第2話 前史:ルイス・アトキン・ハイドの話

雨が降っていた。ジェノヴァの美しい夕立じゃない、塵混じりの汚い土砂降りだ。雨、というより泥水だ。あまりにも汚く、黒マントを来ているのに、汚れているのがわかる。どうやったらこんな雨が降るんだ。


「やあ、ハイド卿。珍しいな。卿が主人のもとを離れるとは。捨てられて野良犬になったのか?」

汚い雨に汚い男、汚い声、汚い言葉。これ以上無いほどお似合いだ。この汚い空間の中で、ルカと僕だけが必要以上に浮いてしまっている。

「それほど大きな事案だということです。カヴァーローネ卿。」

言ったところで通じないだろうけど、言わないと腹の虫がおさまらない。つまりは自己満足だ。

「ふん。大きな事案ね。けど卿らは実際には動かないし、命もかけないだろう」

なぜこの連中はこんなにも鐘を軽視し、命を重く見るのだろう。命ほど金で買えやすいものはなく、金ほど命で手に入りにくいものもないというのに。

「お言葉ですが、カヴァーローネ卿。私共は金を出します」

「出したところでだ。もし失敗したとしても失うのは金だろ。命じゃない」

だいたいこいつらの想像力の無さはなんだ。自己防衛手段のない商人が金を失っても生きていられるだなんて、なぜ思えるんだ。

「いえ、命でございます」

「そりゃまた大げさだな。なんだ、金がなくなった瞬間死ぬとでも?」

「ええ、そのとおりでございます。商人にとって金とは武器です。武器のなくなった商人がどうなるか、アローネ家のことはごぞんじでしょう」

「知らんな」

目をそらし、鼻まで鳴らして、太った男がそっぽを向く。大根役者、というよりはだかの王様という言葉が似合う男だ。

「19年戦争でまけたガトロナハト陣営に突っ込んでいた8000万リラが焦げ付いて、全財産の3分の2を喪失。その二年後に教皇軍に一族全員殺されました。周辺国へ送る賄賂が足りなかった、との噂です。」

流石に息が切れた。一息ついて、また続ける。

「おわかりいただけましたか?商人にとって金の切れ目は命に切れ目なのです」

プライドを傷つけられた裸の国王陛下は、顔を赤くし、鼻から湯気まで吹きながら、こちらを睨んでいる。

「商人の話に納得する日が来るとはな。話半分で覚えとくよ。」

そう言って男は館に入っていった。文学的な表現が全く似合わない歩き方だ。たぶん本当に泥で作られたんだろう。ある意味ではとても信心深い男かもしれない。きちんと聖書に従って自分を作ったんだから。

「ルカ。御老に手紙を」

「カヴァーローネ家に警戒されたし、ですね」

「ああ。理解できない。この計画に失敗したら命がないどころか祖国が滅ぶんだよ?彼らは。それなのにあんなのを代理で送ってるなんて。カヴァローネの当主がやることとは思えない。多分裏がある」

「わかりませんよ。もしかしたら本当はものすごく有能で、さっきのが演技かも。会議の場ではまるでミネルヴァの子供みたいになるのでは」

「ルカ・デ=ロマーニ。自分で確信が持てないことは口にすべきじゃないと思うよ」

「旦那様。自分にも言える小言を他人に言うのはあまり褒められたことではないかと。」

「言うな。自分でも思ったことだ」

十代らしき青年と、初老の男は、しばらく笑い続けたが、すぐに建物に入っていった。


部屋に入ると、もう殆どが着席していた。先程のカヴァローネの若君は、隣にかけたヴィンセント=バイヤー伯爵と談笑している。この会合の主催者、カンタベリ大司教、アーノルド・パット=ウェストは、ミドラム侯爵アーガイルと何やら密談している。時々にやけながら会場を見渡しているということは、今回の首謀者はこの二人だろう。


