第10話 隠れ宿
その降りてきた人物、
薄い緑色の長髪を結って左右に逆立てたようになっている。太く丸い胴回りにフィットする赤い服。
「したー、したー、したーにー。チェックインでござるー、したーにー」
独特の掛け声の露払いを先頭に、
笛、鈴、鐘、太鼓の音とともに、輿から降りたその赤くて丸い人物が歩いてくるが、どうもとても底の分厚い履物を足に履いているようで、そろーりそろりと、とても遅いスピードで一歩一歩進んでくる。
「したーにー、アグリッピナ・アグリコラ妃殿下のお通りでござーるー、したーにー」
露払いのひとりに指示されて門の脇にしゃがんでいたマルーシャたち。
そのアグリッピナ・アグリコラと呼ばれる人物がちょうど目の前をそろりそろりと、通り過ぎようとしたとき、ふとヨナタンが、
「なんか、トマトみたい……」
とつぶやいた。
「うぷっ」
その言葉のあとにあらためてその人物を見上げ、噴き出しそうになるマルーシャとヒスイ。
「そこな愚民!」
アグリッピナが、マルーシャの前に立った。
「今なんと……、いえ、立ちなさい。そして、まずは名を名乗りなさい」
立ち上がったマルーシャ。
周囲を取り巻きたちが取り囲む。そのまたさらに周囲に多くの見物人。
そのアグリッピナ妃殿下の前に立つと、とても底の厚い履物を履いているにも関わらず、背丈がマルーシャとかわらない。マルーシャが履いているのはふつうの厚さの平民ブーツだ。
アグリッピナの顔と履物を交互に眺めながら、
「わたしはマルーシャ。姓は無いわ」
「なにぃ!? 姓が無い、だとぉ!? も、もしかして、そなたは……、教皇の血筋に連なるものか?」
「ええ、そのとおりね」
マルーシャがやや胸を張ったように見えた。
「ぐぬぬ、しかあし!」
床から緑色の幹の木が数本、突然生えてきて、宿の入り口の軒の天井にぶち当たる。
「魔法!?」
マルーシャが一歩下がり、そのまえにずいと立ちはだかるヒスイ。
「うぬあ!」
その声とともに、ヒスイの周囲の床に、大小さまざまな、剣やら槍やらの刃物が突き立った。
「なんの!」
二人のものすごい睨み合いに、周囲の人間も悲鳴をあげながら慌てて下がる。見物人たちも距離をとり、不安と期待の表情で見守った。
「ここでポンだ!」
アグリッピナが両手の平を開くと、
木々の枝に一気に大人の手のひらほどもある黄色い花が咲き乱れ、そしてすぐ枯れ落ちて緑色の実が出現。それがみるみる熟して赤くなり、床に落ちた。
「逃げろ!」
アグリッピナの従者たちが逃げ出し、赤い実が次々と破裂する。
「なんの!」
破裂の衝撃のたびに、ヒスイの周囲に金属の盾が体を取り囲むように出現しては消えた。
「おぬし、やるな!?」
「おぬしこそやるな!」
二人が両手の平をがっちり組み合わせて、力比べが始まった。いったん、背の低いアグリッピナが上から押しつぶされそうになるが、もちなおして押し返す。
押し返しながら、素早く両足の履物をどこかへ蹴り投げて、踏ん張った。
「ぐぬぬぬ!」
二人が力を込めてうなるほど、周囲にさらに木が生えてきて、刃物が床に突き刺さっては消える。
「うわあ!」
周囲の人間はさらに距離をとった。
「あれ? マルーシャは?」
ヨナタンはうしろに下がりながら、マルーシャの姿が見えなくなっていることに気づいた。
そして、
「どうしよう?」
腰に差していた濃い紫鞘の剣を手に持ち、抜くかどうか逡巡している。
「くはあ!」
ヒスイが組んでいた左手を引きはがし、その左手でアグリッピナのドレスの右奥襟をがしっとつかんだ。一気にステップインして腰を回し、左足を跳ね上げる。
「ふぬっ!」
それをしっかりと腰、いや、腹で受け止めたアグリッピナ。下から手を差し込んで背を逸らす。
「よいしょー!」
周りからも息を合わせた掛け声、なんと、ヒスイの巨体が持ち上がり、アグリッピナの腹のうえで一回転した。そのまま背中から床にどうと落とされるヒスイ。
しかし、しっかりと受け身がとれたのか、ヘッドスプリングですぐにヒスイが跳ね起きる。
「ふっ、こんな返され方をしたのは初めてだわ」
にやりとして親指で鼻をこするヒスイ。
「大往生流ね……。あやうくもっていかれるところだったわ」
