2品目:異世界の朝ごはん

 もし熊と対峙たいじしてしまったなら死んだ振りをすると良い、と聞いた事がある。では、3メートル近くあるドラゴンと対峙した時は? その答えを持っている人物がいるなら今すぐ目の前に連れて来てほしいものだ、と暁子あきこは思った。



 先程からどれだけ頬をつねっても手を叩いても自分が夢から目覚める気配は無い。こちらを睨み付けている深紅のドラゴンも、その口から吐き出された炎も、焦げ臭い帽子も、全てがこの状況を現実であると証明してくるようだった。

 

「死にたいようだな?」

 

 恐怖で声も出ない暁子に痺れを切らしたのか、ドラゴンは再び口を開いた。鋭い牙の奥で、揺らめく炎が一段と大きくなるのが見える。

 

 ――あぁ、私はこんな訳の分からない死に方をするのね。父さん、母さん、トオルさん、今からそちらに逝きます……。

 

 諦念ていねんし、目をつむった瞬間。

 

「おはよう、母ちゃん」

 

 気の抜けた声が耳に飛び込んできた。

 怖々目を開くと、ドラゴンが狼狽うろたえている。吐き出す直前の炎を慌てて飲み込んだのだろうか、ゴホッゴホッという咳と一緒に火花が散った。

 

「おいおい、母ちゃんったら、擬態が解けちゃってるぞ! 寝起きだからか?」

 

 それは年端も行かぬ子供の声のように聞こえた。カウンターが邪魔をして暁子からはその姿が見えないが、母ちゃんと呼ぶからには恐らくこのドラゴンの仔なのだろう。

 無邪気に笑う子供の声とは対照的に、目の前の化け物はたじろぎ動揺している。

 暁子が瞬きをする一瞬の間に、目の前のドラゴンはまた紅髪の美女へと姿を戻していた。おぞましい程の表情で一瞬こちらを睨み付けてから声の主へと言葉を返す。

 

「そ、そう、まだ眠くてね……」

 

 ――ドラゴンが2匹に増えた時の対処法を誰か教えてください。神でも仏でも何でもいいから!

 

 そんな暁子の願いはもう届く事はなかった。仏の顔も3度までは拝める筈だと記憶していたのだが、どうやら出任せだったようだ。

 

「あ! 母ちゃん、また寝ぼけて火を噴いたな? ほら、お酒の棚がまた焦げてる!」

「え? ……あっ待ちな――」

 

 ペタペタと子供が駆け寄ってくる音がする。制止する母親の横をすり抜け、カウンターの横を抜けてくるのが足音から伝わる。

 あぁ、万事休す、だ。

 そう思った瞬間に足音が止まった。恐る恐る、足音がしていた方向に目を向けると、60センチメートル程の大きさをした朱色の蜥蜴とかげが、みどり色の目をぱちくりさせながらこちらを見ていた。

 

「母ちゃんったら、お客さんがいるじゃないか!」

 

 その蜥蜴はこちらに駆け寄り、前脚を暁子に差し出した。その3本の指の先に、母とよく似た小さな鉤爪が付いていることには気付きたくなかったな、と暁子は思う。

 

「ようこそ旅人の酒場【よいの火】へ!」

 

 蜥蜴はそう言って、満面の笑みを浮かべた。もっとも、暁子には獲物を見つけ牙を剥き出しにする捕食者にしか見えなかったのだが。



 蜥蜴に促されるまま席に座る。カウンターの向こう側には木で出来た机や椅子が幾つか並んでいた。新しい物もあれば、端が焦げたように黒くなっている物もある。

 彼は暁子の向かいの椅子に乗り、前足を机の上についてこちらに話しかけてきた。

 

「ウチ酒場だから昼間はやってないんだよな。せっかく来てくれたのにごめんよ、お姉さん」

「い、いえ、お気遣いなく……?」

「お姉さん、なんて呼んだらいい? オレはリート。リート・コーヴィンス=サラマンドだ。で、母ちゃんはベリィ・コーヴィンス=サラマンド。」

 

 そう言うとリートは自身の背後に立つ紅髪の女性を尾で指した。

 お姉さんと呼ばれるなんて何年ぶりかしら、と少し顔が綻ぶが、リートの背後から送られるベリィの視線の鋭さに、サッと顔を下げる。野生動物の中では仔を護る母親が最も凶暴だと言うが、ドラゴンも同じなのだろうか。

 

「私は……アキコさんってよく呼ばれるわね」

 

 なんか変わった名前だ、と軽快に笑う声は人間の小学生と何ら変わらなかった。名前を繰り返し不思議な抑揚で唱え「オレ、名前とか覚えるの得意じゃないから、こうやって何回も言って覚えるんだ」とまた笑った。

 

「アキ・コサンって名前もヘン――じゃなかった、不思議だけど服も不思議だな。最初はゴーストかと思った!」

 

 そう言われて自分が仕事着である白衣とマスクを身に付けたままであることを思い出した。目元以外が全て隠れた真白な出で立ちは、確かに幽霊ゴーストにも見えるかもしれない。

