一七.トマトは嫌いだけど、トマトソースは食べられます
「今日の朝ご飯はカレーか! 良い一日になりそうだ!」
いつものごとく最悪の寝起きをまりなに叩き起こされたが、朝ご飯がカレーだとわかると、寝起きの悪さはどこへやら、という具合にテンションが上がった。
僕は冷蔵庫からそうっとチーズを取り出す。
「こら! 毎日毎日チーズばっか食べて! 今日はだめっ!」
まりながチーズを取り上げた。
「えー、そんなぁ」
僕はうるうるした目を自らで作り出し、まりなに
「そんな目してもあげない!」
まりなは自分のカレーにチーズを入れた。
「ちょ! そこまでするか!」
「だって私だって好きだもん」
「俺の目の前でチーズを入れるな! この
「外道で結構です。私は良い人なんかじゃありません」
まりなはチーズインカレーを美味しそうに食べている。口に入れるたびに手のひらで
僕はふてくされながらカレーを食べた。もちろん十分に美味しい。
「そういえば、もう少しで特寺の講師になるんじゃない?」
まりなのほっぺにはルーがついている。
「そうだね。今授業の準備しているところ。緊張するよ」
「なんの授業を受け持つの?」
「歴史学かな」
「ふーん。私のクラスにも教えにきてくれたらいいな」
そう言ってまりなは水をごくごくと飲んだ。少し辛く作りすぎたようだ。
「じゃ、小テストの勉強したいから先行くね。ちゃんと戸締りしておいてね」
カレーを食べ終わりささっと自分の皿を洗ったまりなは、そのまま玄関へ向かった。
「お母さんみたいなこと言うな。いってらっしゃい」
僕はまりなを見送り、冷蔵庫からたっぷりのチーズを出した。
お腹いっぱいになり、ルンルン気分で大阪城へ向かう。
その途中、この国ではあまり見かけない風貌の男性を見かけた。金髪で背が高く鼻も高い。大きすぎるリュックを背負って、スーツを着ている。
一応、スーツは日本に流入しているが、身分の高い者はまだまだ着物を着るので、定着はしていない。
僕は一目で異国人とわかった。
特に話しかけることなく通り過ぎていくと、後ろからドタドタと迫ってくる音がした。
僕は走って逃げた。だれかは知らないが、追いかけられると逃げたくなるのは本能だ。
「アノ」
「うわ!?」
その男は真後ろにいた。僕が全速力で走り息切れしているのに対し、男は汗一つかいていない。
「な、なんですか? ごめんなさい!」
ひとまず謝った。なにに対してかは僕もわからない。
「偉い人ですよネ?」
なにやら男の口の動きと音が合っていない気がする。
「い、一応老中やらせてもらってます。齋藤瑞樹です」
「ロウジュウ……老中! 前任から聞いていまス! あなたは偉い人ダ!」
「は、はあ」
男は僕の手を強引に握り、ブンブンと振り回した。なかなか一方的な握手だ。
「高そうな着物を着ているので声をかけましタ! 確か、そう、
「そうなんですね。あなたの名前を教えてもらってもいいですか?」
「ああ! ごめんなさイ。私はウィリアム・ヨーステン。前任から引き継いで来ました、オランダ通商人でス。初めての日本でドキドキしてまス」
ヨーステンはネクタイを締めなおし、お辞儀をした。
この人がオランダ通商人か。前々から存在は知っていたが、そういえば会ったことはなかった。前任から引き継いだということは、彩美にブートキャンプを渡したのは前の人か。
今でも豊臣御殿に入ると、高頻度でブートキャンプをしている彩美を見ることができる。彼女は完全にハマっている。
僕は気になっていることを尋ねた。
「日本語お上手なんですね」
「ああ、私は話せないですヨ。この翻訳機を日本に着いたときに渡されましタ。すごく便利ですネ」
ヨーステンがネクタイを裏返すと、見覚えのあるものが張り付けられていた。
ピスタの首にかかっていたもの。そう、『平賀式翻訳機』だ。
ヨーステンが使っている平賀式翻訳機は、小型化されておりピタッと張り付けるタイプだ。便利グッズみたいで面白い。
「そうなんですか。良い機械ですよね。それ」
「ハイ。でもたまに誤訳が起こるので気を付けてくださいと言われましタ」
「なるほど。まあ絶対的な精度を保つのは難しいでしょうからね」
「うるせぇダマレ」
多分誤訳起きてるぞ!
