第36話 押し寄せる腐臭

 首都ビヨルリンシティ。


そこでは、人々が蜂の巣をつついたように蜘蛛の子を散らしていた。


「死んだマルーシャ姫が復活した」

「いや、もともと生きていた」

「最近の天候不順はマルーシャ姫の呪いだ」

「人がどんどん行方不明になっている」

「こんな一大事にガーフをやるな」

「マルーシャ姫がアイヒホルン軍を率いて攻めてくるぞ」


様々な噂が散らされた人々の間で飛び交った。


その首都の軍施設の執務室で、腐敗大臣ムフ・ブハーリンと堕落将軍アブラーモ・ボッコリーニの二人のつばぜり合い、唾の掛け合いが起こっていた。

「んなぜマルーシャ姫が生きておるのだ、どおん!」

色白のブハーリンが、ボッコリーニの執務室に入ってくるなり机を叩いた。机の上の小物が全て飛び上がり、そしてそのすべての小物にブハーリンの唾が吹きかかった。

「貴殿が討ち漏らしたおかげで、どおん!」

もう一度ブハーリンが白い顔を赤くして机を叩く。ボッコリーニの顔にも十数滴のつばがかかった。


「前回の掃討作戦ではそんな任務は受けておらんぞ」

ボッコリーニも顔色ひとつ変えずに片眉をあげて座ったまま答えた。

「ぐぬう?」

ブハーリンがひるんだ。右に歪んだ表情を今度は左に歪ませる。

「だいたい、おぬしの刺客がちゃんと姫を暗殺して死体を確保していれば、こんなことにはなっておらんはずだ、どおん!」

こんどはボッコリーニが立ち上がって、机は叩かずに寸前で止めて、口でどおんと言った。小物が壊れるのが嫌だからだ。

ブハーリンの顔に、二十数滴のつばが降りかかる。


「すでに姫の偽物は確保して、教居の地下に幽閉しておる、どおん!」

小物が飛び上がってデスクに落下する前にすべて空中で受け止め、それらを机の引き出しに素早くなおしていくボッコリーニ。その顔に、三十数滴のつばが降ってくる。

「そんな偽物などいくら捕まえても意味がない、どおん!」

「貴殿はアイヒホルン城を襲っていたモンスターを見て逃げ出したというではないか、どおん!」

お互いの顔に、四十九滴のつばがそれぞれ降りかかり、ブハーリンがぺっとつばを吐いて、四十九対五十となった。決着がついたようだ。

「むぐぐ……」

ボッコリーニが勢いに押されて椅子に座る。


「わ、わかった」

しかたなくボッコリーニがタオルで顔を拭きながら口を開いた。

「この状況を鎮静化させるために、ただちにアイヒホルンへ向かおう。ただし……」

座りながら顔を近づけた。

「それなりの軍勢は率いさせてもらうぞ」

「それはかまわん。軍事については貴殿に任せる」

ブハーリンも、ふだんの涼しい表情に戻って高級感のある白いハンカチでべとべとになっていた顔を拭った。

「たとえこの首都からすべての兵を引き連れていったとしても、この首都を攻めるものなどいはしない、ほほほほほ」

ブハーリンは白いエレガントな扇で顔をぱたぱたして乾かしながら、執務室を出て行った。


「今の、聞いておったな」

「はい」

ブハーリンが出て行ったのち、執務室のカーテンに隠れていた副官が姿を現した。

「親衛隊以外の兵を全て連れていくぞ……」

その翌日、公称百万、実数十万人の兵が首都住民に見送られながら進発した。


 その三日後あたりから、


アイヒホルン城周辺に首都軍の先発隊が到着し、包囲を始めた。東西南北それぞれの門から一キロ以内の位置に、陣を構築しはじめた。


そしてさらに二日後、

「さあ、もう奴らも袋のネズミだ」

首都軍大将のアブラーモ・ボッコリーニも、前回と同じ西門近くの本陣にいよいよ入った。

「やつらの軍勢は?」

副官に尋ねる。

「守備兵はおよそ五万と思われます」

