第67話 ヴーアの誓い

 状況を理解出来ない二人に老人は神妙な顔で古い記憶を語り始めた。

 この地が聖域とされるのはその昔、慈愛の神ラーフが精霊の血を播いてそれが芽吹き、数多の源となる精霊王が誕生したことに由来する。精霊王の血は星の地下を巡り、奔流となって大地を駆け抜けた。血はその土地の自然や魂と結びつき多くの精霊を産んだ。この地はいわば世界の始まりの場所、元来精霊が守ってきたものだった。


 そしてヴーアというのは元々、北方の寒冷地に住み着く狩猟民族のことを差し、精霊信仰とは関係のないものだった。


 ある時厳しい冬が訪れて、一部のヴーアがそれから逃れるようにこの地へと足を踏み入れた。戸惑ったのはこの地を守る精霊たちだ。何とか精霊王に近づけまいと人間を追い出すよう奮闘していたが、関わり合っていくうちに、ヴーアの自然を崇拝する心に打たれ次第に受け入れるようになった。


 ヴーアはとても心優しい民族だった。やがて共に暮らすうちにヴーアと精霊が混じり、多くの混血児が誕生した。


 精霊と混血児は手を取り合い、共に新たなる『ヴーア』として邪悪な物からこの地を守り続けた。やがて、寿命の短い純血の祖先は消えて、混血児の末裔と精霊だけが残り、ヴーアはこの地を守る王の民となった。


 時は流れ精霊王の力の焼失と共に精霊もまた姿を消し、寿命の長い混血児だけが残されてヴーアとしてこの地に残った。


 世界各地にはまだ精霊王の生き血が巡っている。だが、供給源が途絶えた今、それが消失するのも時間の問題だ。いずれ精霊は世界から姿を消す。無念な顔で老人はそう呟いた。


 セラは話を聞き終えたが疑問だらけだった。


「ヴーアはどうしてまだこの地に残るのか。このような厳しい環境に居続ける必要はないだろう。守る物が無い以上、この地に暮らす理由などないのではないか」


 老人は射抜くような目でセラを見つめた。叛意を向けるというのだろうか。


「きっとセラと同じなんだよ」


 トニヤの静かな言葉を噛み締めた。森で生きるのに苦慮した自分自身の生とヴーアの生はきっと同じなのだろう。不思議な力を持ったヴーアは普通の人間には受け入れられない。ヴーアはこの地でしか生きていけない。


「それは違う」


 トニヤの尤もらしい推論を老人が力強く遮った。



――ヴーアは今でも精霊王を守っている。



 老人は厳かな様子で、立ち上がるとついて来るよう招いた。二人立ち上がるが老人はそれを拒む。


「そなたは来ずともよい」

「大事な弟なんだ」


 そういって庇うと不承不承で老人は納得した。


 細長い氷の廊下を進み、さらに階段を降りて、人気のない所へと向かって行く。一人で帰れと言われても到底無理な程入り組んでいた。


「ここって大陸のどの辺りなんだろうね」

「案ずるな、そこまで深くはない」


 老人の言葉に好奇心旺盛なトニヤはへええ、と返事した。


 光が厚い氷の天井から差しこみ乱反射してとても美しい。吐息は白く、とても冷たいのにそれを忘れそうになるほど心酔する。ここは長い時間をかけてヴーアの人々が作り上げてきた氷の世界なのだ。


 歩き続けて奥のひと際高い天井の広い空間に出てセラは息を飲んだ。

 これまで抱いてきたすべての哀楽を捻りつぶされ言葉を失う。


 巨大な心臓が凍りついていた。


 導きようのない虚無が押し寄せる。どれほど彼は孤独だったのだろう。説明されなくてもその正体が分かってしまった。泣きたい気持ちを噛み締めて表層の氷に静かに触れた。氷が微かに揺れている。


 心臓が血を押し上げるようにゆっくりと大きく一回波打った。まだ死んではいないのだ。


 老人は背後で頭を下げると静かにいった。


「精霊王様です。あなたのお父様です」


 セラはやはり、とその全景を見上げた。老人が申し訳なさそうに目を瞑った。


「王とは話せないのか」


 美しいガラス細工のような巨魁に視線を這わせる。この声も聞こえているのかも良く分からない。


「不思議なことを仰る。氷が見えないわけではないでしょう。今、王は魂の冬にこもられておいでなのです」

「オレはイリディグアの滝で少し話した。アレすら幻だったというのか」


 問いかけると老人は難しい顔をした。


「奇怪なことを仰る。まるでレティスのよう。あなたのお母様も氷った王と秘密裏に話して懐妊した」

「レティス? それが母の名なのか」

「母までも知らぬと仰るか。どのような生を歩んだか知らぬが、困難の多き生であったことでしょう。罪滅ぼしにもならんが、老害の懺悔を聞いて下さるか」


 老人は静かに目を閉じた。

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