「それでですネ。ミズキさんを呼び止めた理由なんですけド」
一通り自己紹介が終わり、ヨーステンは目的を話し始めた。
「大阪城へ連れて行ってほしいんでス」
「いいですよ」
「ありがとうございまス! ショウグンにご挨拶する約束があるのですが、なかなか辿り着けズ」
「一緒に行きましょうか。あそこに見えてるのが大阪城です」
「ああ、あれなんですネ。ショウグンの住む場所と聞いていたので、あの小さい建物は除外してましタ」
誤訳と信じたい。外国から見たら小さいのかもしれないが……。
大阪城の門前に着いた。軽ノリチャラ門番が驚いた表情でこちらを見ている。
「お疲れ様でッス! 瑞樹さま、お隣の超絶イケメンは?」
隣を上げすぎると僕を下げていることになるぞ!
「新しいオランダ通商人のウィリアム・ヨーステンだよ。今日将軍さまと謁見の約束があるみたいなんだけど」
「ちょっとお待ちください……。あ、ありました! ありましたよ!」
わかったから通してくれ。
ヨーステンと僕は豊臣御殿へ向かった。顔認証で入室する。
五〇メートルの廊下を渡ると、しっかり
さすがに今日は外用の
「ウィリアム・ヨーステン、よくぞ日本に来てくれた」
彩美は普段と柔らかい声とは違い、将軍としての立場を誇示するような、力強い声でヨーステンを歓迎した。
「ハイ。ショウグン。ありがとうございまス」
彩美の雰囲気とはうって変わるヨーステンの軽い声に、せっかくの
姫花はうつむき肩を震わせている。絶対わざとそういう仕様にしたな。
「で、なぜ瑞樹がここにいるのか」
彩美は荘厳さを保ったまま僕に問いかけた。
「初めての日本で、道に迷っていたヨーステンをここまで連れてきた次第です」
「そうか。ご苦労だった。そのままここにいてよい」
「はい。ありがとうございます」
りん議書、溜まってるんだけどな。
「ヨーステン、前任から業務は引き継いでいると思うが、おまえにはオランダとの貿易の差配をしてもらう。我が国は鎖国体制を敷いており、正式な貿易ルートはオランダのみだ。世界各国からの情報・文化・資源は全てオランダ経由でこの国に渡る。大変な仕事ではあるが、日本とオランダの貿易が散漫にならぬよう、しっかりと管理をお願いする」
普段の彩美を知っている分、今この目で見ている彩美がかっこよすぎる。彼女は第五五代征夷大将軍なのだと、改めて実感した。
「音楽を聴くと、過去にその曲を聴いていた状況を思い出したりしますよネ」
ん? ヨーステンの
僕は姫花を見る。『しまった!』という顔をしている。
このタイミングで誤訳が出たのか!
「確かにそうだな」
彩美、なんで答える!
「トマトは嫌いなんですが、トマトソースは食べられるんでス。不思議ですネ」
やばい! 誤訳が止まらない!
「私もそうだ」
彩美!?
「童謡に都市伝説やこわい話が紐づいたりしますが、あんなん全部ウソですヨ」
どんな誤訳でそうなるんだよ!
「そこは噂を楽しもうじゃないか。底知れぬ不確定要素に魅力があるんだ」
彩美ぃぃぃ!?
姫花はしゃがみこんで肩を震わしている。笑った息がプスプスと漏れている。
「ちょっと、ぷっ、ちょっとヨーステンさん、ぷっ、こちらへ」
姫花は言葉の
二人が離れたことを確認して、僕は彩美に尋ねた。
「明らかにヨーステンの翻訳がおかしかったでしょう。あんな真面目に答えなくても」
「本当に誤訳かはわからないじゃない」
いや、あれはわかるでしょ!
「立場は私が上でも、丁寧に接する必要があるの。激高なんてできないよ。国交を断絶されたら困るの。日本は自給できる国じゃない」
彩美は背中を将軍席の背もたれから離し、真っすぐ前を向いて言った。
確かにその通りだ。
海外ルートを
将軍を背負う者は、いかなるときでも冷静に
「彩美、彩美は凄いよ」
「な、なによいきなり」
彩美は少し慌て、緊張がほぐれたように、一瞬だけいつもの柔和な表情に戻った。
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