額の油汗を手の甲でさっと拭うアグリッピナ。
いろんな備品が壊れた宿のフロントの前で、相手を見据えながらあらためて構え直す二人。
そこに、
しゃあん、しゃあん、鈴の音とともに入ってくる者。
「お、おかみだ、この宿の女将だ!」
と誰かの声。
ふたりの従者を引き連れて、異国風の衣装を付け、黒い髪をまあるく結って無数の髪飾りを付けた女性が入ってきた。
「みなさま、ようおいでなさいました」
にこにこと摺り足で歩いてくる。
そして、アグリッピナとヒスイに一枚ずつ紙を渡した。
いつの間にかマルーシャも姿を現わしており、ヨナタンも寄ってきて三人で紙を覗き込んだ。
「ふむう……」
その紙には、タイトルに請求状と大書され、破損したもののリストと金額、そして一番下に合計金額が記載されていた。
「しょうがないわねえ、マリーに送っておきましょう」
その向こうでは、
「国元に送っておくように……」
アグリッピナが従者のひとりに命じていた。
「それではみなさま、ごゆるりと……」
しゃあん、しゃあんという鈴の音とともに、宿の女将が摺り足で去っていく。
その後、無事チェックインを済ませ、
自分たちが泊まる櫓のひとつに入った三人。
「なかなかいい宿ね」
部屋は大きな引き戸が全面にあって、それらをすべて開けるととても開放的になった。
外を観ると、自分たちのいるのと同じような櫓がいくつも立ち並び、ひときわ大きな櫓では、すべての引き戸を開いて宴会をしているようだ。
やんややんやと騒いでいるのが聞こえてくる。
「さっきの彼らかしら?」
おそらく、さっきの団体様が入った本丸櫓のようだ。
ふと目を戻すと、今いる櫓の中はとても複雑な構造をしており、三階建ての構造の中間に中二階や小部屋やはしごや階段の踊り場が複雑に入り組んで絡んでいた。
「お風呂に入ろうかしら」
メインの居間に大き目のお風呂がついている。
部屋の調度品は、見慣れたものが半分、異国風のものが半分で不思議な雰囲気を醸し出していた。
「ヨナタンもいっしょに入る?」
「い、いや、ぼくはいいよ」
いくつかある小部屋にはお風呂も付いているようで、服を脱ぎかけるマルーシャとヒスイを尻目に急いで行ってしまった。
ざぶんと湯船につかると、ヒスイとマルーシャの二人が入っても充分な広さのヒノキづくりだった。
「あー、落ち着く……」
遠くで花火があがっているのだろうか、どおんどおんとときおり低い音が響く。かすかに虫よけの線香の香り。
「音楽会はいつだったかな?」
ヒスイが、風呂桶の横の小さなテーブルに置いていた招待状を取り上げた。
「三日後だね」
風呂桶のふちに頭をのっけて、仰向けで目をつぶっているマルーシャにも、どこか別の世界のことのようにヒスイのその言葉が耳に入ってきた。
「実際にステージにあがる時間よりも、控室に入る時間がだいぶ早いね」
「どういうこと?」
目をつぶりながら尋ねるマルーシャ。
「小さくかっこ書きで、楽屋挨拶って書いてあるけど……」
「ええ!?」
眉をしかめながら目を開き、顔を持ち上げたマルーシャ。
「他の共演者に挨拶まわりだね」
めんどくさいなあ、と吐き捨ててもういちど仰向けで目を閉じるマルーシャ。
おーい、食事が用意されてるよーと、遠くからヨナタンの声が聞こえてきた。
「行こう!」
お腹が空いていたのを思い出して、風呂桶からあがって急いで体を拭く二人。
宿に用意された着物を着て、下の階へ降りていく。い草の厚いマットが敷き詰められた広い部屋だった。
低いテーブルの上に小さな小鉢がたくさん並んでいる。
「美味しそう!」
三人が並んで座って食べ始めると、突然目の前の引き戸が引かれた。
そこには、異国風の衣装の男女が十名ほど、弦楽器、笛、鈴、太鼓などの各種楽器。二人が前に出て踊りはじめ、うしろのひとりが歌いだす。
美形の男女が寄ってきて、お酌しだした。
「われわれは酒精はいただかぬので……」
ヒスイが手で断ると、
「だいじょうぶどす、のんあるこおるどすさかいに……」
美人がそう答えて、飲み物を小さな杯についでいく。
三人とも、気分が酔ってきた。
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