第59話 夢
暗闇に男がいた。
腰まで届く青緑の長髪と血の通っていないような肌をした虚無を抱えた男が佇んでいる。周囲には誰もいない。筋骨隆々の逞しい体にも似つかわず男はほっそりと寂しげで、ああ、これが彼の心内の世界なのだなと感覚的に理解した。
男は悲しくも王だった。
孤独の王はセラに向かってそっと手を差し伸べた。だが、セラはその手を握れなかった。応ずるべきか迷ったのだ。孤独に触れれば己の孤独も膨れ上がる。もう孤独は嫌だった。
戸惑うセラの体を突き抜けて、薄霞のように映る一人の女性が後ろから歩いてきた。セラとそっくりの黄金色の髪の華奢な女性だった。二人は手を重ねる。王が招いていたのは自身では無く女性だった。
寄り添った二人は互いの存在を求めるように抱きしめ合った。愛の眼差しを交わした後、王が女性の細い腹に触れて、祈りを込めると女性の腹が明滅を始める。
灯のように命が宿ったのだ。
腹はゆっくりと膨れ、女性は愛しげに腹を抱えて最上の幸せを抱きしめる。王もまた花のように綻ぶ彼女に無言で寄り添った。女性はやがて初子を抱く。温かな愛に見守られ無垢なる命が誕生した。
二人は子に『セラ』という名前を授け、玉のように可愛がった。
セラは幼いころから精霊に囲まれて無邪気に育つ。逞しく立派に育ち、やがて少年になるとヴーアを率いた。ヴーアに持ち込まれる争いを力と知恵で退け、王と母を守りながら群の長としてぐんぐん成長していく。
やがて青年になると王から王位を引き継ぎ、新たなる王として君臨した。
セラは誰もに好かれる賢王となり、治める大地には無数の花が咲き誇った。そしてその慶福の地で王と母は命枯れるまで幸せに暮らした……
「……何なんだ」
セラは浅い眠りから目覚めて不快感を以って呟いた。誰かの夢を見ていたような気がする。自分ではない何者かの夢を。夢というよりほとんど押し付けの願望に近かった。その気持ち悪さにうんざりして吐息する。
これほど冷えているのに汗を掻き、まだ夢の余韻が重たく滞留している。
おぼろげな視線を向けたが目前のトニヤはすっかり寝入っていた。頭上から響く滝の落水音が耳を打ち、ふと、寝がえりを打って今何時だと夜空を見上げた。まだ月は沈んでいないから、そんなに時間は経っていないはずだ。
体を起こして乱れたトニヤの薄布を顎まで引き上げてやると辺りを見回した。周囲には誰の気配もなく、極静か。精霊もいない。
あれは誰の夢だったのだと薄闇に視線を下げると呟きが鼓膜を震わせた。
「セラ」
驚いて声のした滝の方角を振り向き愕然とする。男が滝飛沫の前に立っていた。
息を飲んでその異形の姿を睨みつけた。夢で見たのと寸分違わぬ容の青緑の髪の男が滝壺の波打つ水面に直立不動で浮いていた。指先が震えた、直感でこいつだと悟った。
セラは誘われるように薄布を捨てると水際まで歩いた。
男は轟く滝の目前で静かにこちらの歩行を見つめている。静かな眼差しに、来い、と。そう呼びかけられた気がした。
自身に出来るかと一瞬躊躇したが、岸から慎重に一歩踏み出すとクンッと下がる感覚の後、自身もまた水面に浮かんだ。慣れない浮遊感が体を纏う。確かめるように一歩踏み出すとまた浮いた。体を水面に預け歩いてゆく。一つ歩むごとに水滴が円環に跳ね返り、体が遊ぶ。水に浮くとは形容しがたい奇妙な感触だった。
静かに水音を奏でながら歩いて、滝飛沫で頬が濡れるのも構わず男の対面で立ち止まると男を見た。
男もまたセラを射抜かんと鋭い眼光で見つめ、ゆっくりと鉛のような重たい声でいった。
「初めまして、息子」
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