ここ吹く恋

笹霧

ここ吹く恋

 そばの自動販売機が低音でうなっている。最初は気になったこの音も今は慣れた。見慣れない飲料が目につく。そこには早くも温かい飲み物が並べられていた。早いなと思いながら視線を前方に戻す。目の前には車の多い細長い駐車場。その向こうには川と林。風に葉を揺らす姿は夏と秋の狭間なのに景色の変化がまだ見られなかった。

 平日の朝、私はいつもここに居る。男の子を待っていた。自分と同じ高校で同じ教室の二年生。彼が来る通路の方は見ない。待っている時の待ち遠しさがそんなに好きじゃないから。

「美月さん。お待たせ」

 声に振り向くと手提げバッグが掲げられていた。そこには私の待っていたものが入っている。平日の大事な楽しみ。彼がバッグから取り出したのは市松模様の風呂敷に包まれた弁当箱。私は笑みを堪えきれず弁当箱に手を伸ばした。しかし伸ばした手が途中で止まる。

 ――――あなたって凄いわね。いつも弁当を作ってもらって何も思わないなんて。気になったりしないんだ。

 加奈代かなよの言葉に自分の手を見つめる。何でだろうと思っても疑問は消えない。

 日野原ひのはら君が私の弁当箱を指差した。

「今日の肉はひれだから」

「ヒレ肉っ……とんかつだね」

「えっと、うん。本当に肉が好きだね」

 受け取った弁当箱を少し上に掲げて歩く。今日のお肉はどんな味がするだろうかと考える。お肉は好き。噛み締めるたびに味が変わる。幾らでも食べられる。

「待って。そこには――」

 私はまた忘れていた。お肉のことばかり考えていていつもの如くこの道を進んでいた。日野原君の声が聞こえてきた時にはあの犬の領域に足を踏み入れていた。辺りにとどろく吠え。目の覚めるような迫力に足がすくむ。体が引きって温度が消失していく。横に体が引っ張られた。犬が視界から消えて眼前には白いなだらかな壁が立つ。筋肉の引き締まった背中だった。

「大丈夫だから」

 日野原君が目の前に居た。油の良い匂いが鼻に届く。ほんの少し落ち着きを取り戻した私を彼はゆっくりと歩かせる。犬の鳴き声が聞こえなくなったところで私達は止まった。いつの間にか掴んでいた彼の制服の袖をゆっくりと離す。

「ありがとう」

「このぐらい何でもない」

「いつもありがとう」

 もう一度お礼を言った私。どうしてまた、と彼は明後日の方向を向いてそう聞いてくる。視線の先には尾が白くて長い小鳥が冊に留まっていた。

「だって私……お母さんが倒れてからずっと……」

「この前のバイトの時も言ったよ。練習になるから気にしないでって」

 ずっと助けてもらってるから。

 言えなかった。彼の過度に感謝されることを嫌がる素振り。それを見たら続く言葉がなかった。彼が行こうかと変わらぬ声音で歩き出す。

 他の友達と合流するまで会話は無かった。守ってくれた背中を見つめる。歩行時の揺れと少し冷たい風が白布に波を作っていた。少しズボンに挟まったのを彼の手が直す。ふと加奈代の顔を思い出した。彼女は恋をしなさいと私に言う。でも、目の前の彼にどんな感情を持てば良いのだろう。


 平日の放課後のカフェ。私は電車で数駅を移動して目の前に座る遠山加奈代とおやま かなよに会いに来ていた。駅と一体化している商業ビルに建つこのお店はいつも客足が良い。響くクラシックの澄んだ音に雑多な音が溶け出していた。

 駅をまたいで会う大切な友達は、果実と牛乳を混ぜた飲料を飲みながらジト目で私を見ていた。どうしてこの子は疎いのかしら、とか言っている。脈とかよくわからない。

「……加奈代はどうしてそんなに彼のこと気にしてるの」

 ストローから口を離した加奈代は、紙ナプキンを何枚も取ると何か動物を折り始めた。彼女は折ったものをテーブルに並べながら話す。

「高校二年生の夏はもう過ぎたわよ」

「あっという間だったね」

「高校生が終わるのもあっという間」

 紙ナプキンで折り紙をするのは彼女の昔からの癖だ。動物を折る姿に見慣れたなと思っていると、加奈代は五つ目の動物の後は四角い箱を作り始めた。

「……うん」

 どう折ったのか私には分からないけど、瞬く間に十五個も箱を作った。彼女は幼稚園から大学までを言いながら箱を階段みたく積み上げる。それぞれの上に動物を乗せて彼女は四つ積まれた段を指した。

