第四章 生まれ変わる世界を描き出す時

 工藤と町長は旅館を後にし、復興対策の本部を立ち上げる準備をしはじめた。

何はともあれ住居とライフラインを回復させないと、望月の村の皆を戻すこともままならないだろうと考えていた。町が生活の基盤を回復させるまでの間、村の皆にどこで生活してもらおうかとも話が出たが、例えば避難住居や集合住宅の手配で錯綜するよりは現状のまま旅館で生活をしてもらうほうが食と住には困らないだろうとの話になり、結局そのまま旅館で過ごしてもらうことにした。

 村の皆は皆で、やる事も特にないししばらく村にも帰れないだろうなと旅館の手伝いを願い出ていた。男たちは数名漁港で体を動かしたいとも申し出ていて、幾人かは工藤の元で働かせてくれと要望だす人も出てきていた。工藤は工藤でじゃあそれぞれ適当に仕事してもらうから、と言い、旅館の館主に申し出て幾人かを割り当て、残りは近くの旅館で人手が足りなくなっている所に行ってもらった。

 

 地震からまだ数日しか経過していなかったが、町の全容が把握できたところで町は不要不急の外出規制を一斉に解除した。望月の影響により観光業が著しく伸びている坂田の町の温泉旅館は、互いに部屋の満室空室を共有しあい、満室の場合は空室の旅館への斡旋を行うほどに温泉旅館も日々賑わいを見せていた。旅館の従業員は元々人手が足りなくなっていたため、望月からの申し出は願ってもない事でもあった。一方の望月の皆はあちらに帰ってからの糧にもなると、作法から一つ一つを学び得ていた。

 漁港に集まった男たちは久しぶりに漁に出れると気持ちを高ぶらせていた。洋平や浩太剛志達も混ざって沖に出ると、手慣れた手つきで魚を上げていく。望月よりも食いつきがいい、と坂田の漁港の男たちよりも動くもんだから、坂田の漁港の人たちも負けてられないと張り合い、結局水揚げ量はいつもより二倍近くの水揚げ量ともなった。

 田畑を手掛けていた幾人かは坂田の畑へと足を運んでいた。冬でも出来る作業を是非と、農家に直談判し手伝っていた。冬に雪中から収穫する雪中かんらん(キャベツ)やニンジン、大根や白菜に加えてハウスで栽培されるほうれん草や小松菜、アスパラガス等を収穫しながら、いつから苗を用意すればいいのか、雪の手配は足りない時はどうするのか、ハウスはどう建てていくのかと質問攻めをし、坂田の人は一つ一つ丁寧に教えて言った。米を手掛けてきている村の人は米の貯蔵庫も見せてもらい、品質管理にはどうしていったらいいのか、田んぼを一から手掛けるにはと学んでいて、坂田の人は望月の町の人の勤勉な姿にただただ関心していくのだった。


 坂田が日常生活を取り戻してから幾日か過ぎ。

 望月にある私物を一端こちらに持ってきましょうと坂田の役場から連絡があった。

 自衛隊が一通り、望月の瓦礫を町外れの山道に搔き集めて、町中を移動出来る位にまでは復旧させていた。洋平は鉄道の様子も見ながら行きたいと鉄道での往来を役場に申し出た。役場は調査団と一緒ならいいですよと受諾し、洋平達は早々に坂田の駅へと向かった。坂田には待ちわびたかのように列車があり、運転手が乗り込み列車を動かし始める。村の皆は乗客席だけでは乗り切らない為、若者たちは貨車へも乗り込んだ

 ゆっくりと走り出す列車。いつもより時間をかけてゆっくり、ゆっくり望月へと向かう。トンネル内の電気は坂田から送られ、トンネル内は穏やかに時が過ぎていく。

 やがて町の様子が見えてくると、乗客席の皆からは歓喜と叫喚が入り乱れた声が聞こえてきた。

 駅に着き、貨車から降りた男たちはあぁ・・・と言葉を漏らした。

コンビニエンスストアから浜までの間は全くといっていいほど何もなくなっていた。残っている建物も熱風により西側の壁面はどす黒く変色していた。西側のガラス窓は見事に割れており、一部は壁が溶けかかってもいた。

 皆は無言になりながらも旅館へと足を運んだ。あの日一旦旅館に持ち込んだ荷物には、数日分の衣服や家の大事なものを持ち運んでおり、その中から坂田に持ち込む私物を選ぶことにした。旅館は町の中心部より浜からの距離もあり、高い位置にあるのも功を奏して、熱風や爆風からの影響もさほど受けてはいなかった。とはいえ、窓ガラスは割れているところもあり、西側の露天風呂には火山灰も浮かんでいた。

 村の皆が私物をまとめ、洋平は村の皆に駅まで戻るように言うと、浩太と康平、明、翔環の旦那に声をかけ、役場・学校・飯場、そして旅館に至っては客室一部屋まで見て回ろうと提案した。浩太は役場、康平は役場、明は学校と飯場、翔環の旦那と洋平は旅館を見て回ることにし、それぞれが分かれた。分かれ間際、一時間で駅に集合と洋平は付け加えた。

 

 一時間後、皆はほぼ同時に駅へと集まっていた。村の皆も気掛かりであちらこちらと見て回っていたようで、それぞれが見たままを言い始めた。


 まず北側の漁港は全くの無傷で、船もしっかりロープでつながったままだと男たち数名から報告があった。全ての船のエンジン動作も確認し、灰が白く降り積もっている以外特に問題はないだろうとの事だった。

 北の岬の灯台は灯が落ちていた、と言われた。南もだ、と重ねて言われた。地震で制御装置が働いたからだろうと予測できた。

 畜舎からは徐々にではあるが動物たちが坂田に移動されているようだ、との報告もあった。坂田が広めの牧場を用意していて、一匹一匹健康チェックと血液検査をしながら移動させていた為、時間を要したと後から知った。

