柔和な雰囲気に、あてられたのだろう。
僕たちは電車に揺られ、映画館のある梅田まで向かった。
「ここが映画館だよ!」
「うわーっ! すっごいね!!」
身長一二〇センチにも満たない二人にとっては、映画館ロビーの高い天井は、限界がないように思えた。
そこで僕は気付いた。
「あ、お金、ないや」
今振り返れば、電車に乗った時点で気付けよと思う。
「そうなの?」
「うん。五〇〇円しかもってない」
僕はズボンのポケットから、五〇〇円玉を取り出し手のひらにのせて見せる。
「へー、お金って固いのもあるんだ!」
「え?」
「わたし、紙のお金しか見たことなかったから、ちみ、珍しいお金もってるんだね!」
当時の僕はそれを言われて、嬉しかった。
今思うと、皮肉が過ぎる。本人に自覚はないだろうが。
「わたし、おうちにはお金あるから、今度お母さんにおねがいしてもらってくるよ!」
「うん。ありがとう!」
「じゃ、かえろっか!」
その日はそれで、お互いに帰った。
次の日も、その次の日も、お昼過ぎに大阪城周辺を散歩すると、その女の子はいた。
女の子のお金で映画も観たし、ご飯もたくさん奢ってもらった気がする。
その子のお金で食べるマクドナルド、美味しかったな。
当時、胃袋は小さかったはずだけど、ダブルチーズバーガーをぺろりと食べていた。恐るべしチーズの力。
一〇回は一緒に遊んだであろうある日、僕はずっと聞き忘れていたことを尋ねた。
「そういえば、君の名前は? ずっと聞いていなかった」
「わたし? 彩美だよ。ちみは?」
「瑞樹。なんかいまさら自己紹介するの、へんだね」
彩美はふふっと笑った。
「でも、これで遠くからでも呼びあえるね!」
彩美の屈託のない笑顔に、僕は顔を赤らめた。
そうだ、僕は人を好きになったことがないと思ってた。
でも違う。
僕は、子供の頃、彩美のことが好きだったんだ。
今は、将軍と老中の関係性。でも、彩美を大切に思う気持ちは変わらない。
大阪城が焼失している。彩美はどこにいるのだろうか。
「待たせてごめん。枚方幕府へ急ごう」
伊奈さんに、なぜ大阪城は焼かれたのか、みんなはどこにいるのかを聞こうと思ったが、枚方幕府とやらの
彩美が守っていた大阪幕府を終わらせない。必ず復活させる。
僕は強く決心した。
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