第9話 突破

 たいして息を吸えていないまま、水の中へ。


「ごぽっ!」

水は思っていたより冷たく、視界は思っていたより悪くない。必死にヒスイの足を追いかけて、水をかく。

ヨナタンのことが一瞬頭をよぎったが、彼の位置を確かめる余裕などまったくなかった。


「体が……、重い!」

服を着ているからだろうか、うまく前に進まない。ヒスイから少しづつ距離が離されている気がする。

「水を掻く時に、力を抜いて」

頭の中に、そんな声が響いたような気がした。

その言葉に従い、脱力する。力みが減ると、少し進みがよくなった。

「まだなの!?」

周囲はどんどん暗くなる。ヒスイの灯りの呪文がここでは効力を発していないのだろうか。

視界がなくなるにつれ、再び不安が襲ってきた。体が固くなる。


「息が、続かない……」

ほとんど視界がなくなったとき、

誰かに首元をぐいとつかまれた。そのまま、ぐいぐい引っ張られる。

「力を抜いて、運命に身を任せるのよ」

再び不思議な声が聞こえた気がした。

力を抜いて、引っ張られるに任せる。水の抵抗を、極力殺す。そうすると、なぜか息も少し楽になった。

「こうかしら?」

引っ張られるタイミングに合わせて、足で水を蹴る。体をしならせる。

「でも……」

さすがにまた息がつらくなってきた。頭の中が徐々に真っ白に輝きだす……。


 気づいたときには、水面でバシャバシャともがいていた。

「立って!」

立ち上がると、膝ほどの水位だった。

数メートル横で、ヨナタンが立ち上がりながらゴホゴホとせき込んでいる。

「走れる!?」

声がうまく出せず、ただ走りながら何度もうなずく。

しばらく走っていると、少し気分が冷静になってきた。ヒスイが前を走っていて、ヨナタンもすぐうしろを走っている。


「少しスピードを落とそう」

ヒスイも少し息が切れている。

「装備を失くしていないかしら?」

ヒスイに言われて、歩きながら自分の体をチェックする。何も失くしていない、問題なさそうだ。服がずぶ濡れなのが気になったが、

「大丈夫だ。歩いていれば、そのうち体温で乾くよ」

とヒスイ。


「あの蜘蛛は?」

少し歩くとヒスイに尋ねる余裕もできてきた。

「粘菌は水を潜ってやってくるだろうけど、時間は稼げるかもね」

少しづつ息も整ってきた。

そして、追いつかれることもなく、ついに出口らしき場所に到達。

「着いた!?」

入った時と同じように、洞窟の入り口に全面板が張ってあり、隙間からかすかに灯りが漏れていた。

「じゃあ、端を通れるようにするから、少し向こうを向いていてくれるかしら?」

ヒスイはあまり力を出すところを見られたくないようだ。


マルーシャとヨナタンが背を向けると、ふーと息を吐く音。

「ふんっ!」

という気合いとともに、ミシミシ、ミシミシと木がきしむ音。そして、バキッ、バキッと木が裂ける音。

「よし、いいよ!」

振り返ると、ヒスイもかがんで通れるほどの穴が開いていた。

「やっと出れる……」

外はもう夕暮れどきのようだ。


と、三人で外に出ると、

「なんだ? おまえらは?」

いきなり派手な格好の男。続き服のようなものに、文字がたくさん書かれている。

周囲を見渡すと、見える範囲だけで五十人はいる。酒盛りのように騒がしい。どこかに馬も繋がれているようで、時折いななき声が聞こえる。

「暴走天使でよろしく! 暴走天使でよろしく!」

「唯我独尊でよろしく! 唯我独尊でよろしく!」

何かよくわからない言葉を繰り返し叫んでいる。


「おまえら、喧嘩売ってんのか!?」

ひとりがマルーシャに詰め寄ってきた。

「こいつら……、騎馬ゾクだな……」

と言いながら、ヒスイがずいとマルーシャの前に出た。

「ひいっ!」

マルーシャに詰め寄ろうとした男が、ヒスイの視線でうしろへ吹っ飛んだ。

「おい、なんだこいつら!」

三人が周囲を取り囲まれるが、ヒスイの体の大きさに少しひるんでいるようだ。

「ゾクチョウ!」

「ゾクチョウ!」

一人の、髪を逆立てたひときわ派手な男があらわれ、ヒスイの前に立った。やはり、だいぶ体格差がある。


「わりい、用事ができた……」

ゾクチョウと呼ばれた男が、人込みを掻きわけていなくなった。

「バーンチョウ!」

「バーンチョウ!」

今度はもう少し体格の良い男が出てきたが、

「わりい、今日は腹いてえわ……」

ヒスイの前に立って睨まれると、急に具合が悪くなったようだ。

「ウーラーバン!」

「ウーラーバン!」

三人目がヒスイの前に立ち、周囲の期待を背負って泣きそうな顔になっていたとき、


「アニキが来たぞ!」

「おお! アニキだ!」

ひとの数は百人ほどになっていて、その人混みがさっと開いて、その向こうに黒塗りの馬車が停まった。客車の窓ガラスも真っ黒に塗られたドアが開き、太った男と痩せたのっぽの男が降りてきた。