 田畑は全然使い物にならないと言われた。まだ耕作期でなかったのが救いだとも言われたが、また新たに田畑を耕すに時間を要するとも言われた。

 ガスと温泉は相変わらず出ていないと言われた。ガスは抽出場所が山奥なので今日は調査が難しいとも言われた。温泉は源泉が浄水場の近くなのだが、源泉が沸いている様子は確認できなかったともいわれた。浄水場は稼働しており、たっぷりの水が確保されている事もわかった。

コンビニエンスストアは部分的に割れており、一部浸水もした形跡も見受けられたと話もあった。東側の倉庫側のほうはまったく問題ないとも言われた。


 役場と学校は一番被害が無かったという事もわかった。火山灰が積もっている程度で、壁面も窓ガラスも問題なく、水道もきちんと出たと言われた。

 旅館は東側と西側で被害が大きく異なっていた。西側はまったく無傷であったが、東側は客室もふくめ窓ガラスが割れているところもあり、破片が飛び散ってはいない程度で修繕にはまた時間がかかると思われた。


 町の様子がわかると皆でまた列車に乗り込んだ。どうしたら望月の町を元の町に戻せるだろうと皆が頭を悩ませてもいた。

 坂田に着くと、落胆する村の皆は旅館へと帰り、洋平と陽子は町役場に足を運んだ。

町役場に着いた洋平と陽子は復興対策本部へと向かった。一室が設けられていて、室内は30名弱が座れるほどの広さであった。丁度数名の中に工藤の姿もあり、瓦礫の撤去場所を思案しているところであった。


 おう洋平。陽子ちゃんとどうした。と言われて洋平と陽子は町の様子を工藤に伝えた。

 そうか・・。とりあえず瓦礫も一通り目途がついたから、これから坂田が出来る事を順にやっていくんだけどな。と工藤は話始めた。


 先ずは住居の確保な。これはお前たちが会社として使っていた社宅という扱いになるから、保険適用されるだろ。コンビニエンスストアも同様だな。

学校と役場は坂田の所有となっているから、こちらでどうにかする。といっても、灰を除去する程度だからな。それから旅館。これも保険適用になるから、金の出所はどうにでもなるな。問題は温泉とガス。ガスは爆発によって蓄積された気体がすべて放出された可能性もあるから、今後は期待出来ないかもしれない。天然ガスに代わるLPガスか都市ガスを手配する必要があるが、都市ガスは現実的じゃないな。導管が必要になるんだが、望月の町の各所に今から張り巡らすと相当年数がかかる。LPは各所にボンベを設置すればいいだけだし、運搬も貨物として船・列車双方で可能だ。車でも今や往復で一時間になっちまったからな。大した運搬費用もかからねぇな。

 それと温泉だな。一ヶ所しか源泉引いてないのが仇になったが、多分掘ればそこいらから源泉は湧き出ると思う。ただ次引くなら高いところの方がいいな。色々使い方が広がるだろう。

 工藤はそういうと、そんな事も然りだけどよ、卒業式、そろそろじゃねえか、と言ってきた。陽子は、あ!と大きな声を出すと、そうよ、明後日じゃないのとみるみる青ざめていく。


 私たちは外出規制の一斉解除になった日から、旅館からの送迎バスでの通学をしていた。幾人かの坂田の町に元々仕事がある人たちも乗せたバスは朝はそこそこに早く、夜は決まって18時に出発との目安もあり、私たちは仕事終わった人達の事を少しばかりまっての通学だった。バスは町中の中心部に止まり、私たちやほかの高校に通う学生、社会人とに分かれて各々が目的地まで徒歩で向かった。一番遠い人でも徒歩10分少々で目的地に着く位の位置にバスは停車し、定刻ちょっと前に迎えにきて待ちわびた人達を乗せ最後の人をしっかり待ってからの発車を心掛けているようであった。定刻ギリギリに来る、バスの停車場から一番遠い人は少しでも待たせてはいけないと、春になり切れていない残雪ある道を、バランスとりながら急ぎ足で来る様は危なっかしい事この上なかった。そんな中で私たちが学校で行っているのは卒業式の練習やらアルバム写真の撮影やらで、授業もほぼ終わりを迎えていて、私物を学校から持ち帰る作業も含まれていたりした。


 私と汀は4月から借りる予定の借家へと合間を縫って私物を運んでいたりもしたが、康平と司沙はひとまず寝泊まりしている旅館に運ぶ形をとった。沙耶は関東で既に働いている先輩の家に段ボール一つをそのまま送りだしていた。

 私たちは卒業式を迎えられる事に少しばかり安堵もしていたが、両親たちが来てくれるかは正直期待出来ないだろうとも思っていた。ほぼ着の身着のままでこちらにやってきて、数着の着替え程度しか持ち込んでいなく、望月の旅館に運び込まなかった衣類は全て家ごと海に持ってかれていた為だ。両親たちはこちらに来てから、下着数着を日々取り換える程度で正装なんかは当然、手元になかった。着の身着のままで卒業式に出るのは、両親たちとしてもどうなのだろうと、子どもながらに思っていた。

 

 卒業式の前日にもなればいよいよ明日だと、私たちの制服は帰宅するなり一斉に旅館にあるコインランドリーで洗われた。乾燥機付きで、新品同様にも見違えるほどに、それでもところどころよれた制服は、旅館にあるアイロンやズボンプレッサーでたちまちにしわが延ばされ準備が整った。両親たちからは明日はちゃんと行くから心配しないで、と皆が言われ、私たちは沸き立った。


 当日は私たちよりも両親たちの方が朝早くから準備していたようであった。朝早くからバタバタと出かけ、バスが出発する1時間前位には帰ってきていた。

 皆見たこともない着物を着、髪も整えられていて、母親たちは化粧もきれいにされており、父親たちは各々綺麗になった妻を子ども達に見せつける。

 どうしたのかと言いながらそれよりもあなた達も用意しなさいとせかされ、朝ご飯も軽く済ませると、小綺麗に自分たちを整え、いつもより気ぜわしくバスへと向かった。

 バスの中で、それで結局その恰好はどうしたの、と沙耶が聞くと、大人たちはにんまりと笑みを浮かべてどう、似合うでしょうとおどけて見せる。

 いや答えになってないし、と司沙が半ば突っ込むと、工藤さんがあれこれ手配してくれたのよ。着物屋に美容室。着付けもしてくれてね、久しぶりに化粧も人にしてもらったわ、と喜んでいた。

