六.芽生え
「あいつ、速いですよ!」
「わかってますよ! もうちょっとスピード上げましょう!」
僕はギアを上げるが、初鹿野さんはついてこれない。肩で息をしている。
「胸が、胸が重いんですもんっ!」
それを僕に言われても、なんて言い返せばいい。
「あとから追いついてください! 僕の通話機のGPSを辿れば場所はわかるでしょう!」
「了解です!」
僕は男の背中を見失わないぎりぎりの距離をなんとか保った。男はこちらをちらちらと気にしながら、スピードを緩めたり早めたりしている。
なんていかれた野郎なんだ。男はこの状況を楽しんでいる。わざと姿を見せているんだ。
絶対に捕まえてやる。僕は
男は逃げ切らない程度のスピードで走り続けていたが、道が開け大きな公園に出た。その先は海だ。僕はようやく男に追い付いた。
「はぁ、はぁ、もう逃げ場はないぞ」
「そのようだなぁ」
男はニヤリと笑いこちらを見ている。頬の傷をしっかりと目視できた。
「おまえは、濱島鬼兵衛だな?」
「だから追いかけてきたんだろ? おめでとう。逮捕まであと一歩だ」
鬼兵衛は口角をあげたままだ。焦っている様子は微塵もない。
「おまえは新しく入った老中か? 噂には聞いていたがなかなかかっこいいじゃないか」
「幕政史上もっとも人気を集めている窃盗魔・濱島鬼兵衛さんに言われても嬉しくないね」
「まあ俺の方がかっこいいわな。ファンクラブも一万人を突破したぞ」
僕は、鬼兵衛に気付かれぬよう、そっと小袖の背中側に隠してあるオートマチック式の拳銃を抜いた。
「それはおめでとう。一万一人目は僕に空けておいてくれ」
言い終わったと同時に引き金を引く。
ダァン!
くそっ! 外した!
鬼兵衛はのらりと銃弾をかわし臨戦態勢を取った。まずいぞ。単純な戦闘経験値で奴に勝るとは思えない。
どうする? なにか手はあるか?
「一発で決めるつもりだったかぁ? 甘い甘い、甘いんだよ! 拳銃に手をかけたのがばれてないとでも? 次は俺のターンだなぁ!」
鬼兵衛は、僕が使う拳銃よりも一世代古いリボルバー式を左手で構え、狙いを定めた。
ダァン、ダァン!!
僕の右腕を二発がかすめる。せっかく新調した着物が台無しだ。
避けたというよりは『偶然避けられた』が正しいが、その勢いのまま鬼兵衛へ撃ち返す。
「どこ狙ってんだぁよ」
明後日の方向に飛んだ銃弾を鬼兵衛が注視した瞬間、僕は叫んだ。
「今だ! 初鹿野さん!」
ダァン!
初鹿野さんの放った銃弾は鬼兵衛の肩に命中した。
「ぐわぁぁぁぁ! 痛えぇぇぇぇぇ!!」
鬼兵衛は撃たれた左肩から倒れ転がり叫んでいる。
初鹿野さんは、鬼兵衛を取り押さえようと駆け寄った。
「確保! 確保です!! やっと、やっと鬼兵衛を……」
初鹿野さんがうずくまる鬼兵衛を上から押さえつけたそのとき、僕は体の芯からぞわぞわと嫌な予感がした。
「ふふふ、はははぁ! ジ・エンドだぁ」
「え」
鬼兵衛は初鹿野さんにほぼゼロ距離で銃口を向けた。
「危ない!!」
ダァン!!!
痛い。痛い! 痛すぎる!!!
ダァン! ダァン! ダァン!!
僕の体は穴だらけになっているようだ。三発目から感覚は消えている。意識も徐々に消えていく。
「瑞樹さん! 瑞樹さんっ!!」
初鹿野さんの姿がうっすらと見える。ああ、泣いているのか。まだ出会って間もない僕のために。なんていい奴なんだ。無意識のうちに細胞レベルで体が動き出したのも頷ける。初鹿野さんは助けるべき存在なんだ。彼女が今ここで死ぬなんてもったいなさすぎる。
薄れゆく意識の中で、鬼兵衛が初鹿野さんに話しかける声が聞こえた。
「はははぁ! こいつおまえを守ったぞ! 好きなんじゃねぇのか!? おもしろすぎる! ヒューヒュー!!」
「黙って! 絶対に許さない。絶対に! 今捕まえて! 町中引きずり回して! 終身刑で牢にぶちこんでやる!」
「やってみろよ小娘ぇ」
やめろ初鹿野さん。なんのためにかばったと思ってるんだ。頼むから逃げてくれ。僕なんていいから。全速力で逃げて幕府に伝えるんだ。
「逃げ……てください」
「瑞樹さん! 話さないで! もう従者には連絡したから! すぐに来てくれます! あとは私に任せてください!」
だから違うんだ。初鹿野さんが捕まえられるような奴じゃないんだ。
「もうお涙頂戴はいいかぁ? 小娘、次こそジ・エンドだ!」
だれか、だれか助けてくれ!!