「よし、首都からとにかく旗指物を運び込ませろ、そして各陣二十五万づつ、合計百万を立てさせるのだ。そうすれば戦いに勝てる」

「はっ、ただちに」

副官がその命を受けてさらに下の者に命じた。


「ふふ、さすがのマルーシャ姫とリーゼンフェルト将軍も、百万の旗さしものには勝てんだろう……」

そう言いながら、ボッコリーニは仮設のデスクのうえで持ってきた小物を弄ぶ。

その翌日には大量の旗が首都から届き、そしてさらに翌日に陣の中や周囲に立て並べられた。アイヒホルン城は、戦意を喪失したのか門を閉ざしてとても静かだ。

「よし、降伏の使者を送れ!」

ボッコリーニが副官に命じた。

「申し上げます!」

使者が戻ってきて告げた。


「どうだ?」

「マルーシャ姫、そしてリーゼンフェルト将軍は、明日まで待ってほしいとのことです!」

「なんだと!?」

一瞬イラッとしたボッコリーニだったが、

「まあよい……」

明日までなら待ってやろう。これで、首都に帰れば報奨金を貰ってさらに高額な小物が買える。それで頭が一杯になった。

その夜半ごろから、この季節に珍しく、急に冷え込んできた。さらに霧も出てきた。

ボッコリーニは暑がりだったので、その冷えた夜気がちょうどよく、陣の簡易ベッドでもよく眠れそうだった。


 そして、


ここは首都ビヨルリンシティの教居のはるか地下。

「ギルバート……」

「マ、マリーか……」

牢の中にいるギルバートにマリーが声をかけた。

「牢屋術で抜け出したのか?」

「うん、すべての看守を買収したわ」

マリーが鍵を開けた。ギルバートはなぜか全身あざだらけだ。

「拷問を受けたの?」

「いや、まだだ。牢を抜け出そうとして擦りむいただけだ」

マリーが看守から取り返した衣装をギルバートに渡す。

ギルバートがそれに着替えると、二人で地下施設内を歩き始めた。


「この地下施設、なにか変なのよね」

「ああ、おれも感じた」

特にこの階段から下、嫌なものを感じるわ、とマリー。恐るおそる階段を二人で降りていく。

「まるで、病院ね」

上の牢のフロアとは異なり、そこは真新しい病院のような、白い壁に独特の消毒液のような臭い。

「鉄格子があるわよ」

そこで、二人がぎょっとして足を止めた。たくさんの、生気のないひと。


「い、生きてるわ……」

おーい、大丈夫ですかーと声をかけてみるが、反応がない。眠っているだけなのか。しかし、死んでいるようには見えない。

さらにフロアを進んでいくと、緑の光る掲示板がついた、扉があった。

「うわっ」

開けてみると、

「死体安置室ね……」

大量の、それらがひと目で死体とわかった。そして、氷室になっているのかうすら寒い。さらに進んでいくと、


「棺が積んである!」

ギルバートがそのひとつの蓋を開けてみた。

「死体だ!」

なんと、棺に死体が入っている、と驚いてみせた。

さらにその奥の廊下に出て、赤いランプの付いた扉を開ける。

「え? なにここ?」

拘束帯の付いた椅子がひとつ置いてあり、様々な痛々しい器具。床には、赤黒い血のあとのようにも見える染み。

「拷問室かな?」

鳥肌が立ってきたのでその部屋を出て、さらに奥の倉庫のような扉を開けた。


「人形?」

たくさんの、人間の子どもほどの大きさのある人形が棚に大量に置いてある。その奥には、大きな木箱に箱詰めされているようだ。

「なんだこれは?」

少なくとも、子どもが遊ぶための人形には見えない。

「まだ扉があるね」

それを開けて入ってみた。

腰ほどの高さの、鉄格子の付いた檻が積まれて並んでいる。犬でも飼っているのか、とその中をよく見ると、

「人形!?」

さきほどの人形と同じようなものがいる。


そして、

「動いている!?」

