第34話
肺に取り込む空気が熱い、身体がいつもより重たく感じてしまう。
過去に一度も戦った事のないDランクの放つ圧は、それだけでこちらの心身に大きな負荷を掛けてくる。
オリビアの殺意に比べれば、それは児戯みたいなもの。絶対的な相違点は敵が本気で殺しに来る事だった。
……落ち着け、気持ちで負けてしまってはいけない。
覚悟を決めたはずなのに、こうして実際に戦いが始まってしまうとやはり違うと思い知らされる。
先程から炎剣が振るわれる度に、自分は怖気づいて避けることしかしていない。
戦いに勝つには攻撃を避けた後に反撃に転じないといけないのだが、
『GRAAAAAAAAAAAAッ!』
少しでも前に進むと、敵は下位の者を怯ませる
これの対策法は一つしかなく、オマエなんか怖くないという強い意思を持たなければいけない。
どうしたものか悩んだ末に、自分が考えついたのは──聖女様に嫌われてしまう光景だった。
ごふっ!?
いかん、吐血しそうになった。
絶対に有り得ないとは言わないが、あの清楚が擬人化したような彼女に嫌われるのは、想像するだけでも死にたくなるし心臓に多大な負担が掛かる。
効果があるかどうかは半々くらいだったが、この思い付きは無事に敵の
「行くぞ!」
気を取り直し、右斜上からの斬撃そこから跳ね上がってくる追撃を抜けて前進する。
咆哮が叩きつけられるが、聖女パワーを借りて突破した自分は手にした黒剣を敵のすねに叩き込む。
──浅い。
切った手応えはあったが、Dランク以上が有する自己再生機能が働き、即座に傷口が塞がってしまう。
剣を振り上げる動作を見た俺は、この間合いに長居するのは不味いと判断し即時離脱を試みる。
下がる自分に向かって、炎獣は上段から勢いよく炎剣を振り下ろしてくる。
視界いっぱいに迫る炎剣に恐怖し、防御せずに横に跳んで回避。すると真横の地面が爆発したかのように砕け散って、破片を周囲にまき散らした。
……恐ろしい、なんて筋力値だ。まともに受けたら黒剣は無事でも、生身の部分が潰されてミンチになってしまう。
当然だが総合的なステータスは、こちらが負けている。
巨大で強靭な肉体に備わった殴るだけでも下級狩人には必殺と成り得る筋力、そこに速度も合わさって繰り出される炎獣の台風のような連続攻撃には全く隙が無い。どれも今まで戦ってきた敵の中でも段違いだった。
知ってはいたが、これがDランクにカテゴライズされる怪物なのかと、額から冷や汗が流れ落ちる。
炎剣から発生する炎の斬撃波を避けながら、俺は思考を巡らせる。
負けるイメージを持ってはいけない。ステータス差を覆すためにも、俺が奴に勝っているのを考えろ。
筋力値、強靭値──これは絶対に勝てない。
着目すべきは敵の図体がデカい事。ならば敏捷値と小回りがきくのを最大限に活かし、速度で常に上回れば良い。
敵の攻撃は一つ一つが必殺の領域、唯一の救いは辛うじて反応でき、回避することができる事だった。
体格差と小回りの利く素早い身のこなしで、右に左に振るわれる炎剣をヒヤッとしながら紙一重で回避する。
手にした黒剣で四肢に斬撃を加えて離脱するが、イマイチ踏み込みが浅く敵の太い手足を切断するまでには至らない。
半ばまで刃を通しても、回復されてしまうから追撃するチャンスにも繋がらない。
炎獣の圧に押されてしまっている自分を、心の中で強く
こんな逃げ腰ではダメだ。あと一歩か二歩、更に敵に向かって踏み込む必要がある。
黒衣と黒剣だけで、今までの様に勝利を収める事は極めて難しい。
他に自分にあるものは何だ。
炎獣〈ラーヴァ・ベヒーモス〉を見て、時間を置いて頭を冷やす事で、今まで忘れてしまっていた最大のアドバンテージを思い出した。
そうだ。これがあるではないか。
