第66話 氷の根城

 舟を裏返し乗り込むと、寒さが二人を襲った。濡れた肌が焼けるようにヒリヒリとする。濡れた衣服をいつまでも纏っているのは危険だが、それよりも陸地にたどり着く方が先だ。オールはセラが漕いで、トニヤは蒼い唇で小刻みに呼吸しガクガクと震えながら手のひらをこすり合わせた。


 氷の陸地が近づくと人の集団が見えた。ずいぶん多い、二十名ほどだろうか。分厚い毛皮の衣を纏い、槍を持ち。男ばかりでなく女性や子供もいる。極地に暮らす呪術を操る民族とはやはり彼らがヴーアなのか。


 セラはかじかむ手を懸命に動かした。小舟を湖岸に接岸させて氷上に降り立ち、震えるトニヤに寄り添う。服が氷風で凍りついてゆく。一人の老人が厳粛な面持ちで進み出た。


「貴様同族であるな」


 寒さで焼け付いたような掠れ声は威嚇と糾弾を含んでいた。


「あんたたちがヴーアか」

「いかにもヴーアだ」


 老人の目には厳しさが宿っている。荒い語尾から悟るに、少なくとも歓迎はされていないのだろう。


「たどりついてしまったものは仕方がない。ついて参れ」


 ヴーアは物々しい様子でセラとトニヤを取り囲んだ。




 ヴーアの住居は氷河の中にあった。岩の洞窟から入り、暫くするとそれが氷河の下に繋がった。高い氷の壁は磨かれたガラスのような透明度を誇り、宝石のように煌びやかで、ぞろぞろと歩く隊列を反射させる。トニヤがそれを好奇心のままに感銘の声を上げながら眺めていた。


 自身もとても面白い場所であるとは思ったけれど今は楽しさに心が働かない。氷の階段を降りながら、セラは衣服から覗く人々の首筋や腕をじっと見つめた。自分と同じ文様が刻まれている。やはり同族なのだ、と迫る感情が湧いてきた。


 居住区に入ると衣服を提供され、震えながら着替えた。温かい綿に心が落ち着く。トニヤは「すべすべしていて気持ちいいね」などと感動していたが、セラは自分のことで頭がいっぱいだった。問いただしたいこと、知るべきことが待っている。


(早くオレを教えろ)


 衣服を整えると隣の広間で待つ彼らの元へと向かった。


「さっき、オーロラを下ろしたな。我らの水魚を退けるほどの力。並大抵の者でないことは分かった。あれはどちらの仕業だ」

「オレだ」


 セラは胸に手を当てた。


「なぜこの地を訪れた。ここはヴーアの民族以外立ち入ることを許されぬ聖域だ」

「我らの水魚と言ったな。あの魚はお前たちが作り出したものか」

「左様。あれは水を魚に象り、這わせた魔物だ。我々もお前同様力を使う」


「力の正体は何だ。精霊と人間の混血児になぜあのような力が宿る」

「聞いているのは我々だ。なぜ、この地を訪れた!」


 老人の怒鳴り声の後、沈黙が落ちる。トニヤがその沈黙を破るように声を上げた。


「精霊王に呼ばれたんです」

「!」


 そういってセラの袖を捲った。大きく成長した文様は手首にまで達していた。


「セラは精霊王の息子で、その父さんに呼ばれて。でも、継いだりそうしたりするつもりはなくて。話がしたいだけで」


 セラは支離滅裂な言葉に吐息する。


「それじゃ分からないだろう」


 そういって制すると服を脱いだ。寒さは感じていたが、見せねば理解はしてもらえないと思った。

 文様を見た人々の間にざわめきが広がる。老人もまた震える手を伸ばし、動揺した様子で頭を抱えた。


「おお、なんということ。その文様は……もっと、もっとよく見せてくださらんか」


 老人の灰色の瞳が偉大な何かに気押されて揺れた。信じられぬものを見るような目つきでセラを見上げている。


「あなた様は、あなた様は」


 涙を累々と流し、明らかな動揺をしている。これまでの憤然としていた態度が一変した。セラは不快に思って唇を引き結ぶ。盛大な歓迎をした後でのこの振る舞いは如何なものか。


 皮肉をいおうと思った時、そこにいたすべての人物が平伏した。


「えっ、えっ」


 トニヤがうろたえる。

 老人は静かに地に言葉を落とした。


「生まれた時よりのご無礼をお許しください」


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