「私がそばに居るのは高校生までだよ。だからあなたのそばには誰か居て欲しいの」

 五つの箱の塔が私の前に置かれる。その際に動物が落ちてしまったが私は直さずにそれから目を背けた。

「別に」

「あなたは、誰かが、そばに居ないと、だめなの」

 動物で突かれたひたいをさする。加奈代の言葉は否定したくない。けれど、私は誰かとの関係を意識することに意味を持てなかった。そうかなと曖昧に返した私に加奈代は語気を強める。

「だってお母さんが倒れた時」

「もう大丈夫だよ」

 自分の声が無機質に聞こえた。続く言葉を遮った私を加奈代は心配そうに見る。大丈夫と念を押すと彼女は上がっていた肩を下ろして息を吐いた。

「分かったわよ。で、お母さんの調子は良いんだよね」

「うん。退院はまだだけど、とっても元気」

「また皆で旅行に行けると良いわね」

 加奈代は椅子の背もたれに身を預けて微笑む。事あるごとに聞いてるのに、今日もまた聞いてきた。恐らくそれは普通じゃない。けど、私が加奈代の立場だったら同じように……ううん、加奈代だから。加奈代だから他人のお母さんも母親と思えるんだよね。

 加奈代は私の一番大切な友達。心配させたくない。そんな彼女は箱を解体し動物に作り替えていた。生まれ変わった鶴が私の手元に置かれる。

「文化祭がもうすぐあるじゃない。準備を通じて仲良くなれないの」

 心配はさせたくないが、恋なんてする気が起きない。頑張ってみると辛うじて返した。


 教室全員の起立を確認した日直が号令を掛けた。帰りの挨拶が重なり頭を上げると担任が退室していく。時間を置かずに何人かの生徒がドアに駆け寄った。私は急ぐ理由もないので今から帰る準備をする。文化祭の準備はまだ一部の生徒しかしていない。その一部の生徒である日野原秀ひのはら しゅう君が帰ろうとしていた。

 加奈代から言わせれば私は他人に無関心なところがあるらしい。だからあんなに心配しているのだろう。でもそこで必要なのが彼氏というのは……。帰ろうかと思ったけど、怒る加奈代の顔が浮かんで彼に声を掛けた。

「帰るの」

「美月さんもだよね。俺は文化祭の料理の練習。一緒に帰るか」

 文化祭の出し物について頭を悩ませている同級生に声をかけて教室を後にした。私達のクラスは調理した食べ物出すと聞いている。個人で料理が得意な人は何人か居るらしいが、家がそういうお店の彼が一番注目を浴びていたのを覚えている。

「何か手伝う」

 自分が思っていたよりも簡単に言葉が出てきた。彼の視線に少し落ち着かない。いつも作ってもらってるから、とつい付け足していた。先を歩いていた日野原君が足を止める。

「止めてくれ。俺は別に見返りなんて求めてないから。食事代が浮いた、くらいでいいって」

 笑って彼はまた歩き始めた。揺れるその背中に目がいく。怒らせただろうか。顔には出てなかったけど、声には冷たさを感じた。少し迷う。私がもらっているお弁当は彼の手作りだ。平日は必ず作っている。朝早くに起きて作ってくれているし、お金も取ってくれない。私でもありがとうと思ってしまう。


 日野原君の家は定休日が平日にある。バイトの時はいつも繁盛しているこの店も今日は静かだった。日野原君の両親に挨拶して椅子を一つ借りる。彼は着替えるとすぐに厨房に向かった。休みの日でも綺麗なテーブルに肘をついて私は料理が出てくるのを待った。

 並べられた料理が美味しそうに見える。いや、絶対に美味しい。お弁当でも焦げたり味付けが濃すぎるなんてことはない。私が作ったらこうはいかない。コックコートを脱いだ日野原君が椅子に座る。一人前を二人で分けるためテーブルには計六つの皿が並べられた。

「文化祭で出すのは三つだけなんだ」

「いや、これは意見が聞きたいのだけだよ」

 日野原君が箸をくれる。料理を分けると彼は何も言わずに食べ始めた。その姿が少し変に思える。違和感の理由を聞きたかったけど、彼を見ても視線が合わないから話しかけられない。食べている間に会話はなかった。一皿を食べ終わってやっと視線が私に向く。分かってはいたけど感想しか聞かれない。

