愚かな聖女の物語

杵島 灯

第1話 聖女と侍女、そして英雄


 その国の神は、いつもただ一人の女性だけを愛した。


 どうして一人だけしか愛さないのか、どういった基準で愛する人を決めるのか、なぜ女性だけなのか。神ならぬ人に窺い知るすべはない。

 分かっているのはただ、神に愛された女性が存在するという事実。そして、神に愛された女性は神から万能の能力をあたえられるということ。


 その女性が神に愛された印――両の手のひらに浮き出た星型の痣を組み合わせて祈ると、すべての願いが叶えられる。

 さらに痣を人に向けてかざすと、相手が抱えている望みを感じ取ることすらできた。


 神に愛された女性はほとんどが慈愛に満ちた人物であり、己の特別な力で人々の望みを叶えることを至上の望みとしていた。故に人々は彼女たちを「聖女」と呼び、敬った。


 国も聖女を手厚く保護した。

 日々の暮らしに煩わされることなく民の望みを叶えられるようにと、宮殿を用意し、何不自由なく暮らせるだけの財産を与え、使用人を侍らせた。

 聖女は宮殿で暮らしながら、訪れた人々の望みを叶え、感謝と栄誉を得て、国中を幸せで満たしていた。


 だが残念なことに、聖女の全員が最期まで高潔なままでいられるわけではなかった。あまりに万能の力を持つために己が神であると錯覚してしまい、人である事実を忘れてしまう者も出るのだ。


 道を踏み外した聖女は万能の力におごって民を虐げ、権力をほしいままにする。

 今代こんだいの聖女、ルシエラはそんな『愚かな聖女』だった。


 ルシエラの悪辣ぶりに対抗するものの、神の力を行使する彼女の前に人々は苦戦を強いられる。

 しかし現れた一人の英雄の下、ようやく人々は活路を見いだした。


 守りの力で聖女の妨害を跳ねのけた英雄はついに宮殿へと乗り込んだ。

 『愚かな聖女』ルシエラの命は風前の灯火だった。



   *   *   *



 聖女の宮殿の中ほど。

 さんさんと光が降り注ぐ聖堂は、以前ならば願いを叶えてもらう大勢の人が列をなしていたのだが、今はたった二人しかいない。


「そろそろのようね」


 虚空を見つめてルシエラが呟くと、すぐ傍でもう一人の声がする。


「あとどれくらいなのですか、ルシエラ様」

「そうね。あなたの淹れてくれるお茶が完全に冷めてしまうより、ずっとずっと短い時間だわ。メリッサ」

「……本当にこれで良いのですか」

「いいのよ。だって私には皆の望みが分かるのだもの」


 ルシエラは民を虐げて権力をほしいままにする『愚かな聖女』。

 だが、そんな日々は長くは続かない。民と、民の先頭に立つ英雄によって討たれる。


 万能の力など持たなくてもいい。

 人々が手を取り合えば神に愛された聖女にだって決して負けることは無い。

 ルシエラの死こそがその証拠だ。


 くす、とルシエラは笑う。


 聖女とは幾万の人の中からたった一人、神に選ばれた特別な存在。人々はその僥倖ぎょうこうを、容姿の美しさを、心根の良さを、たたえてあがたてまつる。


 だが実は誰もが密かに心の底で不満に思っている。

 なぜ自分が特別になれなかったのか。

 なぜ神々に愛されたのが、この女だったのか、と。


 だからこそ人々は特別な存在である聖女が高潔であることを願う一方で、特別さを過信して力に溺れ、堕落して不幸になれば良いと思っている。人々の望みが分かるルシエラはそれを知っていた。


