SOL35

 所長室でロッドに再会した。例によって服装はTシャツ、短パン、ビーチサンダル。さすがに、そろそろ寒いんじゃないかな。俺たちが部屋に入ると、カラフルな火星の大地図の前のテーブルに論文や報告書を広げ、コーヒーをすすっているところだった。

 手元にはやっぱり真っ赤な火星儀が置いてある。

「オー、よく来たね」

 彼はあいさつもそこそこに、俺たちがテーブルにつくなりさっそく本題に入った。

「アリカは犯人じゃなかったヨ」

 そりゃそうでしょう。母さんがサイバー攻撃するなんて、最初からありえない話だったんだ。俺は机の下で小さくガッツポーズしながら、心のなかで悪態をついた。

「NASAの管理部の正式な調査結果がでた。全部、逆だったんダ」

「逆……ですか……?」

 俺たちは互いに目を見合わせた。ぜんぜん意味が分からない。網野がコーヒーを持ってきてみんなに差し出しながら微笑んだ。

「そう。黒石さんもそうだったけど、火星アンドロイドの脆弱性が攻撃されたってところから議論をスタートしてたでしょう?」

「ええ。だって、実際に脆弱性があったわけですよね? ヒナの機体ボディにも見つかったし」

「それがそもそもの間違いだったの。火星アンドロイドが攻撃されたのは

 どういうことだ? 今まで考えていたハッキングの侵入ルートが逆向きだったってことか?

「最初に攻撃されたのはね、JPLにいたほうのアンドロイドだったのよ」

 網野の言葉にノゾミとリクはピンときていない様子。小首をかしげてうーんと唸っていた。

 網野の補足説明によると、犯人はまずJPLで保管されているアンドロイドの脆弱性をついてNASAの内部ネットワークに侵入。地球と火星を結ぶ通信回線を使って火星基地に入ったらしい。てことは、最後に火星のアンドロイドに侵入したのはカムフラージュか何かなのだろう。

「あとは、黒石さんが調べていた通りよ」

 そう網野が言ったタイミングを見計らったかのように木の扉が開き、すたすたと黒石が入ってきた。今日はもうアザラシじゃない。

「火星は密室じゃなかった、ってわけだ」

 俺にウインクなんて飛ばしながら彼は低い声で言った。

 俺は笑い声のひとつもあげず、ただ黒石の様子をじっと見つめていた。髪型も服装も、電波暗室に閉じ込めたアンドロイドと瓜二つだ。ひょうひょうとしていて人間らしいゆらぎのある振る舞いの再現性も高い。

「宇宙船のハッキングと〈火星の石〉を人質にしたランサムウェアこうげ」

 俺の視線に気づいたのか、黒石が止まった。

「オイ、何だよ。俺の顔に何かついてるか?」

「え? ああ……いえ、別に」

 彼の手には飲みかけのダイエットコーラの缶。彼が人間であることを表していた。アンドロイドはアバターだからあまり本来の自分に似せたがる人は居ないはずなのに、彼のは瓜二つだった。なかなか異様だ。

「ランサムウェア攻撃。そして、火星アンドロイドを最初に攻撃したように見せかけるログデータの改ざん。仕上げに、本当の入口であるJPLのアンドロイドをセキュアチップごと破壊。手練の犯行だ」

 彼は悔しそうにバンッと机を叩いた。それもそうだ。人質だった火星の石はなんとか回収したけど、犯人には逃げられたまま。もちろん身代金の要求に応じないというNASAの強い姿勢を示すことには成功したとも言えるけど、やはり攻撃者の手のひらで踊らされている感は否めない。

 ずっと緊張していた俺は、網野の「でも、これでソラくんのお母さんの疑いはすべて晴れたわ」という声でようやく一息ついた。急に力が抜けたせいで、ぐでんとイスに沈み込んでしまう。

「よかったね、ソラ!」

「ガッハッハ。俺は信じてたぜ」

 ノゾミとリクも自分ごとのように喜んでくれた。

「……でも、そしたら、母は……何が原因だったんですか?」

 ヒナを思い出す。顔で笑って声で泣いていた。彼女は人殺しアンドロイドなんかではなかった。

 ロッドはコホンと咳をして

「少し火星の話をしようね」

 と席を立った。

「ソラ。宇宙ステーションや月面と、火星が一番違うのはナンだと思う?」

 いきなり質問が飛んでくる。一番の違い、なんだろう?