 

 学校に着くと親と私たちは一旦わかれて、両親たちは保護者席へと向かった。司会が卒業生の入場の前に来賓の入場を促すと、当たり前のように工藤がいた。工藤のわきには琉星がカメラを持ち卒業生入場を待ち構えていて、その様子を入場しながら見ていた私たちが驚かされたのは後日談である。


 こうして無事に卒業式も滞りなく終え、私たちはいよいよ社会人へと。

私と汀は卒業式も終えると早々に借家へと移り住んだ。康平は今寝泊まりしている旅館を本格的に手伝う形をとり、父親と共に様々な事を学ぶことにした。司沙は翔環につきっきりで旅館の女将の仕事を手伝い、涼子も傍で給仕の仕事をしていた。

 司沙は卒業式の時に寂しくなるとか散々泣き散らしていた割にはあっさりと、数日後には明と文子にばいば~い、行ってくると軽く手を振り関東へ旅立った。


 私と汀は家財道具を洋平と陽子浩太と美郷が入れ替わり立ち代わりで用意していくのを左に右にと配置していくので全力を使われた。3日もすればほとんどがそろい、望月の会社の積立金から個別分取り崩したうち、2人で数ヶ月分のお金を茶封筒に入れて私たちに渡すと、あとは上手くやってねと、そそくさと行ってしまった。

 疲れ果てて寝てしまった次の日にもなれば役場の研修に追われ、やがて入職式を迎えた。

 私たちの配属は要望通り観光課という所だった。観光課は入所時は坂田の観光に関する諸業務が主だった仕事で、観光PR事業として、町が発行する観光パンフレットの作成と駅や役場、道の駅や観光名所それぞれに補填していく業務、また町が運営している観光施設に赴き窓口業務含めた諸業務をこなす、といった事をしていた。

 課長は私たちの机をあてがうと、新属された係長を紹介する。新属された係長は自己紹介をすると、私たちを隣接された別室に案内した。手書きの表札には災害対策本部なる文字が記載されており、室内には見慣れた人が数名。工藤と洋平、陽子と琉星がいた。私と汀は一気に崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまった。


 工藤はおぅ、じゃあ揃ったなと言い、適当に座れと促し私たちは座る。

 じゃあ始めるぞ、と当たり前のように言い始めると話をはじめた。


 要約すると、望月の町の復興と、望月の町の観光、伝統文化のPR業務は一貫していた方がいい、という工藤の考えを伝える。もう坂田の町としてはその為の予算も編成しているとの事だ。洋平は望月の町が住むに観光よりも、町と共にあるべきものが足りていないと言った。望月の町を守ってきたお社である。お社は神の依代を祀るに必要不可欠で、お社無くして町だけをというのは、村として納得しないであろう、という話もあった。

 ここで調査団と琉星が言い出したのは、卵が先か、鶏が先か、という歴史的背景を調べなおすべき、との話だった。琉星が持ち寄ったお社の写真から、建造物がおよそ坂田と小堂寺の建造物に酷似している事、そしてそれらを元に復元するにはさほどの苦労も無い事、大きなお社が一番手間暇かかるという事、そして小さなお社と大きなお社では大きなお社の方がお社として新しいという事等、ここ一か月未満で様々な角度からの視点が露わになった。更に小さなお社も丘の上が一番古いお社で、次に浜のお社、北と南の岬の麓のお社が大きなお社よりは少し古い程度、という事も画像に移る素材の解析結果で明らかにもなっていた。洋平達が最初から全てそろっていると認識している物たちも、全てにおいて歴史が異なるであろうと調査団は言い放つ。

 名月祭の神楽によく似た舞も小堂寺であります、と琉星は言った。春夏秋冬に派生した神楽は名月祭の神楽を元にしているのは言い伝えでも明らかであったが、名月祭の神楽がどこから来たのか、という事は誰しも知らなかった。

 お社と神楽。ここにもしかすると望月の町の歴史のさらなる源が隠れているのでは、という推測が琉星と調査団の見解であった。望月の町に住んでいたものには、全く考えもつかない話であった。

 工藤はこれらの話をまとめ、町の復旧と共に小さなお社の復元だ、と町としての見解を示した。洋平と陽子は難しい顔を最初したが、お願いしますと伝えた。

 工藤は新属された係長と私たちに、お前たちは坂田と小堂寺の神社、特に共通ある所は念入りに望月の町との繋がりを調べるよう指示した。私が工藤に、調べてどうするんですか、と素朴な疑問を投げかけたところ、工藤は、史料を作るのさ、今から。とニヤリと笑った。私と汀は目をぱちくりさせながら、新属された係長は頭を悩ませ、会議は終わった。

  

 会議終わると私と汀は琉星と調査団につめより、具体的な話を聞いた。

 小さなお社と酷似した建造物は小堂寺の神社でよく見るものだそうで、坂田には全くない、と言われた。小堂寺の神社数か所を教えてもらうと、係長に早速調査に行きたいですと伝えた。係長は大きく息を吸うと、ちょっと待って、とだけ言い隣の部屋に行き、課長に公用車の使用許可書をもらい二人の名前と行き先を記載させ、自分の判を押してまた部屋に戻る。課長から課の判を貰うとまたこちらに持ってきた。

 後を追って課長がこちらに来ると、結構公用車を使う機会はあるのかと聞いてきたので、係長は小堂寺にも行く機会が増える見込みです、と答えた。課長は係長に予備の課の判を渡しながら活動概要を聞く。課長は概要を聞くなり大きな息を吐くと、とても大きな事業じゃないですか、と何とも言えない笑顔になった。

 課長は係長と私たちに、業務報告をしっかり行うよう伝えると、係長にはそれ、好きに使って、と軽く言った。工藤はそれを目にしながら、役人は面倒くさいなぁ、と言い、課長は工藤にあなたが好きにやりすぎなんですよ、と言い、皆が大笑いして散会となった。

