SOL9

「ホントは所長に聞くのがベストだけどね。今、NASAの偉い人に呼び出されたとかでアメリカ行ってて。ああでも、明後日には帰るから」

「ありがとうございます。あの、それで、生命は? 母は、それを探してたと思うんですケド……」

「まあまあ。落ち着いて……」

 網野がグラスをすっと差し出す。透明アイスコーヒーの中で、カランと氷が涼しげな音を立てた。

「あなたには、私の知る限りのことを教える。有人探査の、あなたのお母様が火星に向かった目的のひとつは、もちろん生命の痕跡よ。ただ事故のことは知らない。それだけは、最初に断っておく」

 火星はあいにく彼女の「推し」ではなかったけれど、探査プロジェクトには関わっているみたい。少なくとも、地質学者だった母さんとの接点は俺よりも多いと思う。

「まず、人類が網羅的探査を行った地球以外の惑星は火星だけ。でも、その火星ですら、私たちの知っていることはとても限られているの」

「え?」

「いうなれば、出会って5日目の転校生、みたいな感じ」

 網野がさも「分かるでしょ」と言いたげに笑みを浮かべて呟いた言葉が、ぜんぜんピンとこない。俺がぽかんとしていると、彼女はやれやれといった様子で長い銀髪をかきあげた。シルバーのイヤリングが光る。

「人類が送り込んだ探査機のうち、火星の地を踏んだのはいくつあったと思う?」

 視線を向けられたリクが答える。

「えっ? 20や30は行ってるだろ?」

「いいえ――9台よ」

「たったの? それじゃ、探査できてるのって――」

 ノゾミも興味津々で身を乗り出してきた。トレードマークの2つ結びがブンブンとゆれていた。

「そう。ローバーの総走行距離は100キロにも満たないわ」

 そうか。それで〈出会って5日目の転校生〉なのか。なんとなく分かる気がする。目の前の子は俺のことどう思ってんのかな、とか、なんとも思ってないのかなとか、揺れてるって感じか。

 網野によると、火星の表面積は地球の全陸地の面積とおよそ等しいらしい。そののうち、ほんの100キロばかりローバーを走らせて調べただけ。それが人類が見た火星の景色の全てだった。

 彼女は例の透明コーヒーを美味しそうにすすり

「もちろん衛星写真から分かったこともたくさんあるけどね」

 と加えた。最新の火星周回衛星オービターのカメラの解像度は30センチにも達しているという。それはそうと、問題は火星に生命がいるかどうかだろう。有人火星探査の目的のひとつに生命の痕跡探しというのがあったはずだ。

「1970年代。バイキング計画で2台の探査機が火星に着陸。生命検出装置を積んでたわ。でも、何も検出されなかった」

「はぁ、やっぱり死の星なんですね……」

 俺がそう呟くと、網野はすこし物憂げな流し目をむけてきた。

「いや、そうとも言えないわ。検出器の性能も悪かったし。それに、あとになって、南極とかアタカマ砂漠とか、それまで生命が存在しえないとされてきた場所でも生命が見つかったの」

「え?」

「たしかに火星は厳しい環境ではあるけど、諦めるにはまだ全然早い。まぁ、私の〈推し惑星プラネット〉には当分格上げできないけど」

 基準がよくわからん。

 でも、彼女の話からは火星に生命が証拠が集まりつつあることはなんとなく分かった。

「その後、火星に液体の水があった証拠や有機物の存在も確認されたわ。10年前に着陸した探査機パーシビアランスが採取したサンプルも、ようやく一昨年にリターン成功」

「ああ……それ、覚えてます。〈人類初の火星サンプルリターン〉ってニュースで。――ちょうど、母が火星に立った年なので」

「あ……なんか思い出させちゃったかしら」

「いえ、もう……大丈夫です」

 半分ほんとうで、半分ウソ。これは自分が傷つかないための定型文だ。

「なんとなく、覚悟はしてたので……」

 俺の言葉に、網野はいよいよ神妙な面持ちになった。さっきまで威勢よく胸を張っていた彼女が、なぜかとても小さくなって見えた。

「――ごめん」

「いいですよ」

「じゃなくて。火星での事故――知らないんじゃないの」

「えっ?」

 網野はため息まじりにコーヒーを飲み干し、ひょいと立ち上がって俺の顔をまじまじと見た。

「ごめん。今は言えない。理由は聞かないで。その時がきたら、必ずあなたに教えるから。だから、ごめん」

 