 ううん、何を考えてるの私は。文化祭のための、感想を言うために来たのに。私は何を……期待しているの。期待することなんて何も無い。

 席の向こうの黒の瞳。いつも笑顔だったから気付かなかったけど、今は険しさが少し見える。素顔、なのかな。つまらなそうに見えた。

「どうしてそんな顔してるの」

 思わず問いかけると、いやと彼は言いよどむ。湯吞ゆのみに伸びた手を私は掴んだ。さっきは失敗したけど、今度はちゃんと伝えないと。こんな私でも抱くこの気持ちを。

「このお肉は凄い美味しい」

 出す言葉を間違えた。嘘ではないけど。

「……知ってる。美月さんの顔を見ればね」

 恥ずかしいと思う前に彼の表情が気になった。陰りのある微笑み。私なんかを助けてくれるこの人にそんな顔をさせたくない。

「そう。じゃない、言いたかったのは――――」

 お弁当を作ってくれてありがとう。いつも助けてくれてありがとう。この言葉に偽りなんてない。けど、もっと単純なものなはず。

 平日の朝に自動販売機の前で会って、弁当箱をもらって、犬から守ってくれて、お昼にはお肉を追加でくれて、バイト終わりはお土産を持たせてくれて…………たくさんのありがとうがある。それなのに、何を言えば良いのかわからない。伝えたいことは何だろう。この気持ちを言葉にするなら。

「――――ありがとう」

 この一言だと思う。飾り付けた言葉じゃなくて、こんな短くて聞き逃しちゃいそうな、でも一杯に込められた一言。

 彼は窓の外を見ていた。聞こえていなかったかもしれない。でももう一度言うことははばかられた。迷っていると小さな声で彼が呟く。

「僕は感謝されていい人間じゃない」

 意味を考えている内に残りの料理は食べ終わっていた。耳に残った言葉が頭から離れない。料理の味は忘れてしまっていた。お肉の味を忘れてしまうなんて、私は何でこんなに動揺しているのだろう。日野原君がどうしたって関係ない。私には何も作用しない。何もないはずなのに。

 考えるのを止めてお皿を片付ける。洗おうとすると日野原君に止められた。彼が洗う姿を手持ち無沙汰に見る。ここは彼の家だ。遅い時間だし私は帰った方が良いかな。バッグを肩に掛け、出ようとしたところで彼がそばに来た。

「ちょっと待った」

「あうっ」

 日野原君に腕を引っ張られる。片足の状態で引っ張られたためバランスを崩し、勢いに抗えず後ろに倒れていく。なんとなく分かっていた。彼が助けてくれると。すぐ後ろから呼吸が聞こえる。動けなくなった。手首から伝わる熱が導火線のように心臓へと迫る。鼓動が刻む。次に期待して吐息が漏れた。

「外、雨降ってるみたいだから。傘を持っていきな」

 勘違いだった……。何の、勘違い。分からない。取り敢えず外に出た。借りた傘を天に向ける。見たことがある水色一色の彼の傘だ。広げた傘の持ち手を胸に抱く。雨音の冷たさが心地よかった。


 避けらている。ここ数日彼との会話がない。朝のお弁当は作ってくれるのだけど、渡してくるとさっさと先に歩いて行ってしまう。私はどうすればいいのだろう。わからない。

 教室を出る日野原君を追いかけた。階段を上る途中の彼の腕を掴む。逃げる様子はないけど手は離せない。

 彼の態度がこうなった理由は私なのかな。ありがとうがだめだったのかな。あの言葉を言わせてしまったからかな。わからない。日野原君にしかわからない。だから私は聞くしかない。

「日野原君。私を避けてるの。何で感謝されるのが嫌なの。私は日野原を傷付けたの」

「ははっ、直球だね」

 笑顔が崩れてつまらなそうな表情が覗けた。

「ごめんなさい。どうすればいいか分からないから」

「他人に話すようなことはないよ。別に美月さんを嫌ったわけじゃない。これは本当だから。でも、じゃあね」

 背が遠ざかっていく。その背を呼び止めていた。でも何を言えばいいか分からない。私は彼が去っていくのを眺めるだけだった。胸の奥が痛い。階段の手摺りに寄りかかる。


「嫌われたみたい」

 いつものカフェで加奈代に最近のことを伝えた。私の否定的な意見を彼女は何度も否定する。彼女はいつも私を慰めてくれた。今日も味方になってくれている。でも今回は敵なんていない。悪いのは私しか居ない。嫌われたことを強調すると彼女は逆だと言った。