 リートが暁子の仕事着を上から下までまじまじと見つめる。上の方を見ようとすると下顎が置いてきぼりになる癖があるようで、帽子を見る度にポカンと口が開くのが可笑おかしかった。

 

「旅人はよく来るんだけど、アキみたいな服は初めて見た――あ」

 

 ぐい、と不意にリートが身を乗り出す。先程の炎の熱さと恐怖がフラッシュバックして、思わず暁子の身体が後ろに退いた。

 

「帽子! 焦げてる!」

「ひゃっ――?」

 

 予想外の言葉に、つい間抜けな声が出てしまう。そんな暁子を気にも留めず、リートは両手――いや、両前脚で器用に帽子を持ち上げた。

 

「母ちゃんの噴いた火が当たっちゃったのか? ケガはしてないか!?」

 

 大きなエメラルドグリーンの瞳が真っ直ぐこちらを見つめた。1点のかげりも無い輝きに視線が吸い込まれる。

 

「あ、あぁ、大丈夫。ケガはしてないわ」

 

 そう答えるとリートは安堵したような表情を見せた。

 と思うと、直後には不安げに俯く。

 コロコロと変わる表情と動きが読み取れるようになってきた。まさか蜥蜴の表情を窺う経験をするとは――。

 

「……帽子燃えちゃったんだよな? どうしよう」

「あ、いや――」

「オレも母ちゃんも裁縫がてんでダメなんだ。早く直してあげたいんだけど」

「えっと――」

「珍しい帽子だし、きっと大事なやつだよな」

「いや、それほど――」

「そうだ、オレ、レコンおばちゃんに頼んでくるよ! ちょっと待ってて!」

 

 暁子が言葉を挟む隙もなく、リートは独り合点すると帽子を頭の上に乗せてペタペタと足音を立てて走り去ってしまった。

 

 2人だけが残された。殺意を向けた者と向けられた者である。暁子はおずおずと視線をベリィに向けた。視線が合う。彼女は溜息を1つ吐くと、リートが居た席にそっと座った。

 

「……悪かったよ」

「え?」

「帽子、燃やしちゃっただろ。……悪かった」

 

 それが彼女からの謝罪の言葉であると理解するのに少し時間を要した。暁子の吃驚びっくりした表情をどう読み取ったのか、彼女は慌てたように言葉を続ける。

 

「悪い、泥棒かと、勘違いしたんだ……その、昔、似たような事があって……でも、貴女からは、悪意の匂いがしなかったから、だから……ごめん」

 

 ベリィは訥々とつとつと言葉を紡ぎ、深く頭を下げた。


「やだそんな、やめてよ! ほら顔上げて! 私は平気だから!」

 

 思わず暁子が言うと、彼女はおずおずと下げていた頭を戻した。琥珀色の瞳が揺れながらこちらを窺う。まるで悪戯をして叱られた子供のようだ。

 その様が不憫なようにも幼気いたいけなようにも思えてきて、暁子は「元はと言えば」と優しい声で語りかけた。

 

「私が台所なんかにいるのが悪かったのよ。ほんと、気にしないで。知らない人間が台所にいたらそりゃ誰だって泥棒だと――」

 

 と言いかけて、はたと気付く。先程まで座り込んでいた場所をちらと見遣る。扉も何も無い台所。私はどこからどうやって来たのだろう。

 にわかに黙りこくった暁子をベリィは不安げに見つめていた。

 

「えっと……?」

「あ、いえ――あの、変な事を聞くんだけど……ここって給食室に繋がってないわよね?」

「キュ――? 悪い、何だって?」

 

「きゅう、しょく、しつ」とはっきり発音する。

 

「私、給食室の冷蔵庫から知らない内にここに来ちゃったみたいなの。どうやって帰れるのか分からなくて……」

 

 ベリィの頭上には大きなクエスチョンマークが浮かんでいる。

 

「あたしも随分長いこと旅をしてたけど、キューショクシツも、レイゾーコ?も聞いた事ない地名だな……転移魔法が失敗でもしたのか?」

 

 あぁ、やっぱり、と思ってしまった。火を噴く竜、何故か通じる言葉、転移魔法。悪い夢だと思っていたが、何時いつになっても目は覚めない。理由や原理は何も分からないが、私はどこか違う世界に来てしまったのだ。

 

「あの、信じてもらえないかもしれないんだけど……私違う世界から来たのよ。気付いたらここの台所にいて、帰り方も分からない。私たちの世界には魔法もドラゴンも無いから、どうしていいか分からない……」

 

 言葉にするとより絶望感が増す。こんな世界で右も左も分からずどうしろと言うのだろう……。

 はぁ、と暁子が大きな溜息を吐くと、ベリィがおずおずと口を開いた。


「違う世界なんて聞いた事がない……けど、嘘を吐けばあたさは匂いですぐ気付く。貴女からはそれが無いから、本当の事を言ってるんだって分かるよ」


 こちらを見つめるベリィの眼差しは優しい。

 