 それから網野がぜひと勧めるので研究所に厳重に保管されている〈火星の石〉を見せてもらうことにした。

 火星の石。それは、あたかもこのインターンの元々のゴールだったかのように静かに待ちうけていて、確かに存在していた。写真やレプリカではなく本物の石。

直径15センチほどの透明なアクリル製ディスクに6つの石が行儀よく並んで埋め込まれていた。俺は卒業証書のようにそれを両手でうけとると、ひとつずつ時間をかけて眺めた。

 色も形も違う6つの石。どれも1センチもないほどの慎ましやかなカケラで、赤茶けたもの、黒ずんだもの、灰褐色のもあった。そのうち2つはとても小さく、もはや砂といっていい。円盤の中心には〈MARS SAMPLE 144〉と書かれた白い紙も封入されていた。

「NASAの宇宙物質キュレーションセンターから借りている、本物よ。別々の場所で採取された火星表面の石と、火星由来の隕石。それと砂のサンプルが2つ」

 と網野。説明のとおり、それぞれの石の近くに名前の書かれた小さな紙も埋め込まれていた。隕石以外はどれも2021年の採取。ジェゼロクレーターのサンプルとのこと。俺の手の中に、地球から数千万キロ離れた異世界の石があるかと思うと、なんだかこみ上げてくるものがあった。

「すごい……」

 石を地球に持ち帰る〈サンプルリターン〉は、探査機を送り込むよりずっとたいへんな作業だという。網野によると、サンプルチューブ回収用の着陸機ランダーの投入、火星でのロケット打ち上げと周回軌道での捕獲、そして地球帰還機の用意と、大量の機材を宇宙に上げる必要がある。

 NASAは欧州宇宙機関と共同で、この巨大プロジェクトを2031年に完遂した。その結果、人類が地球に持ち帰ることのできた火星の石は計600グラムにも上った。

「ソラくん。一体、何がこの壮大な計画をドライブしてきたと思う?」

「えっ? なんだろ……好奇心、とか?」

「いい線いってるかも。私が思うに――それは〈想像力〉よ」

「ソウゾウリョク……?」

「そう。未知のものへの、尽きることのない、想像力」

 数千人、いや、何万人もの想像力が重なったその先に、有人火星探査があった。

 人間5人を火星まで連れていき、そして、無事に帰す。火星表面で過ごす1年半を含む2年半あまりの長旅だ。半自律走行のローバーを遠隔操作して石を持ち帰るのとは次元の違うことだというのは想像に難くない。

 もちろん、俺の目の前にあるのは母さんが踏む前の火星の石だった。それでも、この壮大な計画に関わった人々の想像力には心を動かされずにはいられない。サンプルは贈り物みたいに愛おしく、懐かしささえ感じた。

「――網野さん。ありがとうございます。見られて良かったです」

 心配そうに顔を覗き込むノゾミにも、声をかける。

「ミッチーも、研究所ここに連れてきてくれて、サンキュ」

「え? あ、ああ。アハハ。良かったね、ソラ」

 網野が顕微鏡で石の特徴を詳しく解説しはじめた頃に、ヒナがホクホク顔で帰ってきた。

 結局のところ母が火星を目指した理由は、まだ言葉では表せそうになかった。事故の真相も不明のままだ。けれど、そこに確実にあることはわかった。それだけで、いまは十分だ。

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