10章 ヴーア

第64話 死せる森

 死の横たわる森を二人歩く。この地にはわずかな陽光しか差さず、一日中明るい夜のような状態が続いて、空に星はなく、代わりに巨大なオーロラがはためいている。セラとトニヤの二人の兄弟は上等な生地のように優雅で絢爛な光景を食い入るように見上げながら歩いた。


「すごいところだよね。極地って」

「そうだな」


 こんな異様な空の下で過ごしている人々がいるのだと思うとそれもまたいい尽くしがたい気持ちになった。


 ヴーア、彼らはいったいどのような氏族なのだろうか。精霊と人との混血児の一族で、自分と同じ力を持つ人々が今もこの地に暮らしている。


 精霊の姿は周囲を見渡しても一つも見えない。枯れた地に留まり続けるとは考えにくく、きっと安住の地を求めて去ったのだろう。あるいは枯れゆく森と共に姿を消したのか。


 精霊王は経脈の力が衰えていると示唆していたが、それを疑う気持ちはもはやなかった。セラも実際に肌で感じている。極地に近づいているのに、まるでその勢いが感じられないのだ。脳裏に、ところどころで鬱血してそれが浅黒く変色した病を思い浮かべた。精霊の見捨てた地に植物は育たない、死の運命をたどりゆくのだと思うとうら寂しい気持ちになった。


「あんまり信じたくはないけどさ。精霊がいなくなった土地は枯れるって言葉、嘘じゃないんだって思えるんだ」


 トニヤの目にもこの森の窮状は映っている。もはや他人事のように思えないのかもしれない。


「命の森とそっくりなんだ」


 小さな呟きが胸を突いた。

 やがて世界は皆、浅黒く変わっていく。精霊が去ったこの地のように。でもそれは自身とは関係のないこと。決して関係のないこと。


(本当にそうか?)


 セラの心にあったのは大きな戸惑いだった。大きすぎる実情に気押されていた。


「あのね、でもセラ。たぶん何か解決する良い方法があるんだと思うよ」

「方法?」


「精霊王はさ、孤独だっていったんでしょう。だからそうじゃないんだよ。大丈夫だよ、大丈夫だよって伝えてあげるんだ。そしたらもう寂しいなんて思わなくなるんじゃないかな」

「そんな単純な問題かな」

「きっとそうだよ。愛が得られないときって誰しもそうさ」


 トニヤの瞳には極光のオーロラが輝いている。あどけない瞳には世界が自身よりもはるか数十倍輝いて見えているのだと思うと肩の荷が下りた気持ちになった。トニヤの言葉には相手を安心させる魔法の力があるのだ。


「何とかしようね」

「ありがとう」


 セラもまた空を見上げた。悲観することはない。物事の解決方法はいくらでもそばで微笑んでいるものだ。




 二人は二時間かけて湖畔に着き、生き物の全くいない湖面を覗き込んだ。そのエメラルド色を湛えた湖は海かと錯覚するほど広く、鏡のようにまっ平らで波はなく無音。二人はただその光景に威圧された。


 湖畔には小舟が三艘あった。イーリスのいっていたものだ。ここがウェストフラムの北端、これより極地に入る。緊張感を持って、オールを漕ごうとするとトニヤが「ボクが漕ぐ」といって奪った。


 セラはトニヤの漕ぐ小舟に揺られながら考えていた。このような地を見てもまだ、自分に関係がないことといえるのだろうか。こうした景色はいずれ世界を覆う。魚の住んでいない湖も、枯れ落ちた森も、鳥のいなくなった空も他人事ではない。人はそんな地で生きられるというのだろうか。


 セラにはすでに大切な人がいる。目の前のトニヤも、森にいる母も、船旅の仲間、ステラの恩師も。そうしたことと切り離せる問題なのか。


 すらりと伸びたオールは水を掻く。さあっと水が横滑りする静かな音がしている。


「何か怖いね、ここ」


 トニヤもまた異様な気配を感じ取ったのだろう、不安げにこぼした。静かな場所というのはどこにもでも存在するが、この湖は静かではなく死んでいる。湖底に漂う生命の残骸を感じていたが、それをトニヤに伝えることなど出来ない。