 係長は私たちに、書面を庶務課の窓口に出すと番号書かれた車の鍵が渡される。車は役場の北側にある。今日は初日だから私も同行しよう、と言ってきて、2人を庶務課の窓口まで招いた。庶務課の窓口には割と年配の女性が二人、下を向き積み重なっている書面と対峙していた。係長は書類出し方もコツがあってね、というと先程の署名を私たちに渡して窓口の女性に声をかける。やあ、お疲れ様です。というと二人は揃って顔をあげる。なんだ、昇進したての係長さん、と女性たちは皮肉っぽく言うと係長はこちらに来る際に課からくすねてきた町のPR用の菓子折りを二人に差し出し、味が変わったんだ、食べてみてよとスッと渡す。二人はあら、気が利くじゃない、というと、で、もう片方の手の物が本命でしょ、と書類を促した。

 係長はいやぁ、なんでもお見通しだなぁ、と書類を出すと、へぇ、あの課長がこうも簡単に公用車使用許可したんだぁ、と言った。どうやら普段は判を押さないようだ。係長はゴマ擦っちゃった、とおどけてみせると、二人はそんな柄でもないでしょ、と言われながら鍵を渡してきた。今後はあの二人が車を使う事になるから、と私たちが紹介されると、二人が新卒が早々に公用車使うような事なの、と驚いた。係長は内緒だよ~と鍵を受け取りながら二人に手を振り去っていく。私たちは窓口の二人に会釈をし係長を追いながらその場を去った。


 運転手は係長、助手席には私が乗り、汀は後部座席へと乗り込む。係長はじゃあ行きますかと車を出すと、話をし始めた。

 役場ってのは、横じゃなくて、縦のつながりなのね。だから自分たちの世界を維持するのが精一杯なのよ。その中でも庶務課ってのはああやって役場の庶務を総括している課で、横のつながりが比較的大きい業務なのよ。あの書類見たでしょ。庶務課回さないと動かない業務ってのが役場にはいっぱいあるのよ。この車もそうだし、鉛筆一本から消しゴム一個から、コピー用紙からコピー使用、電球交換とか本当に小さなものに書面を通して申請されて受理して処理して・・・。って。嫌になっちゃうでしょ。だからああやって、ガス抜かせるの。縦のつながりは上に気を使ってさえいればどうにかなるけど、横は、大変だよね。これが役人の仕事でもあるんだけどね。


 私と汀には、その時はあまりわからない世界観だったが、今となればひしひしと感じている話だった。こんな話をする人は望月の町はもとより、坂田でも多くはいなかった為、凄く貴重な話だと今では思う。


 小堂寺に着き、目的の神社の一つにたどり着いた。小さな神社で、お社の四方に小さなお社がある。鳥居と中央のお社、四方のお社以外には自宅兼用の社務所があり、私たちは社務所へと向かった。出てきた人はその神社の宮司で、割と若い宮司だった。私たちは坂田の役場から来た事、望月の町の歴史資料を探しているという話をした。若い宮司は少し考えると、社務所の奥に声をかけた。男性の老人が一人出てくると、望月の町の話はわからないけど、小堂寺の神社のおよその文献は、真ん中にある大きな山の神社にまとまっているから行ってみるといい、と話してくれた。

 私たちはその二人にお礼を言うと、老人が言う真ん中の山の神社に向かった。

 町中のど真ん中に構える山は小堂寺のシンボルともなっている。神社と仏閣が一対となっているのはなかなか珍しいと係長は言う。山頂あたりまでつづく山道は舗装されており、雪でも参拝者が多い事もあって融雪設備が完備されている。山頂付近は大きな駐車場と緩やかな遊歩道もあり、観光名所としてもしっかり整っている。


 山頂につき遊歩道を少し上ると、大きな鳥居と大きなお社があった。参道を掃く人に声をかけると、社務所に案内され、社務所からは大柄な宮司が出てきた。

 係長が宮司に名乗り、望月の町の歴史について調べているというと、宮司は少しその場で考え込んだ。望月の町について、何か言い伝えはなかっただろうかと宮司は私たちに質問し、私たちは言い伝えの昔話を話した。戦から逃げ込んだ人達が・・という話を聞くと、宮司は尾浦の時の話やも、と私たちを中に招き入れた。

 社務所の一番奥、史料庫と呼ばれる大きな部屋へと通された。史料庫には小堂寺の神社の名前が各々書かれた棚が沢山あった。神社毎におよそ5つ、多いと8つの史料棚があった。宮司はこう話した。神社と歴史は通ずるものがありまして、災いあれば納め奉るにも神社、争いあれば争いを、飢餓あれば飢えを、厄災あれば厄を、昔は都度都度場所場所で奉るのが習わしでした。望月の町の出来たときの昔話が仮に尾浦の落城に伴うものだとすれば、その時の魂を納め奉ったのはこちらの山の麓の西側にございます神社です。そちらの神社の史料はこの棚にございますので、どうぞ気の済むまでご覧ください。

 そう言うと、帰り際にまたお声掛けください、私は先程の部屋で雑務をしておりますのでと、史料庫を後にした。

 私たちはさて、一つ一つ見ていきますかと適当に座り込み史料を見始めた。開いてさほどの時間もたたずに皆で目を合わした。係長・・読めないです・・。私も・・です。これは・・難儀な事になったぞ・・。

 時代は1600年初期の史料、達筆で、かつ漢文。早々に宮司に来てもらい見てもらったが、宮司も私も管理をするのみで、部分的にしか・・。

 早くも暗礁に乗り上げてしまった当日は早々に引き上げ、何か書いているのかもしれない史料が見つかったという報告を係長が課長にした。課長は具体的に、と言うので漢文でわからない文字の羅列としか見えませんでしたという私の重ねての報告にピクリと反応した。漢文、と言ったのですか、と問いただすと、はい、達筆な、漢文ですと答えた。課長は一人の観光課の職員を呼び、あれ確か、あの時も漢文の書物だったと報告受けましたよねと確認の問いをしていた。職員はそうです、あの時はえらく時間かかりましたよねと言って、その後まさか、また、ですかと課長に問いただしていた。私は1600年代初期の史料と伺っておりますが、というと、その職員はあの時より古いじゃないですかぁ、とやや狂乱気味に言った。

