異世界おべんと

杏杜 楼凪(あんず るな)

1品目:暁子の朝ごはん

 「――で、あんた、ウチの店に押し入ろうたぁどういう了見だい?」

 

 琥珀色の瞳がこちらを睨めつける。怒りを含んだ声と鋭い眼光が、彼女の呆けていた意識を取り戻させた。

 目の前にいたはずの(いや、そもそものだけれど)女性は掻き消えていた。腰元まで揺れていた深紅の髪だったものは、炎のように揺らめき輝きながらしなやかな身体の曲線を覆い隠す鱗となる。滑らかな爪の先はかぎのように曲がり、ギラリと光る。憤りと比例するようにその身体は膨大し、裂けた口端からは鋭い牙と荒れ狂う炎が覗く。

 

 その姿は正に、いつか童話で見たドラゴンそのものであった。

 

 これは夢だ、夢に違いない。そう気付いてしまえばきっと直ぐに目が覚めて、ふてぶてしく照る朝日を少し鬱陶しく思いながら、彼女は日常に戻るだろう。その筈だったのだ。


 

             ✱


 

 その日、早河はやかわ 暁子あきこはいつも通りの朝を迎えていた。


 目覚まし時計が朝5時を告げる。暁子はひとつ伸びをすると、寝癖のついた長い黒髪を無造作にまとめて顔を洗った。鏡には寝ぼけ眼の四十路の女が映る。何一つ覚えてはいないが、何だか悪い夢を見たような気がしていた。

 

「やだやだ、こんな顔してちゃダメね!」

 

 パチン、と両手で頬を叩き、暁子は早速朝食作りに取り掛かった。

 炊飯器が自らの仕事を終えるまで約45分。白米が炊き上がるその瞬間に全ての料理が完成するよう、時間を逆算して調理を進める。そんなタイムアタックのような朝食作りが、暁子の毎朝のルーティーンであった。

 鼻歌交じりに冷蔵庫を開け、手際良く材料を準備してゆく。なんといっても、今朝の1番の楽しみは茗荷みょうがの味噌汁だ。茗荷のすっきりとした風味が味噌に優しく包み込まれ、気だるい夏の朝に何ともぴったりの汁物になる。

 

「うーん、いい香り!」

 

 同僚のエミちゃんが家庭菜園で育てたという茗荷は、形こそ小ぶりであるが一級品にも劣らない風味を持っている。

 

「あとは……出汁巻き玉子と浅漬けにしようかしらね」

 

 大きな独り言が早朝の台所に転がった。夫にはよく「独り言ばかり言うのは歳をとった証拠だ」と揶揄からかわれたものだが、もう彼女の独り言を聞く者はこの家にいないのだから、今更誰に配慮することもないだろう。

 

 手始めにごろごろと切った胡瓜と、爪楊枝で何ヶ所か刺したプチトマトを白だしに漬けて冷蔵庫にしまう。ごはんが炊ける頃には立派な浅漬けになっているはずだ。

 そのまま流れるような手つきで出汁を引く。昨晩から昆布を浸していた水を片手鍋で熱し、片手いっぱいに掴んだ鰹節をふわっと落とすと華やかな香りが台所中に広がった。

 

「あー、たまらん! ってね」

 

 引いた後の出汁がらも無駄にならないよう、醤油や味醂みりんと一緒にサッと煮る。そこに胡麻をぱらりと散らせば佃煮の出来上がりだ。

 続いて玉子焼き作りに取り掛かる。付け合わせの大根おろしを準備したら、溶いた卵に出汁と薄口醤油を軽快に混ぜ込む。出汁はたっぷり、砂糖は少しだけ、ふわふわ且つじゅわっとした出汁巻きが暁子のこだわりである。くるっくるっと手際良く巻かれた玉子焼きを平皿に移せば、それは楽しげにぷるんと揺れた。

 最後に味噌汁の準備だ。沸いた出汁に絹ごし豆腐と茗荷を入れ、豆腐が崩れないよう優しく煮る。

 

「味噌汁はぁ〜、煮立たせないのがミソなのよ〜ぉ」

 

 独特な節回しで歌いながら味噌を溶かし入れ、くるりとかき混ぜた所で炊飯器がタイムリミットを告げた。

 

「あら、盛り付けまで間に合わなかったわ」

 

 ほかほか炊き立てのご飯に出汁がらの佃煮を添え、味噌汁は漆塗りのお椀へ。胡瓜とプチトマトの浅漬けは涼し気な硝子皿に乗せる。暁子は2人分の朝食を盛り付けると、片方を仏壇に供えて手を合わせた。