 おごった聖女が出たのは今から300年前。

 民はそろそろ『茶番』を欲している。


 ルシエラが民に対し、恩恵ではなく恐怖を与え始めたのは昨年のこと。

 怒りを爆発させた民が「英雄」と呼ぶ男の下で蜂起したのは3か月前のことだった。


「私の死は、民の望み。私は民のため死ななくてはいけないの」


 ルシエラの呟きに答えは無かった。


 もうじき英雄がこの聖堂に来てルシエラを討つ。

 もちろんルシエラはきちんと討たれる。

 それが民の望みなのだから。


 聖女ルシエラの人生は22年で終わる。


 死は怖くない。

 いや、本当は怖いのかもしれないが、ルシエラには怖くない理由があった。


「メリッサ」


 名を呼んで、ルシエラは己の侍女へ向き直った。


 艶やかな長い黒髪を結った同い年のメリッサは、こんな時でも侍女のための黒い衣装だ。

 まだ未来もあるのだから外へ逃げるために町娘の格好をしたほうがいい、とルシエラは何度も言ったのだが、メリッサは頑なに首を横に振った。


「私はルシエラ様のものです」


 彼女がそう言い切ることは分かっていた。


 この侍女は10年前、願いを叶えてもらう人々の列の中にいた。彼女を見た途端、ルシエラは彼女から目が離せなくなった。どうしても彼女を傍に置きたいと思った。


「神よ、私の願いをお聞き届けください」


 ルシエラは神に願った。

 たった一度、己の欲を叶えるために。

 おかげでメリッサはこんな時でも横にいてくれる。


 彼女の名を呼ぶたび、そして答えがあるたび、ルシエラは広くて狭いこの宮殿の中で幸せを感じることができた。

 それは、今も。

 ルシエラが死を間近にしても恐怖を感じずにいられるのはメリッサのおかげだ。


「メリッサ。私と一緒にいてくれてありがとう」

「当然です、ルシエラ様。私はあなたの傍近くにお仕えする者なのですから」


 メリッサが微笑む。彼女の瞳は美しい青だ。いつもは空の色のようだと思っていたが、涙をいっぱいにためている今、彼女の瞳は森深くにある湖のようだとルシエラは思う。生まれてすぐ宮殿へ連れてこられてから外へ出たことの無いルシエラは、そんな光景を絵でしかみたことがないのだけれど。


「さあ、メリッサ。もうこの関係は終わりよ」


 実を言えば最期まで傍にいて欲しい。だがこのままでは、メリッサも英雄との戦闘に巻き込まれてしまう。彼女のことを考えるのならば今ここで解放するべきだ。

 未練を断ち切るようにして目を閉じ、両の手を合わせてルシエラは神に祈りを捧げる。


 ――メリッサが私から解放され、己の思いのままに行けますように。


「……さようなら。私の愛しいメリッサ」



   *   *   *



 扉の方へ歩んでいくルシエラの後ろ姿を、メリッサはじっと見ていた。


 ルシエラに仕えていた者たちはとうにいない。

 1年前にルシエラが変貌して以降、少しずつ使用人は去って行き、先月からこの広い宮殿には二人きりとなっていた。


 束の間ではあったが、二人だけで過ごすこの時間がメリッサにとってどれだけ幸せだったか。ルシエラにはきっと分からないだろう。


 聖女ルシエラ。

 後の世には「民を虐げ、権力をほしいままにする『愚かな聖女』」として語り継がれるはずの女性。


 引き結んだ唇を開き、メリッサは呟く。


「……なんて悲しい運命……」


 万能の力を持ちながらも、ルシエラは使というのに。


 メリッサの目に映る後ろ姿は、広い空間に降り注ぐ光に照らされて、こんな時でさえ見惚れるほどに美しい。


 歩くたびに揺れる長い黄金の髪を、今日この日、最後にくしけずったのはメリッサだ。

 華奢な体に良く合う白の衣装を最後に着せつけたのもメリッサ。

 先ほど別れの言葉を述べた唇へ最後にべにを引いたのもメリッサ。


 ――では、最後に彼女を彩らせるのは誰?