 課長は、はい、また彼等の力を借りねばなりませんね、と答えた。課長は直ぐに彼らに連絡取れますか、とその職員に問い、職員はあぁ、課長の癖が出てきたとぼそりと言うと電話に向かい電話を始めた。電話している職員を横目に、課長は係長に旅館の手配をしてください、期間は1か月、人数は10名位です。それと旅館にプロジェクターとパソコンを用意するよう庶務課を通して手配してください、旅館には請求書をこちらにまわすようにも伝えてください等と、細かく指示を出した。係長はあ、はい、と呆気にとられながらも返事をし、係長は旅館に連絡を始めた。私たちはいったい何が始まるのですか、と課長に聞くと、課長はなに、気難しい大学教授と専門家数名をこの町に呼び寄せるだけですよ、と私たちに言ってのけた。漢文を昔読み取ってもらった経緯がこの町にはありましてね、その時の人達は気難しいので、上げ膳据え膳でお呼びするのです。先生方をお呼びするまでに数日かかりますから、あなた方には別のお仕事をお願いしますよ、と言われた。課長は説明する事もなく自分で書面を作成すると、電話している係長職員を横目に部屋から出ていった。私たちがしばらく待つとやがてデジタルカメラとパッドを持ち込んだ。双方には坂田町役場、とマジックテープの上に油性ペンで記載されていた。課長は車の鍵はありますか、と聞いてきたので係長がもっていると答えると、電話中の係長に車の鍵、と

メモ紙を渡し、係長は電話をしながら右ポケットから車の鍵を取り出し課長へ渡し、渡された車の鍵を課長は流すように私たちに渡した。あ、しばらく私たち観光課専用の公用車として使うように申請しといたのであなた方が管理してください。他の人達が使用する時は都度申請書だしますので、この期間は持っていて大丈夫ですよ、と言い、明日以降、3日以内にその漢文の史料全部を写真と動画データで納めてください。写真は全文しっかり映るよう、動画データはゆっくりと一文字一文字を映すように映してきてください。映し残しがありますと解読出来なくなりますから、映し出される内容を相手に見せる気持ちを忘れないように、お願い致しますよ、とゆっくり説明された。私と汀は気を引き締めて、隣の部屋にいる皆にも報告してその日の公務を終えた。

 

 帰り、汀と私と借家へと帰る途中で立ち寄る惣菜屋がある。こちらに来てから連日のようにご飯とお吸い物だけは用意し、おかずを世話してもらっている。最初はあれとこれと、等二人で選んでいたりもしたが、研修以降そんな余裕もだんだん少なくなってきて最近ではお任せ!と一言で決めてもらうのが汀との楽しみにもなっていた。惣菜屋は店主と奥さん二人がいて、入れる内容は各々入れるものが違うので毎日の組み合わせが全く異なる。紙袋に入ってそのまま見ることもなく渡すので帰るまで中身がわからないのも楽しみの一つでもある。

 疲れた体を扉の向こうに二人揃って預け入れると、二人はすぐにご飯とはしないで、いつも着ている衣服を洗濯機に入れていく。流石に二人揃ってポンポンその場で脱ぐわけにもいかず、一人は風呂場から脱衣所に向かって脱ぎ、もう一人はキッチンで脱ぐ。風呂場で脱ぐ者はシャワーが優先され、洗われた洗濯物を干す作業をする、キッチンで脱いだものは洗濯機を回し始め、昨日干しておいた洗濯物をたたむ、というルールを決めていた。着替えは各々が準備するのだが、たまにあれこれ忘れてよくあれ持ってきてこれ持ってきてと、それが私たちの日常だった。

 お互いシャワーへ入り汗を流し、洗濯物が干されて初めて夕ご飯となる。

今日の話で盛り上がり、明日の仕事の話で盛り上がる。二人だけでも充分賑やかで、どんなに疲れていても楽しい毎日。それでも私たちは今のこの幸せと思えるひと時よりも明るい未来を描いて、明日を迎える。


 翌日には再度小堂寺の山の神社に赴き、経緯を説明し史料の撮影をした。

写真動画共に仕事としてはもちろん初めてで、試し撮りを数回行い、史料を撮り始めた。一つの史料につきおよそ一時間を要し、早めに着いたはずなのに全てを撮り終える事もなく当日を終えた。神社の宮司に申し訳ないですがそのままにしておいてもらえますか、と一言申し伝え、宮司は快く受け入れてくれた。

 帰るとデータをパソコンに送り、写真とパットのデータがパソコンに全て移った事を確認して帰宅。この作業が3日続き、3日目にしてやっと終わり、2人は帰宅するなり泥のように寝入った。

 

 翌日、課長と一人の職員は駅で教授と専門家達合わせて10名を迎え入れた。駅へ降り立った教授たちは長旅でやや体が硬くなったようで、早速と旅館へ向かった。小さめの送迎バスがついたのは私たちが高校時代の卒業間際に世話になった旅館で、坂田でも名門の旅館だそうだ。温泉も完備されており、郷土料理織り交ぜた懐石料理でもてなすこの旅館は教授たちのお気に入りだそうだ。

 旅館では大きな部屋と客室一人一部屋づつ用意されていた。課長が今日は存分にお体をお休めくださいと言うと、教授はつまり、明日からは大変という事、ですかね、と課長に言った。課長はええ、以前より難解かと、とだけ言うと教授は私たちが一か月かける位の内容じゃないと、ね、と返した。

 課長が女将に、今日から宜しくお願い致します。と伝えると、えぇ、何が起きるのか楽しみですと笑みを返した。


 翌日。係長と私と汀は旅館へと向かった。汀があれ、あの旅館、というと係長はなんだ、知っているの、と言った。汀があの時の事を言うと、あぁ、そうか、あそこの女将も望月の町の出だもんな、と係長は言った。