「でも、さ。なんかこうしてると思い出さない?」


 トニヤは沈んだ空気を温めるように、明るい調子で歌を口ずさんだ。


「さあ、舟を漕いでどこまでもゆこおう、海はもうすぐだあ。いざ進めえ」


 懐かしさがあふれる。幼い頃、父と舟漕ぎごっこをしてよく歌った、絵本の中に出てくるあの歌だ。曲調などは自分たちで勝手にこしらえたものだった。


「あの頃は海って良く分かんなかったよね」

「そうだな」


 セラは口元を少し緩めた。

 トニヤは海を越えてセラに会いに来てくれた。セラはその気持ちが言葉に出来ぬ程嬉しかった。旅は大変だっただろう。分からぬことばかりだっただろう。トニヤは旅の苦労を語らなかったけれど、それはもう大きくなった背中で分かることだった。


 自分を必要としてくれる人がこうしているのに真理を求めるのがどれほど愚かなことか。もしかしたらそれは自分を愛してくれているものの気持ちを蔑にする行為なのかもしれない。でも知りたい、世界を余す所なく知りたい。その正直な気持ちを吐露するとトニヤは「当然だよ」と笑った。


「精霊だって姿消してるんでしょう、皆本当は森が枯れて不安なんだよ」

「トニヤも不安なのか」


「ちょっとね。色々本当は考えてるんだ。悲観する必要はないって思ってるよ。でも、もしも。もしも最悪、本当に精霊王のいうようになってしまったらって。こういうのって可能性だよね」


 怖いことを考えてしまうのは誰しも同じなのだ。それが例えトニヤでも。セラは一拍置いた。


「精霊がいなくなった世界のことを少し考えてたんだ」

「うん」

「人はさ、いなくてもある程度自活していける。それは精霊王も語ってた」

「うん」


「でも、長い目で見ると精霊のいない世界ってのはとても不安げで、永続していけるか議論するのはとても難しいことなんだ」

「でも出来ない訳ではないでしょう」

「そうだな」

「だったら難しい感情は手放して笑って。だってセラは世界の幸せを考えているんでしょう」


 トニヤの言葉に心が解けた。世界の幸せを思うものが、幸せを体現出来なくてどうする。豊かな心で望まねばきっとその価値も永遠に分からないと教えてくれているのだ。

 彼の良さはそういうことを感覚で学んでいくところなのだろう。


「ねえ、セラ」

「何」

「もしも、もしもだよ。本物の精霊王に会ったらだよ」


「うん」

「会ってやっぱりここ違うなって思ったらだよ」


「うん」

「……母さんとまた三人で一緒に暮らしたい」


 セラは目を丸くした。トニヤが真っ直ぐにセラを見ている。おそらく本心から出た言葉だ。昨日からいう機会を探っていたのだろう。とても真剣な眼差しをしていた。

セラはふっと笑んで頷く。


「いいよ。オレもそうしたい」


 森を出て以降、浮き立っていた足元が初めて着地した気がした。どんなに世界を巡ろうとも新しい世界を知ろうとも、やはりセラにとっては二人の元が自分の在るべき場所なのだろう。


「森を出て皆でステラで暮らそうか」


 トニヤが元気にオールを漕ぎながら笑った。


「とてもいい町だと思うんだ」


 そう思うのは町の薄暗いところを知らないから。でも、それには言及しない。知り合いもある程度出来たし確かに悪くない。金さえあれば暮らしよい町だ。


「セラは占いやって、母さんはパン焼いて、ボクは料理人」

「料理人」


 セラは思わず噴き出す。思えばトニヤの夢は小さな頃からたくさんあった。


「スタックリドリー先生に会ったご飯屋さんでね……」


 どうやら、上手い料理に感動したのだろう。感化されやすいのは相変わらずだ。

そんなことを想像して微笑んだ時に、トニヤの話声が急に遠のいて行った。代わりに威圧するような言葉の渦が湧きおこる。



――帰れ、カエレ、代えれ、返れ、孵れ、還れ、変えれ!


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