 

「今日も見守っててね、トオルさん」

 

 遺影の中の夫は今日も優しく微笑んでいる。


 

 暁子の職場は自宅から徒歩18分、坂を上った先にある小学校の給食室である。暁子は所謂、給食のおばちゃんとして20年間働いてきたのだった。四十路を超えた暁子が"多少ぽっちゃり"な程度で済んでいるのは、毎朝の出勤とハードな調理業務のおかげかもしれない。

 早朝とはいえ30度近い気温の中歩くのは厭気が差す。やれやれ、と汗を拭いながら校門から通用口に向かうといつものように花壇を手入れする用務員のタカハシさんに出くわした。

 

「タカハシさん、おはようございまーす! 」

「おはよう、アキコさん。夏休みにこんなに早く来るの、アキコさんくらいだわ」

 

 そう、今日は8月10日、夏休みの真っ只中だ。

 子供達が夏休みを過ごしている間も勿論大人は働いている。とはいえ授業が無いと多少朝が遅くても仕事が終わるからゆったり出勤してくる先生も多いんだよね――とは、教員であった夫からの受け売りであるのだが。

 暁子たちのような調理員も例外では無い。給食室内の大掃除や物品の整理といった仕事はあるが、平日ほど早く出勤しなくても良い。6時半に来る牛乳屋さんのトラックに間に合うよう走る必要も無い。それでも暁子は平日と同じ時間に出勤してしまう。それが生活習慣なのか無駄なこだわりなのかは暁子自身にもよく分からないが、確実に言えるのは彼女がこの仕事と職場をなかなかに気に入っているということだ。

 

「ほんとアキコさんくらいなのよ、こんなに早いの。精が出るわねぇ」

 

 この台詞もこの夏だけでもう10回は言われたのではないだろうか。タカハシさんはいつも同じ話を繰り返す癖がある。そして暁子もいつも同じような台詞を返す。

 

「そんなこと言って、いつもタカハシさんだって私より早く来てるじゃないのよ」

「だってもう5時には目が覚める体になっちゃってるんだもの、お互い様でしょう?」

「そうそう、お互い歳をとると嫌ねぇ」

 

 暁子が冗談めかして言うと、彼女はわざとらしく肩を竦めて首を振りながら「ほんとに嫌ねぇ」とぼやき、緩々と花壇の手入れに戻っていくのであった。



 誰もいない給食室には、様々な機械のモーター音だけが響いている。窓から差し込む朝日が薄暗い室内をほんのりと明るませ、大きな機械達がそれに照らされて陰を落とす。普段の慌ただしい雰囲気と少し違った、どことなく寂寥せきりょう感のあるこの空気も暁子は嫌いではなかった。

 

 ――同僚達が来る前に冷蔵庫でも掃除しておこうか。

 

 そう思い立ち早々と白衣に着替え終えた暁子は、ぬるま湯で湿らせた布巾を片手に冷蔵庫たちと対峙した。給食室内には高さ2メートル程度の業務用冷蔵庫が並んでいる。

 暁子は上半身を冷蔵庫の中に突っ込むようにして内側を拭き始めた。中には調味料の瓶がいくつか入っている程度で大きな物を退かす必要も無いので、掃除は調子良く進んでゆく。夏の日差しで火照った体に、庫内のひんやりした空気が心地良かった。

 内壁、棚板、扉の裏側――ぼんやりと些末な考え事をしながら、ひとつひとつを丁寧に拭き上げていく。下段の奥の壁を拭こうと暁子はしゃがみ、冷蔵庫の床面に両の手ををついた。

 

 そして、全く何の前触れも無く突然には起こった。


 ゴォォォン――

 

 低く、鐘のような音が鳴る。それは遥か遠くから聞こえているようでもあり、耳の中から聞こえているようでもあった。しかし、暁子はその違和感に気を取られる事はなかった。いや、それどころでは無かったという方が正しいかもしれない。何故ならば、鐘の音と同時に突如辺りが暗闇に覆われたからである。

 暁子は動きを止める。自らの手も視認できない程の漆黒。この世から光というものの一切が消え失せたかのような、完全な闇であった。

 

「えっ……停電?」

 

 声に出して直ぐにそれがありえないことに気が付いてしまう。大きな窓から朝日が差し込む給食室では、例え停電が起きても部屋が薄暗くなる程度でしかない。

 他に可能性があるとすれば――冷蔵庫に閉じ込められている?

