第二章・第1話 変わりゆく世界と、新しい世界と

 私たちが小学校を卒業し、中学校へと移る頃にもなれば、いよいよかそろそろだなと私たちは隣の町へと連れて行かれるようになり、隣町と私たちが織りなす世界を大人たちや学校からと教えられるようになる。

 行き方帰り方は鉄道、定期船と自家用車。高校生にもなれば自家用車での送迎は現実的ではなく、鉄道か定期船での移動となる。

 定期船の場合は北の岬の向こう側、漁港から出港する船での移動となる。朝の出港は鉄道の始発よりは早く、あちら側には鉄道よりやや遅く到着する。隣町の定期船の船乗り場は街中より沿岸に大きく離れているため、船乗り場から街中まではバスでの移動となる。

 鉄道はディーゼル車で運用されている。私たちが乗っている路線は、北の岬の荷受場が終着点で、港の中心部の駅が終着駅である。始発が定期船より遅めの割には隣町まで早く着き、定期船より街中に着くためおよその住人やこちらにくる人たちはだいたいが鉄道を利用する。鉄道の運行は望月の人が数人程、隣町で運転を学んだ者たちで行われている。公的機関ではなく、私鉄としての運行である。

 定期船は時間効率が悪く、天候にも大きく左右されることから懸念されがちだが、それでも定期船を運用している理由は、鉄道の運行状況が芳しくない時の保険でもある。定期船は鉄道とは違い車ごと移動出来るのも運用の理由の一つである。


私たちはその双方の行き帰りを学ぶ。駅から行き、隣町の駅に着いたら折り返し乗って帰ってきたり、定期船で乗り降りしたり、駅まで行って定期船乗り場までバスで移動して定期船で帰るとか、色んな方法をとにかく身につけていく。


 話はそれるが、隣町は「坂田町」といって、望月村の統括をしている、ことになっている。

望月村は市町村でいえば「坂田町」である。住所も坂田町字望月村、となっている。

望月村の歴史や住民の本籍住所等の管理を行っているが、それ以外は望月村とは分けている。望月村の歳入は坂田町にとっては小さく、望月村の事は望月村で管理をする、というのが坂田町との取り決めである。

 

坂田の町は漁業・林業・農業・酪農・畜産業・製造・土木・建築・小売・卸売・飲食業等々、様々な仕事で潤っている町である。

 住人も望月村は200名位であるのに対して10万人を超えそうで、建物は大小様々あり、車も往来するし、空港がある。


 聞いてはいたし、望月村では小学校で教科書で学ぶし、数人は来たことあるらしいが、子ども達だけで来たりすると途端にテンションあがったりする。

 私は父親の船で何度か来ていたのだが、改めて学びで来ると世界観が違う。


 この頃にもなればトレンドにも敏感になり、大きな世界を見たくもなる。

 例えばジュースの種類、お菓子。村では見もしないテレビ。ちなみにテレビは望月であh最近やっとアンテナが入り始めたような世界だ。村での話はほぼラジオだし、ラジオもFM入らないため、AMの話である。余談だが、望月村にスマホは意味がない。旅館と学校、役所が回線引っ張って来てはいるが、あくまでも公務での利用目的、となっている。旅館の康平に目をやったが、あぁこいつはそういった流行には疎いな、とふと思った。

 汀はある程度知識を得ながらもそれらを選ぼうとしないでいた。私はまぁ今はいいか、と流す感じで司沙が興味深々。沙耶に至ってはあそこのあれが美味しいとかグルメ情報を女友達に言いまくる。こうしてこの町の歴史や成り立ちなども学び始める。


 一昔前は望月の者たちは他を学ぶという事をそもそもしなかった。が近代化の波にはどうしても逆らえず、今はこうやって坂田の歴史文化も学び望月の魅力をより引き出す、という教育理念が今は主流である。望月も昔は1000をも超える、村の大きさに相対する人口比率であったが、ここ近年は人口流出が否めない。望月の村は良くも悪くも保守的な村であり、若者たちはより新しい世界、新しい文化を探して町に出るのが時代の流れであったりもする。