「驚きましたね。皇位継承順位第四位の貴族がいるなんて。」

「ほんとだ。四番目のスペアなんていうとんでもないVIPが来るとは。ちなみにアロンソ家の継承順位四番目って誰だっけ?」

「確か・・・、パトリオット様ではないですか?確か、今シチリアにいらっしゃるずの」

「誰それ。知らないや。あとアイツってアーガイルって名前だよね?」

「そのはずです。しかし、こうも早く矛盾を生むとは。新記録ではないですか?」

「ふん、甘いな。僕は一言で矛盾を生めるよ」

ふんぞり返ってみせると、ルカが呆れたという文字が見えそうなため息を付いた。一応僕の従者なんだから、もう少し配慮があってもいいと思う。

「知ってます。それより社交をなされたらどうですか?この会話だって、声を潜めているとはいえ、本来はマナー違反です。」

「わかったよ。仕事すりゃいいんだろ。」

そう言って椅子から立ち上がりかけたところで、ふと動きが止まる。

「旦那様?如何なさいましたか?」

「んー・・・、やっぱりもうちょっと休んじゃだめ?」

「良いわけ無いでしょう。旦那様の働き次第でアロンソ家の命運が分かれるんですよ。」

「わーかったよ。働きゃいいんでしょ、働きゃ」

誰に声をかけようか。参加者の中で本物のVIPは、ヴィンセント伯爵か、パイエル卿、ロジナルド大司教あたりだろう。見回す限りでは、誰とも話していないのはパイエル卿のみ。ルイスとは去年のフランス王室100周年記念パーティで一度交流があったはずだ。でもまあ覚えていないだろう。だがそんなことは関係ない。

「パイエル卿。お久しぶりです。」

「おや、君は確かアロンソの御老のところの、、」

「アロンソ家総帥、パオロの首席秘書官を努めております、ルイス・アトキン=ハイドと申します。昨年フランス王宮でお会いして以来ですね」

「おお、そうでしたそうでした。いやーいけませんね。この歳になるとどうも物忘れが酷くて」

「いえいえ、こちらこそ。よく発音しにくいと言われますから。それに、まだそんなお年ではないでしょう。今回も最前線で剣を振るっていただかないと。」

「嬉しいことを言ってくれますな。このような老いぼれに。」

相槌を打ちながらこの男の基本情報を思い出す。アルフレッド・パイエル。ドイツにルーツを持つ伯爵家の分家で、子爵位持ち。近衛騎士団前団長。現教育係。確かに物忘れはひどくなっているようだ。去年のフランス王室のパーティの時、僕は財務大臣補佐官として参加していた。

「はは、どうかご謙遜なさらずに。ところで、小麦の不作はどうなりました?昨年、嘆いていらっしゃいましたが。」

「ああ、あれですか。なんとか一息つきました。来年には損害も取り戻せるかと。皆様のおかげです」

目に見えて喜んでいる。この手の元英雄老人は少し優しくされるとすぐに心を開く。いかに”黒虎”アルフレッドといえどその例外ではないらしい。

「それはそれは。喜ばしい限りですね。」

「ええ、誠に。そういえば、そちらの調子はいかがかな?総帥が病で臥せっておられると聞いたが。」

「おや、もう知られていましたか。ええ、かなり悪いのですよ。なので今日も、私が代理できた次第でして。」

「おやおやそれは。しかし後継者はごまんといるでしょう。なにせ天下のアロンソ家だ。羨ましい限りだの。」

なかなか失礼なことを言ってくる。普段なら直ぐに席を立ち、別の人間のところに行っているところだ。ただし今日は、この反応を待っていた。これが僕を侮るのを。なので、自制心の限りを尽くして、にこやかな笑顔を崩さずその場に留まった。

「いえいえ、それがなんとも。ご長男パッドフット様はご病気がち。次男クリステル様は遊び癖があり、三男モルテ様は石頭。四男コルデラ様に至っては、つい最近まではどこにいるのかすらわかっていませんでした。跡継ぎは潤沢どころか一人も居ません。」

「それは災難ですな。しかしイングランドも似たようなものですよ。第一王子は病弱。第二王子はすでに亡く、第三王子は遊び人。どうにもなりません。唯一まともなのは継承順四位のアーガイル様くらいですよ。」

「どこも大変ですね。しかし、アロンソ家はいよいよきな臭くなってきましたよ。これまでほぼ関係を持っていなかったイングランド王家に近づこうとする輩が居ます。この様子では総帥がなくなれば、アロンソ家は空中分解です。」

「真か!それは。ならば貴君らが敵にに回る可能性があるのか?」

「私共本流は大丈夫です。しかし傍流の連中がどうなるかはわかりません。」

「なんと・・・」

「おや、茶会が始まりますよ。急いで席につかなくては」

パイエルはまだなにか言いたげだったが、僕が席についてから見ると、もう自分の席についていた。


少し罪悪感を覚える。老人は本来守るべきものなのに、騙したわけだから当然のことだけど。しかし人は年をとるとこんなにも能力が落ちるのか。アロンソ家の秘書官ともあろう人間が、自家の内情をそう簡単に漏らすはずがないことぐらい、少し考えればわかりそうなものなのに。でも制御がしやすくて楽なものだ。この調子でアロンソ家に対する不信感を募らせてくれれば、思惑通り、何も思ってくれなければ作戦失敗だ。あの爺さんでも流石にそこまで耄碌しては居ないはず。していたらこれまでにないほど困る。

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