 俺が真剣に悩んでいつまでも答えられないでいると、ロッドはいよいよ目を細めた。

「火星からは、美しい地球の姿、見ることができナイ」

「ああ!」

 難しい作業を失敗できない状況で、しかも分刻みのスケジュールでこなさなければならない宇宙飛行士の心労は相当なものだろう。なんとなく想像がつく。母さんもそのために砂漠にある施設で閉鎖環境のストレスに耐えながら作業をする訓練を続けていたんだから。そんな心を癒やすのに大きな効果があるのが、目に映る青い地球の姿だという。

「火星ミッションは孤独との戦いダ。管制センターとはリアルタイムで話さえできない。だから、全部自分たちで決める。機械が故障したら直す。ケガも病気もケンカも。スベテ5人で解決するしかないんだヨ」

 過度のプレッシャーと孤独感。そして、逃げ場のない緊張感が2年半、毎日続くのか。これはきつい。家族や友人とおしゃべりをしたくても、火星はあまりに遠いのだ。限られた時間だが家族とビデオ通話できる宇宙ステーションとはわけが違う。火星からだと、どんな方法を使っても、チャットのメッセージでさえ往復30分はかかるという。これじゃあ会話は成立しない。これを孤独と呼ばずになんと呼ぶだろうか――。

「訓練でもたくさんの人がホームシックになった――〈地球喪失症アース・シック〉なんて呼ばれてル」

 ロッドがそこまで言ったところで、黒石が割り込んできた。

「クルーの何人かが地球喪失症アース・シック〉になった。そして精神的なバランスが取れなくなった者の、負の感情のはけ口になったのが――アンドロイドだったんだ」

 彼は苦虫を噛み潰したような顔で俺の目を見た。

 なんということだ。

 俺はいままで宇宙飛行士というものにどこか超人的なイメージを抱いていた。地球上では考えられないほど物理的・心理的に過酷な環境で多くの人の夢や願いが詰まった作業をプレッシャーに耐えながら正確無比に実行するロボットみたいな存在。それは脆くも打ち砕かれる。母さんも含め、5人はみな普通の人間だったのだ。

 元はアンドロイドの研究者だったという黒石は神妙な面持ちで続けた。

「いわゆる、ロボットいじめだ」

 彼の話では、AIの頭脳をもつ自律型のアンドロイドに対し、暴言を吐いたり叩いたりして、活動を妨害する行為はこれまでも何度か観測されていたらしい。

「アリカはネ、それに気づいて、止めようとしてたんダ。計画になかった行動をとったのもそのためダ。アンドロイドに任せるべき危険な作業を代わったりもしたラシイ」

 そこでロッドはいったん深く息を吐き、伏し目がちに続けた。

「――そして、そのせいで、細菌に感染したようダ」

 優しさが仇となった。そう言って、彼は目頭をおさえた。

 机の上の報告書の束。母の身体も、想いも、死因でさえも、もう自分の手の届くところにはないのだと理解した。もちろん、こんなことは母さんが火星に行くと決まった日から分かっていたはずのことだった。

 けど……。

 網野が歩いてきて、そっと俺の肩に手をおいた。 

「ソラくん……。死因が伏せられていたのはこのせいだったのよ」

 宇宙放射線に曝された細菌は変異し、病原性が高まることがあるという。その変異は全くの偶然に支配されるが、今回は特に運が悪かった。薬剤耐性が上がったタチの悪い病原菌に感染した母さんは、最後は敗血症を引き起こし、治療の甲斐なく亡くなったらしい。まだ草稿だという報告書がロッドから手渡され、促されるままなんとなくページをめくってみる。上には〈Classified〉の文字。英語で書かれていて、母さんの名前をいくつか見つけられた以外は内容はよくわからない。

 公表がここまで遅れたのは、その病原菌が地球から持ち込まれたものか、火星由来の新種なのか、すぐに判断がつかなかったためらしい。

「ソラ。大丈夫?」

 ノゾミが心配そうに声をかけてくれた。

「え、ああ……。なんか不思議な気分。なんていうか、ホッとした」

「そう?」

「――アンドロイドが、ヒナが、原因じゃなくて、良かった」

 それは、彼女もずっと気にしていたことだった。

「……そうだね。ソラのお母さん、火星のアンドロイドを守ったんだものね」

 小さい頃から俺ん家に出入りしていたノゾミにとっても母親みたいな存在だった。彼女にうるうるとした瞳で見つめられ、どきりとした。俺がここで悲しんでいても仕方ない。サンキュ。明るく微笑み返した。