 望月の人たちは町は一時的に出てもいいと考えるようになってきている。ただ戻って来て欲しいとも願っていて。隣町なら移住したとしても、帰ってもこれるだろうからと坂田に託していたりもする。

 一方の坂田はといえば、望月以上に県外への人口流出に歯止めがかからずどうしようもなくなってきていた。

 坂田は望月にとっては都会そのものであるが、坂田にとっての都会はもはや県内ではなく、最低でも隣県の中心部。政令指定都市となっており、人口は県の総人口よりも多い大きな都市になっている。また東京まで約2時間。そう、県内ではもはや都市と言える所が無いに等しくなってきていたのだ。

 望月の人たちは、大人たちはそれを既に知っているが今の生活が安定しているなら特に問題ないと判断しているし、私たちは今の頃合いからそういった事柄を学ぶことになる。踏まえて高校を選んで高校を経て様々な世界へと歩み始めていくのだ。

 

 私たちはまだそこまで大人にもなっていなくて、少しばかり得ていく知識と今までの世界との乖離に苛まれてきたりもする。少なからず私は望月が好きであるが故に、この乖離はとても大きく、とても切なく感じていた。


 中学も二年になり、私たちはそんな中で生まれて初めて。

村人の死を弔う葬送の儀に立ち会う事になった。

 葬送の儀は中学生から立ち会う、というのが望月の習わしである。

 亡くなったのは村の長と呼ばれる人。御年96で亡くなった。

村の長の一人息子が漁を終え、一度帰ったら既に息を引き取っていたそうだ。

 木々の緑が朱に黄色に染まり始めた頃合いだった。

 医者の先生に家に来てもらい、脈、瞳孔を確認してもらい、死亡の確認をして貰うや否や、息子は塩を一通りそこいらに振りまき、自身に振りまく。先生に振りまき帰ってもらい、神棚の扉を早々に閉じ、純白の半紙を神棚の扉にはる。

 息子は役所に駆け込むと、父が亡くなった旨の報告をする。報告をするなりさっさと家に帰り、村の皆が来るのを待つ。

役所の所員は村人達に報告しなければならない。ちょうど漁が終え、皆飯場に向かう頃合いであるという事もあり学校へと急ぐ。

 飯場で報告受けた村人達はざわつく。先ずはと村長と議会議員と議長が家に帰り、それぞれが手際よく神官、宮司の姿にとなる。この村では誰でも神官、宮司になれるし、神官、宮司はその年の村長と議会議員と議長と決まっている。今年の村長は洋平で神官、、議長は浩太で議員は明と剛志。宮司の役割を担う。

 一方飯場では陽子や美郷からお供え物をと私や汀に渡される。涼子や翔環からはあなた達も神楽の準備をしなさいと言われ、バタバタと握り飯やらおかずを渡される。

私は春の神楽、汀は冬の神楽、司沙は夏の神楽、康平は太鼓を用意し秋の纏い、笛は沙耶が冬の纏いで。

 私は男の舞が出来、汀はなんでもいける。司沙は女の舞。向かいながら打ち合わせをする。


 私たちが到着すると、私たちは預かった荷物を玄関前に置く。

 先ずは父が神様に故人の死を奉告する。浩太は疑似刀を枕元に置き、長に皆で一礼する。帰幽奉告という儀式はこれで終わる。

 

 追いかけてきた陽子は白い小袖と白い布をもって洋平に渡す。何も言わずして受け取り、目で促すと静かに陽子はその場を去る。

 陽子が去ると共に浩太・明・剛志はタオルと水の入った洗面器を息子に用意させ、塩を一つまみ洗面器に入れるようにと指示をする。息子が塩を入れたのを確認した3人はタオルに洗面器の水を含ませ、しっかりと絞り長の体を清め拭いていく。

 次に用意した白い小袖を浩太・明・剛志で長に着させ、布で顔を覆う。その間北側に小さな祭壇を洋平は用意し、そのそばに長を北枕にして寝かせる。

洋平は昔大人たちから教わったように、淡々と私たち子ども達に教えながら準備をすすめていく。教えるのは村長の仕事だそうで、教えながら長の息子に米と塩と水と酒を用意するよう指示もする。浩太・明・剛志は説明と今している作業がずれないようタイミングを合わせながら粛々とこなしていく。

