二九.怪物
姫花の発明品『そっくりスライムマスク』によって、まっちゃんとなった僕と、姫花、久世さんは、まっちゃんと仲が良いらしい少女、かのこに連れられ通天閣地下へ行くことに成功した。
地下へ続く階段を下っていくと、カラフルな光が差し込んでくる。
「あとちょっとだよ! まっちゃん!」
手を引いてくれるかのこのテンションが、どんどんと上がっていく。
地下へ着いた瞬間、僕たちは真っ暗な階段からの、あまりの眩しさとのギャップに目をつむる。
数秒経ちゆっくりと目を見開くと、そこには予想外の光景があった。
「ここに、鬼兵衛がいるのか……?」
「ああ、
気のせいか、久世さんの言葉には、少し自信がなくなったように
それもそのはずだろう。目の前に広がるのは、日本中のありとあらゆる
各ゾーンには仕切りが設けられており、それぞれ山盛りにお菓子が積まれている。
チョコレート、せんべい、ポップコーン、あめ、ショートケーキ、ようかん、ワッフル、アイス、プリン、八つ橋、キャラメル、クッキー、マカロン、クレープ、シュークリーム、ゼリー、フルーツタルト、バームクーヘン、まんじゅう。最近日本に入ってきたカステラまでわんさか置いてある。
「す、凄い。これ食べていいのかな」
姫花がごくんとつばを飲み込む。
「いや、やめておこう。敵の陣地のど真ん中だ」
僕だって食べたいが、
「かのこ、この場所大好きっ!」
かのこは一口でいくつものお菓子を同時に口に運んでいる。
混ぜるのは違うだろう。一つ一つ楽しんでくれ。
「まっちゃんも食べなよ!」
かのこがカステラを僕に持ってきた。
オランダ通商人・ウィリアム・ヨーステンが、彩美に
僕の手は勝手に、口に向かって進んでいく。
「ちょーっと!」
あと数センチでカステラが口内へ侵入するところで、姫花が僕の手を払った。
「瑞樹くんが食べちゃだめって言ったのに、自分だけ食べるなんておかしいでしょ!」
姫花は三つ編みの髪を揺らして怒った。
変装先の団員まで三つ編みの人間を選ぶ必要があるのか。
「……ちょっとだけ食べるか」
僕は意見を曲げることが必ずしも悪いことだとは思わない。主張は不安定なもので、昨日思ったことと今日思うことが違うなんて、だれしもあることだ。
「今、僕たちは団員に変装している。そしてあの少女が食べているということは毒もない。お腹を壊さない程度に腹を満たすのは良いかもしれない」
「そうこなくっちゃ!」
姫花はクッキーゾーンへ走っていった。
久世さんも無言でお菓子を吟味している。その表情はニンマリだ。
僕はカステラを食べながら、あたりを見渡す。
初鹿野はどこにいる?
「あ! お父さん!」
僕が見ている逆の方向から、かのこの声がした。
「かのこ、今日は来ちゃだめって言ったじゃないか」
「でも、まっちゃんが『やっぱりよくなった』って言ってたよ! ね! まっちゃん」
僕はゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、鬼兵衛だった。
鬼兵衛は数メートル先から僕を凝視し、フッ笑った。
「そうかそうか。松本がいいと言ったのか」
鬼兵衛はかのこの頭を撫でた。
「うん!」
「ごめんな。伝達ミスみたいだ。上で遊んでてくれるか?」
「わかった! まっちゃん! 行こ!」
僕のもとへ走り出したかのこを、鬼兵衛は脇の下から抱えて、階段近くに運び下ろした。
「松本は俺と話がしたいみたいなんだ。ごめんな。今度たくさん遊んでくれるよ」
「そうなんだ。じゃ仕方ないね。まっちゃん! またね!」
かのこが笑顔で僕に手を振る。僕も作り笑いで振り返す。
とても笑えるような状況ではない。
「さあ」
鬼兵衛は両手を広げ、フロア中に響き渡る声で言う。
「そのマスクは暑いんじゃないのかぁ? 感染症が流行っているわけでもあるまいし、さっさと取ったらどうだぁ!?」
僕は視界の隅に見えた姫花と久世さんに、目で合図をする。
『隠れろ。好機を伺うんだ』
二人はさっと、鬼兵衛の死角に入った。
僕はべちゃあと、マスクを脱ぐ。
「大分良い顔つきになってるじゃないか。老中さんよぉ」
「それはどうも。何度か殺されかけてるもんで」
鬼兵衛はハハ、と笑う。
「おまえはきっと幸運の持ち主だぁ。ここに来るまでに死んだなら、それまでの男。だがきっと来てくれる、俺を楽しませてくれると思ってたぜ」
「楽しませるなんてそんなこと僕にできるだろうか。痛みの中苦しませることならできるかもしれない。それでもいいか?」
僕は小袖の陰で、拳銃に手を掛ける。
「おおっと、まだ撃つなよ」
くそっ! なんで見破られるんだ。
「おまえらだけお菓子を食べて、俺は抜きで戦うなんて、フェアじゃない」
鬼兵衛は近くの椅子に座り、
「おお、なかなかいけるなぁ」
紅茶をズズッと飲む。
完全に無防備な鬼兵衛に、僕たちは手が出せなかった。
鬼兵衛から漂う
心と体が
「老中、おまえも食うか?」
鬼兵衛が僕を手招きした。
僕は震える足を隠しながら、ゆっくりと向かい、鬼兵衛の目の前に座った。
「初鹿野は無事なんだな?」
