nymphe

朧(oboro)

 弟が呆気なく羽化を終えてしまった。


 十七になっても羽化の兆しすらなく、遅い家系なんだろうと思い込んでいた俺を後目しりめにあっさりと、十五歳で、羽化を終えてしまった。


 羽化を迎えなくとも日々は続き、つまり授業は進んでいく。一区切りついた課題を閉じて伸びをした。脳裏を飛び交うエンドウマメを振り払い、お茶でも飲もうとキッチンへ下りる。冷蔵庫に手を掛けたところで、なんとなく予感――気配?――に駆られて覗いたリビングで弟は眠っていた。


 キッチンからは死角になるソファセットの真ん中、ソファから落ちたのか燈芯草とうしんそうのラグが心地よかったのか判別に困る姿勢で、けれど健やかに弟は眠っていた。Tシャツの裾がめくれて脇腹が見えている。クーラーの効いたリビング。風邪を引くんじゃないか、と俺は部屋に取って返して夏用の上掛けを持ってきた。掛けてやろうとして、迷う。羽化を終えた弟の背には、当然ながら羽翅はねがある。これも体の一部なわけだが、羽翅はねには布団を掛けてやるべきなのか否か。それとも逆に出しておいてやった方がいいのか? 3秒悩んでどうでもよくなって、適当に頭から覆い被せて俺も上掛けの中に潜り込んだ。


 薄いガーゼ生地でもそれなりに冷気を遮って上掛けの中は薄水色にあたたかい。眠る弟の顔を眺めながらさっきまで見ていた生物学の教科書を思い返す。兄弟間で同じ遺伝子を共有する確率の期待値は50%。可能性として0から100があり得る中での期待値なんて求める必要はあるんだろうか? 俺と弟は同性だから0%ではない、はずだけれど、少なくとも羽化について俺はウルトラスーパーレア級の潜性遺伝子を引き当てたようだし。


 弟はこの夏でずいぶん身長が伸びた。しっかり比べてはないけれど、そろそろ追い越されているだろう。おとなになってゆく身体。十五歳だって、別に早いわけではなかった。十八歳を迎えようとして、羽化の兆しもない俺の身体。


 上掛けの向こうから微かに聞こえるクーラーと冷蔵庫の稼働音が瞼を重くする。羽化をする昆虫の中には、蛹の中で自分の体をスープみたいに溶かしてしまうものもいるそうだ。このまま薄水色の蛹の中でこいつとスープになったらひとつの生き物になれるのかな、なんて。想像されるビジュアルの割には悪くない夢のような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

nymphe 朧(oboro) @_oboro_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