「むしろ仲良くなった方よ。方向的にね」

「どうして」

「他人に少し無頓着な所があるあなたが、今こうして誰かのために悩んでるから」

「少しかな」

「そう思うなら、近付きなさい。あなたを助けてくれる人なんだから」

「でも、私は普通じゃないっ……から、彼の悩みを踏み荒らした…………そしてそれを私は何とも思っていない。こんな私」

 加奈代が彼女の悩みを一つ一つ鶴に折って口に出す。私には聞くことしかできない。大切な友人の悩みなのに。感情的になりそうだった心が一瞬で醒めた。心の内に冷たい言葉が溢れてくる。

 本当に聞くことしかできないの。本当はできることがあるんじゃないの。考えてないだけだよね。あなたは、私は他人がどうでもいいんだよ。

 気が付くと彼女が頭を撫でてくれていた。

 「あなたは、いつも話を真摯に聞いてくれてる。きっと、踏みにじったりなんてしてないよ」

 加奈代の言葉はありがたかった。でも同時にどこかの私は何も感じていなかった。自分と加奈代を否定するのが怖くて口を固く閉じる。向こうの彼女は鶴を折り続けていた。


 私はどうすればいいの。

 ずっと待っているのに彼は何も言ってこない。朝のお弁当はいつも通りくれるけど、今までよりもどこか遠くに感じる。今までそばにあったものが消えたように感じる。何が遠くへいったのか。何が消えたのかはわからない。

 校舎が影になっている境界線で足が止まった。一歩踏み出せば夕日に包まれる。見えるわけもないのに背後を振り返った。やはり、目に映るのは風に吹かれた落ち葉だけだった。

 私はまた間違えた。また間違えちゃったんだ。日野原君のことを考えなかったわけじゃない。今まで見たことを忘れていたんじゃない。ただ分からなかったから。

「だめ……傷付けた言い訳」

 加奈代の気持ちを一向に考えない自分。日野原君のことを傷付けた自分。それを何とも思っていない自分。様々な自分を私は見つめていた。

 いつしか見つめられるのは私になっていた。取り乱さなかったことへの奇異な視線が刺さる。

 通学路を歩いていた私の足から突如として力が抜けた。壁に添えた腕も力なく流れていく。耳鳴りが五感を覆い、意識と視界が沈んでいった。私はこの消失感を知っている。何もかもが見えなくなった。


 気が付くと知らないベッドで寝ていた。横目で見る窓の外は薄暗くて何時間も寝ていたことが分かる。でも、私はどうしてここに居るのかが分からない。

 寝ぼけ眼が治ると私は自分がどこに居るのか理解した。窓から見える大きなショッピングモールやマンションの位置が知っている景色と同じだった。ここはお母さんの寝ている病院だ。お母さんを心配させたくない。あまり力の入らない体をなんとかして起こした。

 不安定な体で壁に寄りかかりながら廊下を進んでいく。何日も通った建物だから道は判っていた。知っている場所でも無理に歩いているからか、いつもより時間がずっと掛かっている。浅い呼吸を繰り返している私の声が静かな廊下に響いていた。無理をすればその分だけ苦しくなる。苦しくなって声が漏れる。だから、無理をする。そんな自分に私は笑ってしまった。

 無理をするのは心配させたくないからじゃない。少しでも普通の人に近付けそうだから。私は普通じゃない。母親が倒れても取り乱さない。ひどい人間だから。

 だから、彼を傷付けた。私が普通じゃないから。

 病院の入り口に着くころにはいつもと同じように歩けた。けど、ばったりとそこで会ったお父さんや加奈代に怒られてしまう。


 私は日野原君を傷付けた。償わないといけない。けど何をすればいいの。私にできることなんて。カレンダーが目についた。今日はバイトの日だ。

 お昼頃、いつも通りの時間にバイトに行くと日野原君が驚いていた。

「何しに来てんの」

「え、バイトだよ」

 溜め息をついた日野原君が私の手を引いて店の外へ歩いていく。そのまま来た道を歩くこと半ば。足を止めた彼が私の両肩に手を掛ける。顔を歪めて訴えかけてくるその姿がなぜか嬉しかった。