「おやおや、こんなところに野鼠が迷い込んだようですね……」

完全に反り上げた頭、額には、大王城と書かれている。

のっぽのほうは、長髪に黒い口マスクをしており、そこには白字で不真面目と書かれてあった。


太ったほうがヒスイのすぐ前に立った。他の者と比べてもかなり大きな体をしているが、やはり頭ひとつヒスイよりも低い。

「ぼくたちが暴走天使シャルル団と知って……」

「ひぽっご!」

左右、どちらの手で殴られたかもわからないまま、回転して地面に転がる太った男。

「きえーぃ!」

どこから取り出したのか、長い剣でヒスイにいきなり斬りかかるのっぽ。その斬撃を腕で受け止めるヒスイ。キーンと高い音がして、束から先が数メートル先に突き刺さる。

「アイアンスキン。アイアンスキンはいかなる斬撃も受け付けない」

折れた剣を振り下ろした姿勢のまま、顎まで下がったマスクに開いた口、呆然として動けないのっぽ。


 数秒間沈黙が続いたが、


誰かの、

「椅子をお持ちしろ……」

という声に、折り畳みの椅子が三つ並べられた。

「どうもすみませんでした!」

真ん中にヒスイ、左右にヨナタンとマルーシャが座り、その前で手をついて頭を下げる太った男とのっぽの男。たくさんいた周囲の者も、立ったまま膝に手をついて頭を下げている。

厳しい顔つきのヒスイ、しかし、表情を和らげて言った。

「おもてをあげよ。わたしも伝説の漢、ライディーンを開祖とする大往生流を習っていたよ」

太った男のほうが、ぱっと頭をあげた。

「ど、どうりで……、殴られたとき、痛みよりも優しさを感じました!」

と嬉しそうに言った。


「ところで、おぬしたち、名前は?」

「アキカゼです」

のっぽのほうが先に答えた。

「そ、その……」

太ったほうは少し答えづらそうだ。

「ライディーンです……」

ついに消え入りそうな声で答えた。

「なにぃ!?」

一瞬険しい表情になるヒスイだが、すぐに優しい顔に戻り、

「その名に恥じぬ漢になれ」

と言葉をかけたので、またうれしそうに顔をあげる太った男。


「ところで……」

首都ビヨルリンシティまでいくのに、ちょうどよさそうな乗り物がある。

「この馬車で首都まで乗せていってもらえるかな?」

「は、はい!」

中に乗り込むと、六人乗り、向かい合わせに三席づつ並んだ珍しいかたちの客車だった。

「広いね」

三人とも、進行方向を向く側の席に座って、足をのばす。

アキカゼとライディーンも乗ってこようとすると、

「待て、おまえたちは馬でついてこい」

「は、はい!」

ヒスイも足を前の座席に乗せて、余裕の表情になった。


 それから数時間、すっかり夜になった。

「もうそろそろだね……」

ヒスイが羊の革袋から、メモを取り出した。マリーからもらったメモで、その日の宿の場所が書いてあるようだ。

「首都の郊外にあるようだけど……、このまま行くと目立ってしまうね」

ということで、少し手前で黒塗りの馬車を降りて歩くことにした。

「ヒスイねえさん、何かあれば、いつでもなんでも言ってください!」

暴走天使シャルル団百騎あまり、ライディーンたちはもと来た道を帰っていった。

「わたしたちが潜伏するための、隠れ宿をマリーが手配してくれたんだけど……」

しばらく歩いていくと、首都の町はずれに、とても大きくて派手な宿が見えてきた。何層にも連なる瓦の屋根、いくつもの突き出た櫓。


「あれが隠れ宿なの?」

「メモだと確かにここなんだけど……」

三人で近くまで来てみると、確かに入口のところに隠れ宿サスキア御殿と大書されている。

「マリーがここを手配したの?」

「とりあえず入って聞いてみるか……」

しかし、宿の入り口もとても豪華で、これから泊まるであろう、たくさんの人で賑わっており、しかもどの人も綺麗な身なりで都会の大富豪といった感じだ。

「いいのかな?」

いっぽうの自分たちは旅装の、水に浸かったのもあってか衣服も髪もよれよれで、しかも体からなんだかかび臭いニオイが漂っている。


入り口のあたりでやや躊躇していると、

どうやら団体様が到着したようだ。

「チェックインでござるー! チェックインでござるー!」

甲高い声がして、派手な衣装を着た行列がやってきた。

「アショフ国国使にして絶世の歌姫、アグリッピナ・アグリコラ妃殿下であらせられるぞ、道をあけよー!」

旗を持った露払いが掛け声とともにやってきた。

「そこな愚民! ただちに道を開けよ!」

入り口に突っ立っていたマルーシャたちを見咎めて、声を荒げる。

慌てて脇へ寄る三人。


そこへ、

何十人もの男たちに担がれた大きな輿。入り口の手前で、一人の人物がその輿から降りてきた。

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