 終わると皆で一礼をし、洋平は私たちにじゃあ外で一節舞ってくれ、という。

一節とは名月祭の舞の中が3節あり、三分の一の節の事をいう。冠婚葬祭において一節舞うのも伝統文化である。


 長の家の前に出ると洋平はちょっと待てと、皆に塩をまく。その後大幣(おおぬさ)で私たちの前を大きく祓うと私たちに頷き、私たちは舞い始める。

笛の音が夜のとばりを切り裂くように高く響く。次に叩く太鼓はいつもより空気を大地を響かせる。

 私は舞いはじめの一歩を踏む。力が入る。司沙は張りつめた空気をほぐすように、緩やかに穏やかな舞をみせる。汀はいつもより綺麗に歌う。とても澄んで。とても美しく。

 みんないつもより自然で、みんないつもより素敵な中、汀の歌声が特によくて。聞き入る事無い様にでも聞き流さないように、私はいつの間にか汀の歌に動きを合わせていた。


 舞は10分位のもので、終わると一礼する。

 洋平・浩太・明・剛志は私たちと共に並ぶと、玄関前に立つ長の息子に一礼をすると、これから通夜祭が始まるから、村人たちが集まるまで軽く腹に入れようと洋平が言う。長の息子にも食べるよう促すと、先ほどの差し入れの握り飯とおかずをその場で皆でどっかり座り食べ始める。

 握り飯を食べている間、何故か私たちは無言だった。死という今生との別れに立ち会えるという事と、踊りの出来が思いのほかよかったという事と、気分が高揚しているのだが、場をわきまえねばならないと本能で察知していた。

 そこで洋平と浩太が口を開け始めた。

 洋平は、良く出来た舞だった。笛も太鼓も歌も素晴らしいものだった。と言い始めた。

 洋平ははあまり褒めるという事をしないものだから、私は驚きを隠せなかった。続けて浩太は洋平の立場について説明し始めた。神事の際大幣を扱うのが村長の役割で、大幣を持つものは清め祓うのが仕事。故に穢れには触れられない。だから議会議員と議長が他の作業を行うのだ、と。明は、長の息子は私たちよりも年上で、村長も私たちより多く行ったことがある、だけど今回は穢れを受けた身であるが故に言われるがままするしかないのだと。そして剛志は、神様にささげる神楽雅楽は神官、宮司達の子供達がすると決まっている。そうは言っても小学生が穢れを受けるわけにもいかないから、心が育ち始めた中学生以上というのが決まりになっている。君たちはまぁまぁ早い時期に舞う事になってしまったが、素晴らしい見事なものであったと珍しく言葉を並べた。


 洋平はその後、私に近寄ると、おい、さっき舞いながら汀の事目で追ってただろ、とこっそりと言われてしまった。ボッと赤くなる顔を見られたかどうかは暗がりでわからなかったが肩をたたかれると洋平は長の息子に酒と塩を持ってくるよう言う。

 洋平は懐から真っ白な盃を出すと、塩を盃のふちに少しだけ乗せ、口に含ませる。

その後、浩太、明、康平と渡され皆一つまみ一口と含み、私にも回ってきた。

洋平は清め塩と清め酒だ。穢れを拭い去る神事だから同じく皆やるようにと話した。

私から、汀、司沙に康平とそして沙耶と初めての酒を少しながらもあおる。

 見た目と違い冷たいのに体が熱くなる。隣をふと見ると、ほうっと息をした汀が私をじっと見ていて、小さな声で初めて飲んだわと私に言ってきた。暗がりながらに頬がほんのり赤くなっていく様はもはや女神そのものだったと思ったのは後々伝わる事になる。


 村人たちがおよそ集まると、通夜祭が始まる。

通夜祭の雅楽奏者は伝承者が行う。伝承者とは神事における催しにあわせ演奏する雅楽奏者を数人選別し、子孫問わず後継者へと継いでいくもので、我々中学生レベルのものではまだまだ受け継がれるものではない。