「倒れたのにこんな出歩いて。何を考えてるんだよ」

「ごめん。でもどうして知ってるの」

「救急車呼んだの俺だから」

「そっか」

 思わず笑った私に彼は眉を寄せた。怒る姿でも彼を見れることにほっとする。

「日野原君はまた助けてくれたね」

 何かを言おうとして、でも彼は何も言わずに口を閉じた。

「ありがとう。日野原君はこの言葉嫌なんだよね。でも私は他にどう言えばいいか分からないから。傷付けた償いだってバイトしか思いつかないし」

 彼は自分の髪を右手でかき混ぜた。その手が右の前髪を持ち上げる。唇が震えていた。一層歪む彼の表情に目が離せない。

「どういたしましてっ……償いとか考えなくていい。俺が勝手に悩んで、それで美月さんを傷つけた」

 彼の手が髪の毛から離れて私の手に触れる。慈しむかのような手つきで握られた。

「……前を向きたかったんだ。昔のことを思い出して。今の自分が元から嫌いだったけど、際限なく嫌になって……偽善者みたいに思えて、ならなくて」

 彼の痛みが紡がれる。絞り出される声に胸が苦しくなった。でもその苦しみには嫌な感じがしなかった。私の中の何かが訴えている。感情が溢れて止まらない。どうしようもないほど嬉しいと思ってしまう。

 震えていた手を今度は私が握る。両手で包んだ手は冷たかった。温まるよう願いながら彼を見つめる。

「大丈夫。優しさは届いてる。その優しさは本物だよ」

 私の言葉にどれだけ意味があるのだろう。全くないかもしれない。でも、それでもいい。彼は頷いてくれたから。

 彼は家の前まで送ってくれた。玄関の扉を開けて後ろを見る。道中ですぐに仕事に戻ると言っていたのに彼は動かない。

「あのさ、お弁当で食べたいものはあるかな」

 いつもお肉があれば何が入っていても良かった。作ってもらっていると思っていたから。でも今は食べたいと願うものができた。日野原君が好きなものが食べたい。そう言った時の彼の表情は…………。


「美月さん、これ」

 校門のそばで日野原君は微妙な顔をしながら私のバッグを掲げた。受け取ろうとした手を彼は制し私の肩に掛けてくれる。

「男の子の喧嘩って凄いんだね」

 日野原君は笑って伸びをしようとして痛そうに頬を抑えた。盛大に殴り合ってたから痛むのは当然だよね。

 午後の授業を保健室で寝て過ごした私は、教室にバッグを取りに行って日野原君が喧嘩している所に出くわした。派手に散乱する机と椅子を見て、中に入ることを諦めて彼の携帯にメールを送っておいた。そして今彼と合流した。

「はい」

 保健室で貰ってきておいた絆創膏を渡す。彼は意外そうに絆創膏と私を交互に見てきた。

「これ……心配したの」

「知らない」

 歩く間彼は溜息を繰り返す。その理由が喧嘩なのは間違いなかった。全部を聞いたわけではないけど、断片でも内容は分かっていた。

「ねえ、日野原君。好きって何かな」

 彼は腫れてきている自分の頬を触った。隣を歩く彼の息遣いに耳を澄ませる。二人の間は離れれば近付き、近付けば離れる。私の問いに返事はない。車が横を通った時に窓ガラスに映った二人。無表情な顔の私がそこには立っていたけど、私の中には手を伸ばしている私が居た。

「こんなこと聞くのは普通じゃないよね。ごめん」

「美月さんは美月さんだよ。そんなこと言ったのが誰かは知らないけど、美月さんだから俺は救われたんだよ」

 大袈裟な言い方しか思いつかなかったけど。そう言って微笑む彼から目線を逸らす。歪む口元を見られたくなかった。檸檬れもんよりもずっと酸っぱい感情が私を振り回している。隣が鼻歌を歌い始めた。自分を意識していないことに安堵し、すぐに意識して欲しいと願う自分が居た。

 私は私でいい。この言葉が背中を押してくれている。帰り道の風景。川向こうのもう秋の色に染まり切った緑。自動販売機までもう少しだ。歩みが少し遅くなった気がする。終わることが嫌なのかな。この時間はまだ続くのに。