聖女様と並ぶために戦うと決めて舞い上がって一番の強みを忘れるとは、なんて馬鹿なんだろう。
自分の頭の中には、半年間ずっと図書館に通い詰めた、過去多くの狩人達が調べ上げたモンスター達の行動パターンが全て入っている。
これらをフル活用すれば、分の悪い戦いも五分にまで引き上げることができるはずだ。
「……ほんと、この舞台を考えた奴は頭が可笑しいな」
奴と戦う事を想定していない下級狩人なんて、何も分からずに炎剣で切り裂かれ焼き尽くされる。
仕組んだ犯人の狙いは、普通に考えるのならば自分の命を狙っていると推測できる。何故なら余りにも殺意が高すぎるから。
上段からの振り下ろし、下段からの振り上げ、左右からの薙ぎ払い。巨体から繰り出される攻撃の威圧感は凄く、一つ一つに対応するだけでも精神力と体力が削られてしまう。
遂に連続攻撃を避けきれなくなった俺は、仕方なく敵の炎剣を半ばから切断した。
でも武器を破壊したからと言って、無謀な突撃をする事はできない。
霧散した炎は消えずに、巻き戻し再生をしたかのように再度集まり出し再び剣の形を形成した。
どれだけ叩き切っても通常のモンスターが所持する武器と違い、元通りに復元される炎剣は厄介なこと極まりない。
身体に掛かる負荷も考えるならば、黒剣を振るう回数も考えなければいけなかった。
負の魔力による負担は、自分の中に確実に蓄積されている。これが限界に達したらゲームオーバーだ。
この数日力の制御を行ってきた事で、身体の中に
溜まっていく淀みは確実に心身を
今回は特訓の時と違い休む事はできないし、聖女様の浄化を受けることすらできない。
長期戦は不利、もしも長引けば先に動けなくなるのは此方だ。
──つまり今回の戦いに関しても、格上を相手に短期決戦で行かねばならない。
もっと全身の神経を集中させろ。目の前にいる敵の事だけを考えろ。脇目を振るのは死だと思え。
相手は本来ならば逆立ちをしても勝てない相手、一つの判断ミスが敗北に直結する怪物。
いかなる時も頭は冷静に、敵の
『GAAAAAAAAA!』
舐めているのか、大きく振りかぶり真っ向から炎剣が真っ二つにせんと迫って来る。
敵の踏み込む足は左、ならば追撃のしにくい右斜め前に進路を変更した。
先程までいた地面に巨大な斬撃を刻んだ〈ラーヴァ・ベヒーモス〉は、腕の
予想していた攻撃を前に、胴体を両断しに来た一撃を今度は、地面すれすれのスライディングで潜り抜ける。
「オオォッ!」
苦労してようやく、自身の刃を全力で振るうことができる間合いまで接近することができた。
剣を横に構え、左脇腹に向かって右から左に大きな斬撃を叩き込む。
大量の血しぶきが出るが、やはり敵の動きは止まらない。
魔力を消費して大量の出血が止まり、即座に丸太のような足で鋭い蹴りを放ってきた。
痛覚を無視するな、と悪態を吐きながら回避は難しいと判断し、とっさに両手でガードする。
敵の高い筋力値によって踏ん張る事ができず、そのまま遠くまで蹴り飛ばされてしまった。
両腕が痺れる。黒衣を纏っていなかったら、防御した腕ごと上半身の骨が全て砕かれていたかも知れない衝撃だった。
「ぐう……っ」
姿勢を制御して不格好に着地した俺に、炎獣は間髪入れずに炎剣をまるで槍のように投擲してきた。
──アレは炎獣の行動パターンの一つ、生成した槍を対象の獲物が死滅するまで投げ続ける〈
高い筋力値によって放たれた槍は、あっという間に距離を詰めてくる。
回避は難しい、とっさに剣を横薙ぎに振るって炎槍を切り払った。
知識の中にある通り、攻撃は一回では終わらない。続けて二回、三回と槍が次々に放たれてくる。
視界を埋め尽くす炎槍に、俺は雄叫びを上げながら立ち向かった。
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