 奏者の演奏と共に神官である洋平が祭詞を奉上(ほうじょう)し、その間村人たちは玉串を奉り礼拝する。


 皆が礼拝を終えると、遷霊(せんれい)祭がそのまま行われる。

遷霊祭は御霊移し(みたまうつし)とも呼ばれていて故人の御霊を霊璽(れいじ)に移すための儀式である。霊璽とは位牌のようなもので、故人を家族で祀る際の依り代となるものである。御霊をうつす際は遷霊詞(せんれいし)を奏上する。遷霊祭の間は明かりを消し真っ暗な中で行われる。

 儀式を終えると、明かりをつけ皆は霊璽の前にお供え物を次々と供える。

亡くなった日はこれで全て儀式が終わる事となる。


 儀式が終わると村人たちは散会し、私達も帰路についた。汀が珍しくまたね、と手を振り私はおぉ、と答える。洋平はそれを見てニヤニヤしている。

 家まではさほど遠くなく、夜はいよいよ深く星達はいつもより輝いている。

 洋平は私に今日はいつもより感覚が冴えているんじゃないかと聞かれたので、そうなんだよ、神経が張り詰めていると答えると、それが葬送に携わるという事なのだと言われた。

 

 家の前まで着くと陽子が玄関前で待っていた。陽子は玄関に予め用意してあった盛り塩を私たちに振りまき、桶と尺で私たちの両手に水を流す。流し終えると手拭いをわたし、手を拭うと手拭いを桶に入れ、日本酒を抱える。洋平が懐から盃を差し出すと塩を盃の縁に少量のせ、酒を注ぐ。洋平はよどみなく飲み干すと私にも飲みなさいと差し出す。

 陽子は我が子にもお酒を注ぐようになったのねと、何とも言えない顔をしながら塩を盃に乗せ先ほどよりは少なめに注ぐ。私が飲み終えると洋平から大幣を借り、洋平と私を更に清め最後に一拍を奉る。これで清めの儀式がおわる。


 家に入ると陽子は神棚の扉の白い紙を外し神棚の扉を開ける。先ほどの食事だけでは足りなかったでしょうと私たちに飯場から持ち込んだ食事を出し始める。

 洋平は私と共に着ていた衣服をかけ始める。明日も着るから着やすいように整える程度でいいと私に伝え卓へと向かう。

 少し遅れて私が座ると、洋平は陽子と私を立たせて神棚に二拍一礼をし、私たちも習い同様に行う。

 さあ食べようかと、久しぶりに家族だけの夕飯だと洋平はおどけてみせる。

 洋平は陽子とこの村の世界は神式の儀式が全てであるという事、佛式もいづれ教養として身につけていく必要があるという事、死は穢れではあるが誰しもが起こりえることで忌み嫌うものではないという事、故人は神の一部となりすべてとなるという事、そういった事を話はじめた。浩太や明、剛志達も同じ話を今日皆に言っているだろうとも言っていた。今日の一日は私にとって初めてのものばかりであるが、村にとっては繰り返される毎日の一部分でもあるのだ。

 今日は多分そんなに寝入る事ができないだろうと、洋平は私に少量の温かい日本酒を話ながら用意してくれた。少量の生姜と蜂蜜を入れて飲みやすく温まりやすくしておいたとも付け加えられ私に差し出す。一口飲むと口に生姜の風味が広がり、蜂蜜の甘味が追いかけてくる。陽子はこの飲み物は私が洋平に初めて出してくれたものなのよと言い、洋平はそれ今いうやつかと若干慌て始めた。どうやら二人の馴れ初めのような話で、これは元々は俺の婆さんが作ってくれたやつでとか私が祭詞を歌うときに調子が悪くって気落ちしていた時にわざわざ家から持ってきてくれたとか、親の馴れ初めを聞く子供の気持ちも少しは考えて欲しいとか、その日はいつもとまた違ってワイワイと過ごし、やがて互いに寝床に入った。その日は寝ているのだけど、意識はそこにあるような感覚で、目を閉じているのに部屋や外の様子がとても感じる不思議な日だった。西側の窓からは月の光が差し込み、風は静かに流れ、港からの波の音は穏やかながらそこに確かにあり。そうして次の日を迎えた。