「優しいわね、ありがとう」

「助けてあげたいが、どうしたらいいか……そうだな――」


 と、ベリィが言いかけた所で、入口からペタペタと慌ただしい足音が聞こえた。


「――とりあえず、うちの王子様と朝食でも食べていかないかい?」


 ベリィはニヤリと口角を上げ、片目を瞑って見せた。



 帰ってきたリートは申し訳なさそうに焦げた帽子を暁子に返した。聞けば、裁縫の得意な隣人に依頼してみたが、未だかつて見た事のない未知の布地を元通りにはできないと断られてしまったのだと言う。

 リートも隣人もまさか異世界の布だとは想像もしないだろう。申し訳ない事をしたと寧ろ暁子も恐縮する。互いに謝るリートと暁子を制し、ベリィが口を開いた。


「リート、朝ごはんを一緒に食べながらアキと話をしようじゃないか」


 聞いたリートはぴょんと飛び跳ね尾を振る。


「やったぁ! オレ、旅人から話を聞かせてもらうの大好きなんだ! 代わりに、アルシュトルツの事は何でも聞いてくれよ!」

「えぇ、ありがとう」


 アルシュトルツとはきっとこの国か街か、どちらかの事なのだろう。暁子が微笑むと、リートは「さぁ座って!」とカウンター席の少し高い椅子へと暁子を案内した。

 ベリィは台所側に回り、紅い髪を上に束ね上げる。かまどの薪にふうと息を吹き掛けるとたちまち火が上がった。


「リートのスクールがあるから大層なもてなしはできないが、許してくれ」

「スクール?」

「あー……子供が学ぶ場所だ」


 こんなに異なっている世界にも学校がある、しかも名前も同じなのか!

 そんな事に少し感心した暁子を知ってか知らずか、ベリィは淡々と準備を進めていく。

 ベリィは後ろの棚の引き出しからぬめりとした水色の塊を取り出した。パチンと指を鳴らすと塊はしゅるしゅると縮み、片手の中に納まる。中からは生肉の乗った白い器が現れた。


「それは……?」

「あぁ、チキンだ。ニワトリの肉」


 暁子がいぶかしげに問うと、ベリィはケロっとした顔で答える。確かによく見る鶏肉ではあるが。

 

「いや、そっちじゃなくて水色の方。ニワトリは知ってるわよ!」

「そ、そうか、すまない……ドラゴンがいないならニワトリもいないのかと……。これは氷スライムの欠片だ。チキンは生のままだと腐ってしまうから、これで冷やしておく」


 そう言いながら、ベリィは鶏肉の両面に桃色の細かな結晶――岩塩を削ったものらしい――を振りかけて馴染ませた。

 それを脇に寄せ、野菜の下準備に取り掛かる。黄金色の細い根っこのような物は、薄くパリパリとした皮を剥いて刻む。橙色のゴツゴツした掌サイズの実は皮のまま乱切りに。菠薐草ほうれんそうによく似た濃緑の葉は一口大に。

 小鍋に油を敷いて、刻んだ細い根――リート曰く、タンルと言う野菜らしい――を炒めると、玉葱のような大蒜にんにくのような食欲を唆る香りが漂う。ベリィはそこに幾つかの調味料やスパイスのようなものを加えると、小皿に取って暁子に差し出した。

 

「口に合うと良いんだが、どうだ?」


 黄金色のソースを口に含むと、優しい甘さと旨味が口に広がる。玉葱や林檎、醤油で作るステーキソースにとても近い味わいだ。

 まさかこんな世界で慣れ親しんだ味に出会えるとは!

 気を抜いたら涙が溢れてしまいそうな程嬉しかった。


「――とても、美味しい」

「そりゃ母ちゃんのチキンステーキは世界一だもんな!」

「お褒め頂き光栄だ、リート。それじゃあ3人分のパンを出して」


 リートは頭の上に器用に木のトレイを乗せ、パンとグラスに入った水をカウンターへ運んでくれた。暁子が手伝おうとすると「ダメだ、お客さんは座ってて!」と牙を出してリートなりに怖い顔をするので、大人しく座って待つ事にした。

 ベリィは下味を付けた鶏肉を焼き始めた。皮目を押し付けながらパリッと焼き、鶏から出た脂で橙色の野菜を炒める。

 火が通れば菠薐草のような葉とタンルのソースを入れ、肉と野菜に絡める。

 ソースが鍋の中を跳ね回る音に、思わず暁子の腹の虫が大きく鳴いた。


「さぁ、熱い内に頂こうか」


 蜥蜴の姿をしたドラゴンの仔、褐色の女性に擬態したドラゴン、そして異世界からやって来た人間。姿形は違えど、この素晴らしい朝食を前に同じ表情を見せた事は言うまでもない。



 【続く】



 〜今日の献立〜

 カシャ麦のパン

 ベリィ特製タンルソースのチキンステーキ

 付け合わせ:ミケルァ、ピニの葉

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