 網野が動画を1つ見せてくれた。

 隊員たちは夕方になると各々1分ほどの動画を撮影し、地球に送るよう決められていた。これは業務日誌という意味に加えて、心理状態のチェックも兼ねているそうだ。

 網野が出してきたのは、それとは別に保存されていたものらしい。亡くなる2週間ほど前の映像だという。

 覗き込んだ網野のラップトップに、母さんの姿が映しだされる。

 栗色のやわらかな短髪は、地球にいた頃と同じ。健康そうだ。作業用のツナギに身を包み、楽しげに笑ってソファーに腰掛けると、早速話し始めた。

『――ソラ、元気にしていますか? 今日はSOLソル359。火星にきて359火星日が経ちました。子供に心配ばかりかけ、自分は好き勝手。ホントだめ親だね私。ではまず最初に、この場を借りて謝ります。ごめんなさいっ』

 懐かしい声。いつものマイペース。

 画面の中の母さんは合掌した手を頭の上にのせるようにして、少しイタズラっぽく頭を下げた。

『今日はもうひとつ、あなたに謝らなくちゃいけないことがあります。母さん、家に帰れなくなるかもしれません。まだよく分からないんだけど、ドクターのジャックが言うには、何か悪い菌に感染しちゃったみたい。まだ、正体は分からない。ひょっとしたら新生物かも! ねぇ、そうしたら世紀の大発見よ! 火星には生命が居て、そいつはヒトに感染する能力を持つ。感染第1号は私! ハハハハハ』

 彼女はわざと明るく振る舞っているわけでも、ことの深刻さを理解していないわけでもなさそうだった。普通なら落胆してふさぎ込んでしまうような事態でも、むしろ状況を楽しんでさえいるような、明るい表情だった。

 まったく、何言ってるんだよ。

 俺は画面にむかって笑ってやった。すぐにロッドが、横顔が似てると言ってくれた。そうなのか。自分じゃわからないけど。

『ソラ。私が戻らなくても、前をむいて生きなさい。家族のことだけじゃない。進路とか友達のこととか、あー、恋人とか? ハハハ。どうせ、なくしものも悩みごともずっと続くわ。私だってそう。地球に置いてきたつもりが、火星にたくさん持ってきちゃった。でもね、決して望みを捨てないこと。いい?』

 望み――。

 俺が復唱するのを待ってたかのように、動画の中の母さんが一呼吸おいた。

『望みを抱いた人間の心は強い。これまでずっと、火星探査のボトルネックは人の心だと言われてきたの。でもそれは間違いだった。この動画をあなたが見る頃には、火星基地で起こったことはみんなバレちゃってるよね。仲間が何人か地球喪失症(アースシック)になり、ロボットいじめまでおこった。心が弱かったから? 違うわ。だって、私たちは克服できたもの。火星(ここ)は人間の体にも心にも厳しい環境には違いないけど、適応できた。人の心は弱くない。だから、決して望みを捨てないこと。いい?』

 ノゾミもリクも、網野でさえも、母さんの口から出る言葉を、ひとつも聞き漏らさないぞというような真剣な眼差しで聞いていた。俺はなんだか照れくさくて、視線を合わせられない。

『フー。最後に小言を少々……。あっ、でも、最後まで見て』

 はいはい。見てますよ。久々のお小言くらい、なんてことないよ。

『友達には優しくすること。困ってる人は助けてあげなさい』

 分かってるってば。

『以心伝心を過信しないこと。言葉にしなければ伝わらないことはたくさんある』

 そうだね。地球にいた頃にも、聞いた気がする。

『なくしものを探し続けるのは、悪い事じゃないわ。何でも自分の目で確かめ、自分の頭で考え、自分で決めるの。あなたの人生だもの。なくしたと思うのなら、見つかるまで、自分が納得するまで探しなさい。人はどうでもいいの。自分で決めたことなら、くじけそうになっても続けられるわ。あなたは強い。自分を信じて。――あと、最後に。もしよければ、私のこと、忘れないで、ください』

 頬にはいつの間にかあたたかな涙がこぼれていた。

『ハッピーバースデー、ソラ。火星の石、プレゼントに渡せなくてゴメンね』

 そう言って、母さんはイタズラっぽく笑った。

 この日、俺は17歳になった。

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