 翌日は葬場祭である。葬場祭は昼から行われるため、葬場祭に向けて村は色々と準備をする。

 弔辞は故人の遺族が故人の身近にいた人に依頼する。長は長命で周囲の仲間は既にいないからと孫に託された。孫は昨日訃報を聞きつけ朝一番の列車で隣町から来ていた。

 弔電は親族や散らばった村人たちから沢山きていたそうで、一度役場が預かっていた。長は多くの人と関わり多くの村人たちを見届けていたからと、直接駆けつける人達も多かった。皆を受け入れるに旅館が使われる。旅館を宿舎として利用している採掘場の作業員も喪服で、役場の出向員や病院、学校の先生も今日は喪服である。

 

葬送の儀の中でも葬場祭だけは村人全員が出るのが習わしである。私も小さい頃から葬場祭には顔を出している。飯場にはおよその住民が朝食を食べ、旅館では作業員と役場の出向員、先生達や駆けつけた人達に朝食が出る。飯場旅館共に葬送の儀の際は朝食は握り飯と簡単なおかずとお新香が定番となっている。洗い物がほぼ出ないからという理由だ。この時の飯場と旅館の役割分担は適当ではあるが、あっちに行けだのこっちにこいだのそんな話は特に出ず、双方が滞りなく済むように男も女も声を掛け合う。私たち神楽雅楽の者たちは皆より幾分早く食べ始め、食べ終わると弔電を役場の役員から預かり神官達の軽食を渡され大きなお社へ向かう。


 葬場祭は大きなお社で行われる。神官、宮司、伝承者達は朝から故人の家に行き故人と霊璽を予め用意してあった大きな荷車に乗せ、専用の囲いで覆い真っ白な旗を立て町を練り歩く。練り歩く際に伝承者達は笛と太鼓を交互にゆっくり鳴らす。北は漁港から北の岬の社へ、その後丘の上を通り、丘の上の社の前・役場・学校・病院と周り、北の住居から南の住居の隅々までゆっくりと練り歩く。この間他の村民は出会う都度深く礼をする。

 南の住居まで回ると、浜の社へと向かい、その後北の岬の社まで向かうと北の岬社から大きな社へと渡る。この頃合いには昼時となっている。

 一方村民は準備が出来次第荷車の後を追う。村民は荷車より先にお社に行くことはなく、途中でも荷車と共に町を練り歩く。

 村人たちは荷車に立ててある真っ白な旗と笛と太鼓の音を目指す。目指す際に浜の社から見上げるのが一番見えるという理由でおよそが浜の社に向かう。向かう途中で音色が聞こえればそちらに、聞こえなければ浜の社に向かえば音色が聞こえてくる。

 見えると荷車の後ろにつくように移動する。前からは合流しないのも暗黙の了解だったりする。

 私たちは大きなお社へ真っ直ぐ向かい、大きなお社、本殿の祭壇横に預かった弔電と軽食を包んだ布を置き、祭壇の様子を伺い本殿の四隅に待つ。移動中はあまり会話を交わさず、寝れたのか、体調は大丈夫か、しっかり朝食べられたかと声をかけあう程度だ。本殿では気を落ち着かせるよう皆が言われていたようで、腰を据えてしっかりと気を鎮めていく。舞台の奥の深い蒼の湾は数枚の落ち葉を浮かべ、今日も静かに空を映し出している。

 静かな時間をしばらく過ごすと、やがて白い旗がこちらに向かってやってきた。洋平を先頭に300は過ぎる人達がゆっくりとこちらに向かって来る。

橋は社の本殿へと連なっている。舞台は本殿より湾の内側にあり、私たちは目で本殿に入る様を見届けると、最後本殿に入る。本殿はとても大きく、1000もの人が入ってもまだ余裕があるほどに広い。

 本殿は海側に祭壇があり、荷車はそのまま祭壇の前に置かれる。霊璽を祭壇にあげ、弔辞の奉呈、弔電の奉読が宮司によって行われる。神官はその後祭詞を奏上し、祭詞が奏上された後、私たちは舞台へ行き神楽雅楽を奏上する。

 神楽雅楽を一節奏上すると、玉串奉奠の儀となり、村人たちは故人に最後の別れを告げる。こうして葬場祭は滞りなく終わる事となる。

 