「ああ、あの町奉行かぁ。無事だぞ。ヤッてもない。抵抗されると気分が乗らないんだよ」
鬼兵衛は、軽く腰を振る動作をした。
この
「どこにいる?」
僕は怒りを抑えて冷静に問いただす。
「そんなに簡単に言うわけがないだろう。俺もなめられたものだなぁ」
鬼兵衛はそう言い、最後のひとかけを口に入れた。
「幕府は今まで、濱島盗賊団を逮捕しようと追いかけてきた。でも尻尾を掴めたのすら最近のことだ。なぜだと思う?」
「それは幕府が無能だからだろ。元幕府の人間も何人かこっちへ来ているぞ。『あんなところ属するだけ無駄』だって」
「全然違う」
僕は鬼兵衛の目を
「いくら巨大な犯罪組織でも、今までだって総力を挙げれば逮捕できたんだ。それをしなかったのは、
「まあ、手足を狙うよりも、心臓一発狙った方が楽だし簡単だもんなぁ」
「鬼兵衛、僕は今までおまえがバカにしてきた幕府の人間とは違うぞ。本気でおまえを殺してもいいと思ってる。幕府にとって有害な事象は、どんな手を使ってでも排除するべきだと考えている」
鬼兵衛は机に身を乗り出し、僕に近付いた。
「同感だ! 出会う場所が違えば、俺らは仲良くなれたかもなぁ!」
最大限強がり、見栄を張り、体を大きく見せて威圧したつもりだが、鬼兵衛には一切効いていないようだ。
「僕がここまで来た唯一にして最大の目的は、初鹿野の奪還だ。おとなしく返してくれれば、このまま帰ろう」
鬼兵衛は顔つきが変わり、机をバンと真上に蹴飛ばした。なんてパワーだ。
僕は瞬時に後ろに下がる。
「逆だろぉ!? 立場が! おまえらは全員この通天閣に閉じ込められてるんだよ! 町奉行の奪還だぁ!? 自分の心配したらどうだ」
鬼兵衛はダッと床を蹴り、僕に向かってきた。
平和的解決には、当然ならないか。
ボゴォ!
鬼兵衛のパンチを僕は避けずに受け止めた。腹が死ぬほど痛い。
左手にはめたメリケンサックで、鬼兵衛の顔を狙う。
バギィィィッ!
骨のきしむ音がする。
バゴオォォンッ!
っっっ! 脇腹を思い切り殴られた。僕は真横にふっ飛んだ。
ドシャアアン!
勢いよくお菓子の山に入り込む。身動きがとれない。
鬼兵衛は僕にとどめを刺そうと、リボルバー式拳銃を構えた。
ドォンッッ!!
引き金を引こうとした瞬間、ワゴンが軽自動車ほどの速度で鬼兵衛に衝突した。
「ぐはっ!」
数メートルぶっ飛び、横たわる鬼兵衛。
ワゴンはマカロンが積まれていたものだ。久世さんが怨霊を使い動かしたのだろう。
「瑞樹くん、大丈夫!?」
姫花が駆け寄ってきた。とても心配そうな顔をしている。
「なんとか」
お菓子の山から引っ張り出され、呼吸を整える。
「姫花、姫花は初鹿野を探してくれないか。このフロアのどこかにいることはわかっている。できるだけ鬼兵衛との戦闘には巻き込まれないよう、距離をあけて」
「わかった。瑞樹くん、死んじゃだめだからね。彩美公のためにも」
姫花は僕の手を両手で握り、ゴムボールを渡してきた。
「まだあったのか」
「本当にこれが最後だから。使うときはよく考えて」
「ありがとう」
姫花は、鬼兵衛とは逆の方向へ走っていった。
これでいい。やつは僕と久世さんで必ず倒す。
ふと前を見ると、ワゴンに
ドゥッ。
こもった音がした。至近距離で、体と密着した状態で銃弾を放つ。そんな音だ。
僕は青ざめながら姫花を探す。よかった。走っている。
「なぜ……私の場所を……」
そこには、胸から血を流しながら、うつ伏せで倒れている久世さんがいた。
「久世さん!!」
すぐそばに立っている鬼兵衛は、久世さんをドッと蹴飛ばした。
久世さんが僕のところまで滑る。
「寺社奉行だっけ? こいつの力はなかなか厄介だなぁ。褒めてるんだぜ」
「おまえ……ぶち殺してやる」
ダァン! ダァン!
僕が放った銃弾は、鬼兵衛の遥か頭上の壁に当たった。
「齋藤……冷静になれ」
「久世さん! 喋らないで!」
僕は自分の小袖、それに久世さんの服を破り、強い力で止血をする。
「初鹿野を助け、私も助けてくれ……私は齋藤を信じている」
久世さんは目を閉じた。まだかろうじで息はしている。僕はそっと彼女を寝かせた。
「改めて、おまえに慈悲なんて必要ないことがちゃんとわかったよ」
「それはおめでとう」
鬼兵衛はリボルバーをくるくると回した。
「ピスタさん、いるんだろ。さっさと片付けて、
僕は確信していた。
ピスタは僕よりも男らしい。一度決めたことは必ずやり通す。
僕に協力してくれると、自分の口で言ったんだ。逃げているはずはない。
ググググググ。
僕の背後から、散らばったお菓子をはねのける音と共に、巨大な気配を感じる。
「申し訳ない。少しだけ休ませてもらってた。この装置、結構疲れるんだ」
「おいおいおいおい、なんだなんだその猫は」
鬼兵衛は少しだけ汗をかいている。
「そんな可愛いもんじゃないさ。この瞬間は『怪物』と呼んでくれ」
巨大化したピスタは、鼻息荒く、毛を逆立ている。
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