 でも、ずっとは続かない。高校生が終わればもうこの状況はなくなってしまう。あるいは、彼に恋人ができたら……。

 少しよろめいて電信柱に寄りかかる。よく分からない不安や焦りが私の意識を掻きまわしていった。心配そうにする日野原君にもう大丈夫と声をかける。実際不安や焦りはすぐどこかへ消えていた。

 何事もなく歩く私の中に、倒れた時の消失感が思い起こされる。今のは軽度な症状だったのかもしれない。これこそ不安や焦りを抱いてもおかしくないはずなのだが、何も芽生えてこない。彼の視線を感じる。守られていると安心していられた。

 そばに近付きたかった。もう加奈代の言葉に強いられてじゃない。私は彼を求めている。手に触れたいと願っていた。その背に身を預けたいと願っていた。

 加奈代の言葉がいつかのように思い出される。あの手が止まった瞬間が始まり。

 もう思っているし気になっている。もう目が離せない。脈なんて気にならない。嫌われたくない。近付きたい。そばに居て欲しい。数多の願いで身を焦がしそうだった。

 これが恋……なのかな。

 違うよと誰かが言った。路上駐車をしている車のガラスに映る私が喋っていた。そこに居る私は何も持っていなかった。顔には喜びも羞恥心もない。何もない私が居た。

 日野原君がそばに居る。動きを止めた私を待ってくれていた。同じ場所で同じ風を浴びている。一緒に登校をしているし、今は一緒に下校をしている。

 加奈代なら恋と言ってくれるよね。

 日野原君は制服のぼたんを首まで留めていた。両手はズボンのポケットに入れて目線は空の彼方へ向けていて。私はそんな彼を横から見ている。彼を見ているのは私だけじゃない。

 そして、彼が今見ているのは私じゃない。

 走って自動販売機の前に行き、ゆっくりと歩く彼が来るのを待つ。ここが終着点。

 文化祭が終わるまでは我慢しよう。もう忙しくなるから彼と二人の時間は朝しかなくなる。文化祭が終わったら、加奈代に相談する。空いた放課後にしっかりとデートをする。そして見極める。見極めてもらう。

 彼と別れた帰路。速い足取りで歩いていた。今の気持ちを無くしてしまわないように抱き締めて。私じゃない私が怖かった。何もない自分に奪われたくない。この感情を信じていたい。けど、抑えの利かない不安が私を突き動かす。

 何度も転びそうになった。心が体とズレている、そんな風に錯覚してしまう。家に着いた時、景色が

色褪せて見えた。息ができない程に呼吸が乱れて膝が崩れる。

「ひ……はら君」

 来るはずもない彼の名前を、私は回復するまで何度も呟いた。




 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じられない。

 身動きが取れない暗闇の中に光が少しずつ差し込んできた。重いまぶたが徐々にしかまなこを開かない。数分して落ち着いた視界に広がったのは、夕暮れ色に染められた保健室だった。まさかと逸る気持ちで時計を凝視する。短い針が差していたのは真下だった。

 文化祭は終わっていた。今日に何があったのか思い出せない。分かることは……。

「また、倒れちゃった」

 保健室のベッドが軋んだ音を立てた。起きようとしたが体に力が入らず、捻るのが精一杯で立つことができない。あお向けに戻すことも億劫おっくうで横の姿勢のまま脱力する。校舎のどこかから時折聞こえてくる音に、暫く耳をそばだてていた。音の原因を考えてはそれを放棄する。私は無意味な行為で長い空白を埋めていた。

 何も考えられなかった。今日の記憶が無い。昨日のこと。昨日までのことは覚えているのに。でも、それだけ。

 何が、それだけなのっ。

 喘ぐ欲求に駆られて声を出そうとしたら喉が渇いていた。それは長時間寝ていたからか。それとも焦りを感じているからか。

 背筋に寒気が走る。私は自分の体を抱きしめた。胸の奥が痛み、呼吸が乱れ、歯が鳴り、視界がにじむ。自分が泣いていることを自覚すると涙はすぐに頬に流れ出た。

「美月さんっ」

 日野原君が私のそばに駆け寄ってくる。涙がより一層溢れ出した。濡れることもいとわずに握ってくれる手がありがたい。この手を、そばに居て助けてくれるこの人を離したくない。抑え難い悲しみの衝動に言葉を紡いでいく。

「わた、私は……そばに居て。日野原君、私のそばに居て。日野原君が…………好きよ」

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ここ吹く恋 笹霧 @gentiana

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