 葬場祭が終わると村人たちは南の橋から帰り始める。皆が橋を渡り終えるのを見届けると、神官は宮司遺族伝承者を連れ、私たちも共に北の橋をわたる。北のお社の真上、岬の先端より少し内側に大きな広場があり、広場には小さな祠と小さな小屋がある。この村の火葬場であり、ここには葬送の儀の際は故人の遺族と神官宮司と伝承者、そして私たち神楽雅楽を行う者のみ立ち入る事が出来る場所でもある。

 火葬祭は神官が祭詞を奏上し、遺族が玉串を奉り、そして私たちが村を代表して玉串を奉る。その後は宮司達が小屋から乾いた藁と乾いた薪を持ち出し、火葬の準備をする。故人を荷車からおろし、薪を数本と藁を敷き詰め故人を寝かせる。藁と薪を少し、その上からも交互交互に積み上げると、神官はその後懐に忍ばせておいた火種ともなるマッチで藁に火をつけ、やがて藁は薪を火に移し、ちょっとした火柱が出来上がる。

 火柱にもなった頃合いに私たちは伝承者達と共に帰路につく。


 帰宅すると昨日と同じく母親達が玄関前で出迎え、清めの儀式をそれぞれ行う。大幣は無いので、塩・酒・清め水・拍手(かしわで)にて穢れを拭い去る。そのころにはもう昼も過ぎていて昨日よりも腹が空いてお酒がきのうより回る気がした。

 皆は昼も簡単に済ませるとひと眠りについた。

 一方その頃火葬場はそろそろ火も落ち着いてきた頃合い。焼けた薪を取り払っていくと藁は燃えくずになっていて、故人はすっかり骨となっている。

遺骨は集められると大きな白い布に包まれる。白い旗を神官が持ち、霊璽とお骨を故人の遺族が持つ。空になった荷車には何も乗せずに宮司達が持ち、埋葬の地へと赴く。

 この村の埋葬は集団埋葬である。丘の上のお社の裏手に埋葬場はあり、綺麗な花が一面に咲いている。埋葬場では遺骨を故人の遺族が適当に場所を言い、宮司達はお社の裏手の小屋からスコップを数本取り出し遺族がそこそこに深く掘る。掘っている間神官はお社に奉納している筆と墨を持ち出し、白い旗に故人の名前を墨で書き、筆と墨を戻す。宮司はそこいらに咲く花を摘み取る。掘り起こした場所に白い布で包まれたお骨をそっと置き、掘った土を元に戻していく。元に戻すと旗は銘旗としてお骨があるであろう少し手前あたりにしっかり刺される。差した根元には先程の摘み取った花を供え埋葬の儀は終わる。銘旗はそこいらに立っているので、旗が朽ち果てるまでは埋葬地も迷うことは無いという。


 これらの儀式が終わると一度散会となる。散会後も帰家祭という儀式があるのだが、各々が清め閉じた神棚を開け白い紙を取り、故人遺族は霊璽を神棚にあげ、無事に葬送の儀が終えた事を奉告する、という儀式である。この村の者たちは皆そうやって日々を取り戻していくんだそうだ。

 

 葬送の儀が終わると、直会(なおらい)の儀というものがある。神職伝承者のみならず皆が集まり宴をする、というもの。この直会は通常の生活に戻るための最後の儀式なのだそうだが、つまりは皆久しぶりに集まるのだから宴を開こう、という趣旨にしか見えない。この日は小さい子供たちも旅館に集まるのだが、見たこともない人から大きくなったねとか、洋平のとこのせがれか、神楽が良かったとか伝承者達は流石だとか、四季祭の後の祭りとさほど装いが変わらないと思うのは気のせいなのだろう。四季祭名月祭と催し毎に集まる以外で人がこれだけ集まるのは、望月の町では本当に久しぶりで。汀や司沙、沙耶は疲れた顔を見せることもなく女衆に混ざり、康平は私と男衆に囲まれて。今日という日はあまりそう毎日はあってほしくはないと思いながらも特別な日でもあるのだとつくづく思った。

 宴も半ばになると、いよいよ男衆は酔いが回る頃合い。

私は、汀に呼ばれて旅館の外へと出たのである。

 

 

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