第28話 ハンプトン
「おい、トニヤ。さっさと外せ、魚が腐るだろうが」
「おい、トニヤ。茶はぬるいのがいいっていっただろうが」
「おい、トニヤ。いつまで甲板こすってるんだ。床がすり減っちまうぞ。大体お前は」
「はあ、疲れた」
トニヤは短い夕食を終えて、船の縁に寄り添うと顎を船の縁に乗せてため息を吐いた。
「トニヤって呼びやすいんだよ」
トニヤより三歳年上の新米漁師ルウが笑う。彼の経験値とトニヤの経験値は左程変わらない。というより、これほど働いているならトニヤの方がむしろ上かもしれない。ノーザンピークに着くころにはトニヤは立派な漁師になる。
自身の悲劇を思うとため息しか出てこなかった。懸命に働くとは宣言したけれど、まさかこれほどにこき使われるとは思わなかった。
「今日獲った魚はダナンで売るんだって」
それを聞いてハッとする。ジャンクがダナンでトニヤを降ろすといっていたことを思い出した。何ということだろう。
「他の国に行くの初めてなんだ。どんなところかな」
「ボクは降りない」
トニヤがぼそりと呟く。
「絶対、絶対降りないぞ!」
トニヤの反抗の意思が快晴に木霊した。
ダナンで魚を売り捌く間に、結局トニヤはルウと下船した。
ダナンは南の大陸寄りの島のため、文化がほとんどロドリアと変わらない。特に異国情緒があふれているわけでもなく、大人しい海辺の町。漁港で魚がたくさん売られていて、漁民がそこら中で魚を捌いたり網の修理をしている。
魚を見ているとつい思い出すのは森の魚だった。森でも川魚は良く食べた。森には一件魚屋があってウィプスという若い変わり者が一人で店を営んでいた。お使いで行くこともあったが何しろトニヤは彼が苦手だった。
「セラはどんな風に大樹を燃やしたのかな」
店番をしながら本を読んで、森の誰もが聞けないことをあっさりと聞いてくる。トニヤは返答に困ってしまい「知りません」と叫んで店を後にすることも度々あった。ただ、ウィプスの店の干物は感激する程の一品で、その理由は釣ってはいけない聖域の丸々と太った魚を釣って加工しているからということを後で知った。
特に美味しくもなく不味くもない食事をダナンの町で摂り、ルウと歩いて漁港へ戻った時だった。
「トニヤ、見ろよ。ハンプトンだぜ」
そういってルウが指した先には丸々と太った銀色に光る超巨大魚がいた。トニヤは目を丸くした。トニヤ二人分くらいの体長と四人分くらいの胴周りだ。巨体が台車で船からゆっくりと運び出されているところだった。
「ボクたち、ハンプトンを見るのは初めてかい」
ハンプトンを釣ったと思われるまだ若い三十代位の漁師が笑った。
「うん、初めて見るよ。すごくおっきいんだね」
トニヤはハンプトンに近寄ると大きな目玉を覗きこんだ。大人のこぶしほどの大きさがある。
「どうやって釣ったの」
ルウは興味深々で問いかけた。
「ワイヤーで一本釣りさ。船が沈むんじゃないかというほど暴れてね」
「へええ、すごいなあ」
ルウは心底感動した様子で「すごいな、すごいな」と目を輝かせていた。
ハンプトンは台車ごと荷車に移された後、ダナンの町へと運ばれて行った。
それからというもの、船でルウの蘊蓄は留まるところを知らなかった。
「ハンプトンは伝説の怪魚といわれていて、ティエリア海の王者と呼ばれているんだ。巡り合うのは僥倖といわれるくらい珍しいんだ。釣り上げたことがあるのはほんの一握りの漁師で、ハンプトンを売れば家が建つっていわれている位なんだぜ」
「どんな味なの」
「うーん、食べたことないけどきっと美味いんだろうぜ」
「食べたことないのに?」
「ああ、五月蝿い。うちは貧乏だったから、食べさせてもらえなかったんだよ」
すると二人の背後で話を聞いていたジャンクがくすくすと笑い声を上げて、ひと言「とろけるほど美味いぞお」と呟いた。
「ジャンクさん食べたことあるの」
トニヤは驚いて振り向いた。
「仲間の漁師に一度食べさせて貰ったことがある。動物の脂身の部分のように柔らかく溶けて甘い。後にも先にもあんな魚は食べたことがない」
「へええ」
「釣り上げるのは海に生きる男の誉れだな」
「男の誉れ」
トニヤはぽつりと呟く。
「さあ、トニヤ。午後の漁の準備を始めるぞ」
ジャンクはそういって立ち上がると漁の準備を始めた。
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