 

 旅館に着き私たちが旅館を訪ねると、女将が出てきた。あらあなた達、久しぶり・・と言ってもまだ2カ月も経ってないわね、と言い、大きな部屋へと案内していくれた。

 大きな部屋に着くなり、係長は持ち込んだパソコンにプロジェクターを取り付け、スクリーンを広げて移り具合を確認する。一人でよどみなく行うのにはさすが手慣れたものだと私たちが関心していると、あなた達も先ずは見て、そして覚える、これが大事、と言い注意を引き付けた。係長が設置し終わると、私はパソコンを立ち上げ動画データを映し出してみる。しっかり映し出される映像にほっとするも束の間、課長が教授たちを引き連れ大きな部屋にやってきた。

 課長は、では早速。史料はおよそ1600年代初期の漢文かと思われる代物です。動画と写真とを撮ってきてますので、先ずは動画をご覧くださいと、始まり、私が撮影初日からの動画を映し出す。教授と専門家達は鉛筆数本と大学ノート、漢和辞典と古語辞典とを携えており、動画に映し出される漢文を、半分はそのまま書き写し、半分は現代文に変換しながら文字に起こしていく。少しばかり進むと教授がちょっと止めてくれ、と静止を促した。私が動画を止めると周りの専門家に、これは、そういうことですかね、と専門家達に伝える。専門家達もそのようですね、と言葉を濁す。私はいったい何がどうゆうことですか、と尋ねると、簡単に申し上げますと、この文章は謎解きに近い隠語です、とだけ言った。撮影者は誰ですかと聞かれたので私と汀が手を挙げた。教授は、私たちは漢文を起こしてくれとしか言われてないから、時代背景がわかっていない、どういう経緯でこの文を現代文に起こす事になったのかをご説明頂ければ、というので、私は望月の町の話をし、小堂寺の山の神社に赴いた事、時代背景には尾浦の落城を伴うもの、と推測される事が並べられた。

 教授は写真は無いかというので、写真をスクリーンに映し出した。一通り全部見せてくれ、というのでスライドショーにしてみてもらった。全ての写真が見終わるまで2時間近くは要しただろうか。見終わると、教授は専門家達とにやりと笑うと課長にこう言った。望月の町に、丘の上の社があるはずだ、と。

 汀が一言、ありますと答えると、ほう、答えられるという事は君たちは望月の町の者達か。私も昔立ち寄った事があってね、望月の町の歴史を洗いざらい調べたかったのだが、一切出てこなくてね。みんな語部から語り継がれる内容ばかりだっただろ。あったんだよ、史料は。と笑い始めた。

 私が食い気味にそれはどこにですか、と聞けば今見えている物がすべてさ。だけど隠語で記されている。何が何だかわかりゃしない。最後に一言、光沈む時闇に触れる社に奉り候、とある。望月の町の昔話では月の光が望月の形を作り、丘が最初に作られて最後は浜辺を作って湾の中心部に光が引いていく、という話だったと思う。だとすれば、光沈む時、闇に触れる最初の社は丘の上の社だ。あそこに何か隠語を解読する手掛かりがある、と話をした。


 私たちは課長と係長に今すぐにでも望月に行きます、というと課長は私はここでゆっくりと待ちますよ、と言い、係長は、ではそうだね、車で向かおうかと私たちと共に望月へと向かった。


 望月の町に着くと、湾の底からの蒸発してくる湯気はもう落ち着いていた。それ以外はあまり変化もなく、瓦礫を少しずつ貨客船で運び出す作業をしているようだった。少し悲観的にもなりながら、私たちは役場まで車で着くと、役場の更に上にある丘の上の社へと歩いて向かった。あれ以来人もさほど出入りしていない丘には、人が歩くたびに舞い上がる程の火山灰が積もっていた。私たちはハンカチで顔を覆うと、ゆっくりと丘の上の小さなお社へとついた。係長はこの光景自体がこの世のものとは思えない様子だったが、私たちはそんな事には動せず、お社に積もった火山灰をゆっくりと払った。お社の中の鏡は周りとは打って変わって美しくこちらを映し出していて、両端に奉った紙垂(しで)は清いままにあった。鏡と紙垂が奉っている小さい棚をよく見ると、うっすらと段差があり、小さな窪みがあった。

 私はこの棚この窪みが引き出しになっているやもと思い、手を出そうかと思った。

しかしながら鏡もまた神様の依代であると言われ育った私たちはそう簡単に手を出せない。私は洋平から教わった祓詞(はらえことば)を奉ると、一拍の拍手一つを奉げた。汀に一節舞うよ、と言うと私たちは着の身着のままで舞い、舞を終えると鏡をそっと係長に渡す。神様なので、落とさないでくださいね、と汀が言うと係長の額からはじんわり汗が噴き出てきた。

 棚の窪みは指をかけるには少し小さく、なにか道具が無いかを見て回る。お社の内側の壁面にかぎ爪のような少し太めの物が下がっており、私はこれだとゆっくりとると窪みに引っ掛ける。棚の上部を少し抑えながらゆっくり窪みから引くと、案外奥行ある引き出しからは小さめのメモ用紙のような紙が数枚入っていて、汀がとっさに予備のハンカチを広げるとそこにそっと置き汀が包む。

 引き出しを元に戻してかぎ爪のようなものを戻すと、額が脂汗まみれの係長の手元にある鏡をそっと下から持ち、棚へと戻すと神棚拝詞(かみだなはいし)を奉り、一拍の拍手一つを奉げ一礼をし、さあ行きましょうと係長を促した。


 この間、周りは確かに火山灰に追われていたはずなのに、灰が全く舞わない事に係長は驚いていた。また自分よりも若く高校も出たての者たちが目の前で繰り広げる神事に、係長は驚愕さえ覚えてもいた。車に着くとすごいね君たち。望月の人はみな出来ちゃうの、あんな事、と聞かれたので神詞を奉れるのは神官とその子孫で、神官は村長しか出来ないと、神楽はある程度舞えるし残りの人は雅楽を演じると係長に言った。係長は呆気にとられながら、何故にして坂田が望月の町にこうも力をいれるのか、その鱗片を垣間見た気がしてならなかった。