 そう考えてまた首を横に振る。それもありえない。奥行き60センチメートル程の冷蔵庫に四つん這いの成人女性がどうやってすっぽりと入れるだろうか? 仮に何らかの手違いで入ることができてしまったとしても、ひとりきりの給食室で誰が冷蔵庫の扉を閉めるというのだろう? 現に、彼女が扉を蹴り開けようとしても後ろに振った足は空を切るだけである。

 

「何が起きてるのよ……」

 

 理解しようのない現状に恐怖が襲ってくる。視界を奪われている状態がどうしようもなく不安を駆り立てる。一体、私はどうしてしまったのだろうか?

 

「助けて! 誰か! ねぇ、誰かいないの!」

 

 救いを求める声が虚しく響いた。

 叫びながら闇雲に手を伸ばした暁子はもう一つの絶望的な事実に気が付いてしまう。

 ――壁が、無い。

 正確には、前後左右にあるはずの冷蔵庫の壁に触れることができないのだ。暁子がどれだけ手を伸ばそうと、足を蹴り上げようと何にもぶつからない。頭上にあったはずの棚板も無くなってしまっている。暁子が触れられるのは冷たい感触の地面だけであった。

 もしかしたら両手を離している間に地面も消え失せてしまうかもしれない。

 そんな最悪な想像に身を震わせ、四つん這いの姿勢に戻った。恐怖が体を強ばらせ、身動きを封じる。

 

「誰か! 誰か!」

 

 どれほど声を上げても人の気配は無く、寧ろ外から聞こえてきていた筈の蝉の鳴き声や鳥のさえずりも聞こえない。愈々いよいよ何か自分の脳に異常があるのではないかと思えてくる。

 

「神様、どうか助けてください、神様……」

 

 暁子は目をつむり、四つん這いのままこうべを垂れて祈った。

 初詣でしか神社に立ち寄らないような人間の身勝手な祈りでも、神は聞いてくれるのだろうか。そう思っても今はただ、救いを乞い願う事しか暁子にはできなかった。


 

 結論から言うと、神は気紛れに一つの祝福と一つの試練を暁子に与えたようだった。

 

 カツン――

 

 祈り続ける暁子の耳に誰かの足音が聞こえた。パッと目を開くと、目蓋まぶたの中の暗闇に順応していた視界が光にぼやける。

 少しずつピントが合っていく。不規則に敷き詰められた石畳に自分の両手がついているのが真っ先に見えた。顔を上げると、大きな棚がある。棚には液体やら粉末やら見慣れぬ木の実やらが入った様々な瓶が並び、下の方には大きな樽が詰め込まれている。その隣の石煉瓦いしれんがの中に燃えさしの薪が転がっているあれは暖炉――いや。かまどだろうか。手を払いながら立ち上がると、目の前の棚が店のカウンターのようになっている事が分かった。棚の上が作業台になっておりその横に水の溜まった桶が置いてある。竈の横には無骨な鉄鍋と木でできた食器が積まれている。ステンレスに囲まれた給食室とは対極の景色に面食らい、辺りをキョロキョロと見渡した。

 そこでようやく暁子はカウンターの反対側に人影があるのに気付いた。そういえば誰かの足音で目を開けたのだという事を思い出す。

 

 それは背の高いすらっとした女性だった。褐色の肌に蜂蜜のような琥珀色の瞳、ウェーブのかかった炎のように紅い髪の先は、滑らかなくびれのある腰で揺れている。凛と上がった吊り眉、彫りの深い顔立ちはどう見ても日本人のそれではなかった。そこまで観察したところで、その女性がどうやらずっとこちらを見据えていたらしい事に気付く。

 

「は、ハロー……? は、ハウアーユー?」

 

 酷く頓珍漢な事を言った、と自省した瞬間、ごうと女性が火を噴いた。

 そう、言葉の綾ではない。間違いなく火を噴いたのである。

 炎が頭上を掠める。給食帽の上端がチリチリと焦げる臭いと、顔に感じた熱さが異様に生々しく感じられた。

 膝が笑い、その場にへたり込む。力の入らない足で後退あとずさろうとするが、背には木の樽が並んだ棚があるのみで逃げ道は無い。

 そして目の前にいた筈の女性は紅い鱗のドラゴンへと姿を変え、怒りに満ちた瞳で暁子を睨みつけていた。

 

 くして、暁子はこの上なくファンタジックな異世界へと足を踏み入れてしまったのである。


 

 【続く】



 〜今日の献立〜

 白飯

 茗荷の味噌汁

 出汁巻き玉子

 胡瓜とプチトマトの浅漬け

 出汁がらの佃煮

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