その人形のひとつが、マリーとギルバートに気づいたように鉄格子にすり寄ってきた。

「なに? 何か言いたいの?」

鉄格子の間から手を伸ばしてくるのだが、その人形はのっぺらぼうで口もついておらず、何も聞き取れない。

そのさらさらした布のような素材の手に触れたとき、

「足音だ!」

ギルバートが気づいた。


「隠れよう!」

さっと身を隠しながら、様子を見る。

「看守じゃなさそうね……」

足音から、看守のものではなさそうだ。

「いったん牢に戻ろう」

この施設、そしてこの状況が何なのかとても気になったが、戻ることにした。


 グラネロ城塞砦では、

新北門を出たところで、迫真の演技が続いていた。

「偽物よ、ここより立ち去れ!」

ニコラに似た人物が、声を荒げる。

その声を受けて、平民服に腰に紫鞘の剣をさしたヨエル、そして腕を縛られて麻袋を頭に被せられたマルヴィナが、とぼとぼと歩き出した。

その直後に、グラネロ砦の各辻に、偽のマルーシャ姫を追放した、という立て看板が立てられた。


「もうこのへんでいいかな?」

砦が見えなくなったあたりで、ヨエルがマルヴィナの麻袋をはずし、両手首の縄をほどく。

「どこで合流できるのかしら?」

マルヴィナが、さっそくマルーシャが送ってくれたという援軍を気にしはじめた。

「街道を北上しろって話だよね……」

ヨエルが答えているうちから、一台の馬車が近づいてくる。

反射的に、街道のわきの木陰に隠れた。


「誰が乗っているのだろう?」

この馬車にその援軍というのが乗っている可能性もある。馬車が駆け抜けていくタイミングで、車窓から中の人物を見逃すまいと目を見張る二人。

そして、

「その馬車、待って!」

見知った顔があった。

馬車が止まり、背の高い女性と、背はそれほど高くないが太い胴体の男性が降りてきた。

「マルーシャ姫!」

そう叫んで寄ってきた。

「ヒスイにゴシュ!」

ヒスイは黒いコートを着て、ゴシュはあまり目立たない格好だ。

「そうだわ、もうマルーシャ姫ではないのね」

そう言いながら、ヒスイがマルヴィナをがっちり抱きとめた。

「ほんもののマルーシャ姫から、色々と聞いたよ。もう大丈夫、安心してくれ」

ゴシュとも握手を交わす。


「途中の関所まで馬車で行こう」

そう言って四人で乗り込んだ。

「首都に着いたら、さらに二人の応援があるよ」

ヒスイが告げる。

「二人?」

「強力な二人さ」

だが、マルヴィナは砦が少し気になるようで、窓から、すでに見えない砦の方角を心配そうに眺めた。

「大丈夫、彼らは彼らの役割をきっとやり遂げる」

自分たちは自分たちの試練を乗り越えるべきだ、というヒスイの言葉に、そうねと答えるマルヴィナ。前を見つめ直した。


「あれ?」

とヨエルが何かに気づいた。

「ゴシュさん、鎧を着込んでいるね、窮屈じゃないの?」

ゴシュは、トイレを磨く雑巾のような色をしたタバードの下に、例の金色の鎧を着込んでいた。


「ん? ああ、これか。この鎧は、真鍮と軽い金属を混ぜて精錬しているからね」

と言って、手甲を外してヨエルに手渡す。

「あ、軽い」

それは軽く、しかも近くで見るとなんだか安っぽい輝き。

「しかもね、防御性能がほとんどないんだ」

「へえ、そんな紙防具で戦っていたんだね」

ヨエルが感心している。

「わたしもね、本当はもっとホンモノの輝きを持つ、防御性能の高い鎧がほしいんだが、はっはっは」

二人のどうでもいい会話を横で聞きつつ、


これから首都でどんな運命が待ち受けるのか、心配なマルヴィナだった。

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