 メリッサは懐から短剣を取り出す。鞘をその場に捨てると、ルシエラの後ろ姿を追って短い距離を駆けた。


 このあと、ルシエラは聖堂に来た英雄と相まみえる。


 英雄は聖女を倒しに来た。もちろんルシエラはそれを分かっている。聖女は最期に英雄と対峙し、抵抗らしい抵抗をしないまま胸を刺し貫かれるのだ。彼を真の英雄と呼ばせるために。民の、英雄の、望みを叶えるために。

 床に倒れ伏す聖女と、見下ろす英雄。二人の幻を見たような気がして、メリッサは悲鳴をかみ殺す。――まだ、大丈夫。まだ、間に合う。


「ルシエラ様!」


 振り返った緑の瞳が自分の姿を映した。メリッサは短剣を自分の首に押し当てて引く。体から勢いよく吹きだすものは、ずっと秘めていた自分の想いのような気がした。

 辺り一帯を赤く染めるメリッサを見て、大きく目を開いたルシエラが何かを言いかける。それより早くメリッサは血に濡れた短剣をルシエラの胸に突き立て、引き抜いた。力の抜けていく体を抱きしめながらメリッサも膝をつく。聖女の体をまるで物のように床に転がしたりしない。メリッサはルシエラの侍女だ。死がルシエラの運命だというのなら、メリッサは共にはべる。


 これで、最後に一緒に居るのが無遠慮に入り込んできたやからではなくなった。満ち足りた気分で微笑み、メリッサは聖女の耳元で囁く。


「あいして、います。ルシエラ」


 12歳の時、運よく『聖女に望みを述べる者』として選ばれたメリッサは、今居るこの聖堂でルシエラの姿を目にした途端に心奪われた。

 いったい何を望んでここへ来たのか。今となってはもう思い出せない。メリッサは激しい思いのままに、新たな望みだけを強く願ったのだ。


(どうか、私に恋をして)


 望みは叶えられた。おかげでメリッサは10年の間、愛しいルシエラの近くに居続けることができた。

 つまるところ恋をしたのはメリッサであり、ルシエラの思いはただの“まやかし”でしかない。


 だからこそメリッサの心には不安もあった。ルシエラは自身の思いが真実ではないと気づいただろうか。そして、英雄に討たれる計画を台無しにされたことに対して何を思っているのか。ルシエラは今どんな顔をしているのだろう。怒っているのか。それとも泣いているのか。

 ルシエラを抱きしめているメリッサは、大事な聖女の顔が見えない。いや、例え見える位置にあったとしても、メリッサの視界はもう暗くなってしまって何も見ることができない。


 心の中で「ごめんなさい」と呟いたその時だった。

 メリッサは自分の背に柔らかい腕が回されるのを感じた。


 嫌がるわけでもなく、押しのけるでもなく。

 聖女の本質である「慈愛」を体現するかのように、メリッサを優しく抱きしめてくれる腕を。


 頬を伝う涙と共に、メリッサの心の闇が消えてゆく。


 ――これでもう、なんの憂いもない。



   *   *   *



 剣を握りしめて聖堂の扉を開けた英雄は、酷い臭いにまず顔をしかめ、次に予想もしなかった状況を目にして動きを止めた。


 吐き出される臭いの原因となっているのはおびただしい量の血。周囲の椅子や、机や、床を赤くして、更に廊下の方へと近寄ってくる。

 しかし英雄の目を奪ったのはその凄惨な光景ではない。只中ただなかにいる二人の娘の姿だった。


 一人は誰だか分からないが、一人は忌むべき『愚かな聖女』だ。分かっている。分かっていてすらなお、英雄は彼女たちから目が離せない。


 髪も、顔も、体も、服も。すべてを真っ赤にした二人は、共に無上の喜びに巡り合ったかのような笑みを浮かべ、座って抱き合ったまま事切れている。

 天からの光に照らされたその姿は、あまりに神聖で、あまりに荘厳で、胸を打つほど美しい。


 立ち尽くす英雄の手から剣が滑り落ちる。足元で無粋な音を立てた鋼の輝く刃を、流れ寄る血が偽りの栄光の色に少しずつ染めていった。

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