 望月の町を後にして、私たちは課長が待つ旅館へと向かった。

 旅館に駆け込み大きな部屋に入ると、課長はお茶をすすり、教授と専門家達は漢文をひたすらに書き写していた。課長がおや、やっと戻りましたか、と一言いい、私はえぇ、一節程舞って参りましたので、と言うと、課長はなるほどと言わんばかりに、して目当ての物はございましたか、と丁寧に促した。

 汀が丁寧に折りたたんだハンカチを課長に差し出すと、課長は開く事もなくそのままを教授に差し出す。差し出すと教授はゆっくりと折りたたまれたハンカチを広げ、神棚の引き出しにあったメモ紙程の大きさに記されているものに目を通した。

 専門家達はそれに群がり、なるほど、そうかと、メモ紙と書き写した漢文とを照らし合わせる。教授は問題は思った以上に進展を迎えた。後は我々の仕事だから、君たちはもう帰りなさい。終わり次第私たちからそちらに連絡をしよう、と話した。

 課長はおや、意外と早い進みですねと教授に言い、教授は嫌味にしか聞こえん、と捨て台詞を吐いた。課長はでは引き上げましょうかと私たちにいい、飲みかけのお茶をしっかり飲み干すと静かにその場を立ち去る。私たちは会釈をし後を追う。教授たちはこちらにも目をくれず、既に没頭していた。


 課長は旅館を出ると私たちに、役場の対策室でこの後会議がありますから、皆さんも出席なさってくださいね、と言い車を出した。

 係長は会議、ねぇ、と言うと私たちを乗せて役場に向かった。

 

 私たちが役場の対策室に着くと、町長と工藤、望月の会社の面々、琉星と調査団とが立ち話をしていた。課長が皆揃いましたので、そろそろ始めましょうかと促すと、工藤が望月の町の復興概要を言い始めた。

 望月の町の復興は、住居とライフラインを中心とした町の生活復興の支援を重点的に行う、ここまでが前提。

 ライフラインはガスの供給問題と共に上下水道の配備を現状と変え、上水道は浄水場から網の目状になっている形状の配管を、丘の上に大きなタンクを北・中心・南の三か所程用意し、丘の上のタンクに貯水し、貯水槽なるタンクから各所に碁盤の目のような配管を通して供給する、というものに変えていくと話があった。現状では一か所破裂が起きると、途端に数十か所に影響及ぶが、タンク大きく構えておけば万が一の時、例えば浄水場からタンクに水が供給されなくなった場合でも、タンク3つ分の貯水で全ての各所にタンクが底をつくまでは供給が可能という理由があった。また現状の配管は実際に亀裂がおきており、数年も使用すれば経年劣化により破裂は免れない事も理由として挙げられた。下水道も上水道と並列しながら浄水場へと送り、浄化した水は町の上部・中部・下部に小さな貯水槽を用意し、火災の際の水源として利用すると説明があった。今堆積している火山灰を流すにも必要不可欠になるだろうとも付け加えられた。

 次に家屋。家屋はコンビニエンスストアを起点に考えた場合、コンビニエンスストアまでは浸水の影響が確認されており、コンビニエンスストア裏手の住居の土台までの浸水も確認されていた。それより高台に立っている住居も爆風と熱風で壁面が焦げ窓ガラスが破損しており、コンビニエンスストアを除く住居の立て直しの方が工程としても早いとの話も出た。現状残っている住居の基礎も腐敗劣化が進んでいる事も立て直しに至った経緯の一つだと説明があった。住居は基礎を打ち直し、全ての住居に耐熱ガラスと耐熱壁を使用した材質を用いたユニット工法で行うとの説明もあった。

 コンビニエンスストアそのものについては、壁面ガラスの張替と店内のガラス撤去さえ行えば大丈夫のようだ、との話だった。

 次に駅と線路。津波の影響で町中の線路は壊滅的な状況にあることから、敷きなおすのが手っ取り早いとの話があった。駅はプラットホームのみ残されていたが、プラットホームもところどころ削れていたり剝き出しになっていたりとあり、まるっと新しい物をつくるようなものだと話だった。

 酒蔵、役場、学校、駐在所、飯場については損壊した部分がほぼなく、火山灰を取り除けば問題ないと報告された。


 北と南と浜のお社は既に取り掛かっていると話があった。お社は望月の町の所有でもなく、望月の会社の所有でもなく、つまりは坂田も管理外というものだが、歴史的建造物という事で無理くり話を通した、と工藤は鼻息を荒くした。

 旅館については西側の壁面を貼り直し、ガラスを強化ガラスに取り換えるとの事だった。館内のガラス撤去も必要不可欠だが、それは落ち着いたら皆でやった方が早いだろうと話もあった。細かな設備確認も順を追って、と話もあった。

 費用の捻出についてはおよそは望月の会社を立ち上げた際に入った保険が適用される事も確認されていた。ただ億をゆうに超えるであろう事もあり、保険会社に潰れられては元も子もないと、先ずは坂田で全額を請け負って、後から保険会社に少しばかり出してもらえばいい、国と県も復興支援金を捻出する予算案が通ったからと、まるで望月には一銭も出させるつもりがない様であった。


 工藤からの話が終わると、工藤は用意された茶をグイッと飲んだ。こちらからも報告が、と琉星は立ち上がり、琉星は少し重い口調で話し始めた。


 ところで望月の人は、四つと大きな一つのお社に、それぞれ何の神様が祀られているのかをご存知でしょうか、と最初語られた。

 洋平達は皆で顔を見合わせると、月・・なのでしょうかと心もとない返答をした。

 