決死の想いで願ったそのとき、ふっと体が軽くなった。まるで自分の体じゃないような感覚に陥った。
パァン。
「なんだ! なんだこいつ! おもしれぇ!!」
僕の手だ。確かに僕の手が鬼兵衛の拳銃を払ったのだ。
「初鹿野さん……お願いだから逃げてくれ……」
体は相変わらずめちゃくちゃ痛いし、意識も
「瑞樹さん……必ず助けに来ますからね! 今は老中の命令ということで待避します!」
遠くへ消えていく初鹿野さんを確認し、安堵した僕の拳は、刹那で鬼兵衛の顔面を捉えた。
ボゴォ! ボゴォボゴォ!!
「痛てぇ! 最高だ! 最高だよおまえ!! 久々に張り合いのある奴が幕府から出てきた!」
鬼兵衛は隠していたナイフを取りだし僕の足を刺す。
グサッ!
僕は足を刺されたまま鬼兵衛の左横腹に蹴りを入れる。
バゴォ!
鬼兵衛はナイフを抜き、僕の首めがけて振りかぶった。
僕の体は命の危機を察知したのか後ろへ思いっきり飛び待避した。体勢を建てなおし、再び臨戦態勢をとったそのとき、
「濱島鬼兵衛! 覚悟!!」
町奉行の従者たちが到着した。その数は十人、二十人はいるか。
「くっ、ちと面倒だな。今日は黙ってお好み焼きにするか。娘はたこを楽しみしてたんだが」
鬼兵衛はそう言い残し、従者の一列をなぎ倒して大阪湾に隣する町へ姿を消した。
僕はそれを見届けると、視界が真っ暗になり、眠るようにすっと意識がとんだ。
「瑞樹さん、瑞樹さんっ!」
戻っていく意識の中で、だんだんと声が大きくなる。この声は初鹿野さんか。
「ああ、初鹿野さん。よかった。逃げきれたんですね」
「こんなときまで私の心配ですか。もう瑞樹さんがわかりません」
初鹿野さんの目は真っ赤に腫れていて、可愛い顔が台無しだ。
右手に温もりがあると思ったら、どうやらずっと手を握っていてくれたらしい。今でもその手は離れていない。
「ここは、医務室ですか」
周りを見渡して僕は聞く。
「そうです。大阪城内の医務室です。彩美公の命令で、最高峰の官医( 幕府専属の医者 )が集められ、なんとか瑞樹さんの命は繋がりました。集めすぎて暇な官医もいたようです。突っ立ってるだけみたいな」
それは呼びすぎだ。
「あとで将軍さまにお礼を言いにいきます。それで、僕の最後の記憶だと、鬼兵衛には逃げられたと思うんですが」
「はい。三〇人の従者をもろともせず姿を消しました」
くそっ、ここまで負傷を負っても鬼兵衛を捕まえることはできないのか。
「あと一歩だったんですけどね」
「いいんです。鬼兵衛を捕まえるチャンスはこれからもきっとあります。私は瑞樹さんが助かった、それだけでいいんです。本当によかった」
「そうですか。手、もう離してもいいですよ」
「え!? あ、はい!」
初鹿野さんは勢いよく僕の手を投げつけた。離していいとは言ったけど、放り投げていいとは言っていない。
「敬語、もうやめてください」
「え?」
「前も言いましたよ。瑞樹さんは老中なんですから、私の上の立場です」
「ああ、でももうこの話し方で慣れてしまってるので、このままでいきます」
「い、嫌ですっ!」
初鹿野さんはグッと僕に顔を近付けた。話す息がかかる。
「敬語なんてっ! 私は、私は瑞樹さんともっと近い距離がいいですっ!」
初鹿野さんは僕の手をぎゅっと包んで抱きしめた。故意なのか偶然なのか、僕の手は初鹿野さんの胸にあたり、ドキッとする。大ケガしていてよかった。体は興奮できる状態ではない。
「わ、わかりました。これからは老中として、町奉行の上の立場として、そして初鹿野まおのよき上司として! 接することにする!」
「はい! 上司! よろしくお願いしますっ!」
こうして今回の窃盗事件は、お好み焼きは防げなかったが、たこは未然に防ぐことに成功。老中一人の重傷と、町奉行従者十人の負傷という結果に終わった。
決して褒められた結果ではないが、初めて鬼兵衛の顔を明確に記録できたということは功績だろう。
一つ疑問が残るのは、死にかけの僕の体が意識とは
そんな僕の不安を吹き飛ばすかのように、初鹿野は
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