 私と汀も顔を見合わせながら傾げる。何、という概念がないのだ。


 琉星は続けて話をした。昔話にも語り継がれる逸話にも、望月のお社というのが何なのかという話が出てこないのは皆様の方が知っていますよね。

 洋平は、お社は神様の依代を雨風から防ぐ、家みたいなもの、という事ではないのかと琉星に問い詰めるが、琉星はまぁまぁと言わんばかりに片手で制した。


 先ずはこちらのお社の写真をご覧ください、と琉星が言うと、それぞれのお社の写真がプリントされた紙を皆に配り始めた。今残る丘の上の社、そして流されたお社。それぞれ上から下からと撮影されていて、大きなお社以外はほとんど同じように見える。

 私は琉星に、大きなお社以外、ほとんど同じように見えます、と答えると、琉星はプリントの裏にいちまるからよんまるまでの数字書かれたプリントを見つけてくださいといわれ、皆が見つけ出す。それぞれお社の真裏の、下から撮られた写真だった。

 ※いちまる=① 山形独自の呼び方。

 琉星は続けて、いちまるが丘の上の社です。にまるが北の、さんまるは浜の、よんまるは南のお社のものです。底にある彫刻に、龍が彫られているのがわかりますでしょうか、と話し始めた。

 確かにお社の真裏の下から撮られた写真には、それぞれ龍が彫られていた。

 

 望月の皆は見たこともないものだった。そして龍には北は薄紅色・南は碧色・丘は朱色・浜は純白の色でそれぞれが色塗られていた。

汀が、これは纏いと同じ色合い、ですね。と言うと、琉星はそうです、そうなんです。と話をした。

 琉星はこの龍見つけたのは幼少期の頃で、時の村長や大人はこの龍の事を知りもしなくて、まぁ何かのおまじないだろうとしか言われなかったのだが、どうしても腑に落ちず、もしかするとこの村には色んなみんなの知らない事があるかもしれないと、家にあったカメラで写真を撮り始めたのが今に至るきっかけと話をした。


 琉星はこのお社の目的は四季の神様とは違うものが昔奉られたのではないだろうか、という問題を提示した。そして最後に一枚、大きなお社の裏側の下、つまり湾の方からの下には、お社の朱を超える程の、真っ赤に彩られた大きな龍が彫られているのを琉星は皆に見てもらう。

 町長と工藤はおぉ、といい、望月の皆は息をのんだ。メッセージ性としても充分に強いこの龍を、無視は出来ない。

 

 私はこの琉星が見せた龍を、見たことがある気がしてならなかった。しかし、彫刻を見るのは当然初めてである。あぁ、どっかで・・と、独り言のようにぼそりと言うと、汀があの時の、あの地震の時の曇に垣間見たものに似ている、と言い始めた。

 工藤はああ、噴火時だろう頃合いにこちらから見た望月の方角の、あの大きな低気圧の壁と空だな、と相槌をうった。

 そう、確かにこちら側から見ていた当時の雲の壁は、幾重にも重なる龍にも見え、色も様々な色合いをしていた。雲を突き抜けた龍のようなものはまさしく大きなお社に彫られていた龍そのものにも思える。

 私と汀は当時坂田の町から見ていた様子を、初めて洋平達にも伝えた。工藤も重ねて俺も一緒に見ていた、と話をした。

 

 洋平達は何も言えなくなっている。それを横目に琉星は、もしかすると望月の出来た由縁と今回の噴火、つながるものがあるのやもしれませんし、そこに望月が奉ってきた、神様の姿も見えてくるのやも知れませんね、と言うと、とある神社のパンフレットを見せてきた。

 パンフレットには望月の神楽の際に纏う纏いとよく似たものを着て舞う写真が一枚あり、神社の由縁が記載されていた。唯一纏いの違いがあるとすれば、纏いには色彩の装飾が一切ない、真っ白な纏いだった。

 琉星は、そこの神社が小堂寺の大きな山のお社の近くにある、史料を山のお社に納め奉った、望月の神楽によく似た舞を舞う神社ですよ、と言い出した。

 もはやそこに答えがあると言わんばかりの話を食い入るように聞いた私たちは、早速行きます、と話をすると汀と共に対策室を飛び出そうとする。

 課長がまぁ待ちなさい、と言うと、急いては事を仕損じる、と昔から言いますでしょ。と私たちを席に座らせる。

 課長はそうですね、一息つきましょうか、というと、各々お茶をすすり始めた。

 洋平はぼんやりと茶をすすりながら、龍・・月・・とうわ言のように繰り返す。

係長は既に動く金額が国家予算レベルの話で、上の空である。浩太と明、剛志は写真の龍で盛り上がっている。私と汀は琉星に渡された神社のパンフレットに釘付けであった。


 琉星が渡したパンフレットの神社は、天照皇大御神を御祭神とした由緒ある神社で、尾浦の最後の城主を守護神とする神社としても有名な神社。

 御祭神の御使いでもある龍神様も祀られており、小堂寺の者はもちろん、坂田の者たちもご縁にあやかりたく参拝するほどの所であった。


 琉星は一度行った事がある、と話をした。このパンフレットはその時に貰ったと話していたが肝心の望月の関係性までは話される事はなかったと言っていた。望月の者である証明をしてみろ、と言われたのだが琉星は証明出来なかったとも話していた。今にして思えば、舞の一節でも舞えばわかってくれたやも知れないが、琉星は太鼓を少々打ったことがある程度で、常に写真にかまけていたから、と頭に手を当てて話していた。洋平はだからしっかり舞を覚えろと言ったのに、と琉星に苦言を呈した。


 洋平は私たちに、望月の生活に神事は今までもこれからも必要不可欠だ。衣食住、それらに劣るとも勝らない、勝るとも劣らない、それが望月の神事だと私は思っている。欠いてしまえば、それはもはや望月の町ではなくなってしまう。だから、頼む、と言ってきた。望月の皆はその場で深く首を下げる。


 課長はほら、町民からの要望を聞き入れるのが町の仕事でしょ、と言い、町長と工藤は、はなからそのつもりとばかりに首を縦にふる。係長はおろおろとし、私と汀は琉星と共に頷いた。こうしてその日の会議は終わり、散会となった。


 

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