願いだらけの雲

 ある朝。登校中のバス停で偶然会った奈月に、一つ心を決めた。


「ねえ、奈月」


「うん?」


「奈月さ、もう誕生日なったじゃん?」


「なったね」


 だけどやっぱり、これから自分が訊こうとしている言葉を考えると、勝手に声が震えてしまう。三年間同じクラスで間違いなく一番仲がいいと言える彼女に、こんな質問をしていいのだろうか。かといって、他に訊ける相手もいない。スマートフォンに視線を落としている奈月に、続けて言う。


「でさ、もう一応『大人』になったわけじゃん?」


「うん」


 質問の言葉はずっと頭の中にある。私が誕生日を迎えてから、ずっと誰かにこの言葉を


「私もさ、この間誕生日迎えたばっかだから、ちょっと気になったんだけど」


「うん」


 こんな質問をしてしまえば、彼女の私を見る目が変わってしまうのではないか──そんな煙のような不安のせいで、なかなか本題に入れず、えんな短文が並んでいく。しかし、着実に一歩ずつ、私が一番言いたい言葉に近付いていく。


 その後も何度か前置きを並べ、しかし奈月はちゃんと相槌をしながら聞いてくれた。そして、私は言った。


「大人になるって、どんな気持ち?」





 彼女が、こちらを見た。


 ──怖い。

 その目が、何を思っているか。分からない。だから怖い。


 その一瞬驚いたような表情は、私にはどう捉えたらいいのか分からない。そんなに衝撃的なことは言っていないはずだ。たかだか質問一つで、これまでの関係性を全てなかったことにされてしまう、なんてことは、多分、きっと起こらない。


 直後。ふっ、と微笑んでから彼女の発した言葉は──。





 どうしてか彼女の言葉が忘れられなかった。


──雲って不安の象徴な気がするんだよね。雲の多い空を見ると落ち着かない気分になるし、例えば不安な出来事を想像したとき、その想像の中の空って大体曇ってると思うの──


 昨日、朝早くの教室で偶然会った未来と、しばらく言葉を交わした。その中で出てきた言葉だった。


 初めは何を言っているのかよく理解できなかった。


 新たな着眼点というか、今まで意識したことのない視点でのものの見方を得た感覚だった。それを聞いた瞬間、それでもどこか納得している自分がいるのはなぜだろう。


 四谷未来は、『大人』という概念に対して否定的だった。

 特定の個人ではなく、きっとそれは、その肩書きを持った自分が他人にどう見られるか。そこに自信がないのだと感じ取れた。

 大人っぽい彼女の、大人への否定的な考えは、らしくなかった。


 やっぱりみんな、こういうこと考えるんだなと思った。


 科野も言っていた。「最近、同じようなこと考えてる」と。


 子供の頃夢見ていた大人と現実とでは大きな差があって、そのギャップに打ちのめされてしまう人もいるのだろう。

 自分が大人という立場になろうとしているとき、自分の無力さにやりきれなくなることもあるのだろう。


 夢見たものと現実は違う。

 その究極の形が大人と子供の境目。


「日知、こっちは準備できたぞ」


「了解。行こう」





 推薦を受けようか迷ってるという話は、四谷と日知にはもう話した。

 分かりきってはいたけど、二人とも受けた方がいいとは言ってくれた。

 まあそうだろうなとは思った。自分が彼等の立場だったらきっと同じことを言っていたはずだ。


 スポーツ推薦は、実力と自信、両方を兼ね備えてなければならない。

 そんなの、俺には無理だ。


 最後の引退試合が終わったその瞬間から、そんな資格は消え去った。

 先輩たちが代々全国まで持って行った看板を、俺は全国に出る前に落としてしまった。


 そんな不甲斐なさにも程があるような自分が、再び部活に顔を出すことが、どれだけ後輩たちの表情を曇らせることだろう。


 だけど、それも宗沢先生の言葉だ。彼の導く道をこれまでも進んできた。


「日知、こっちは準備できたぞ」


「了解。行こう」


 放課後の喧騒から重い足取りで教室を抜けた。





 校舎を抜けて、校庭まで歩を進める。

 昇降口と校庭のちょうど真ん中には、シンボルとなる二本のけやきが植えられている。その周辺は、いわゆる広場として、生徒たちのいこいの場にもなっている。

 本格的に夏が始まるようなこの時期。直射日光はなくとも、その暑さはここ最近続いている曇天と相まって不快な空気が肌にまとわりついてくる。


「もう練習始まってるな」


 科野陽が静かな口調で言った。


「撮る場所はもう決まってんの?」


「うん。いくつかリストアップしてるし、何パターンも試すよ」


「へえ、大変だな。実際に動画で使う時間ってどのくらい?」


「んー、五秒とか?」


 え、まじか、と割と大きな声で驚いていた。


「実際に撮ってみないとなんとも言えないけどね。素材によってどこをどのくらい使うか、その取捨選択は変わってくるし」


「まじで大変なんだな……」


「お互い様でしょ。ほら、先生いるよ」


 校庭を半分に分割したコートで、こちらから見て奥がサッカー部、手前が陸上部だった。

 お目当ての人物はすぐに見つかった。校庭の端で、こちらに背を向ける形で部員の様子を見守っていた。部員の大きな掛け声がよく響いていた。


「こんにちは」


 歩み寄って、彼が先に声をかけた。その声が緊張を押し殺しているものだとすぐ気付いた。


「おお、来たか。で、君が撮影の人だな」


「はい、よろしくお願いします」


「文化祭で使うんだってな。いい映像、期待しているぞ」


 柔らかい口調だった。だけど先生の表情にも不安の色が見えた。これから自分のすることを、信じきれていないような。

 大人のこんな表情、初めて見た。


「好きに撮ってくれて構わない。部員にも伝えてる。科野は、ここで少し話そう」





 放課後、今日は塾に直行しようと思って昇降口で靴を履き替えていると、ちょうど理人と会った。手にはビデオカメラが握られていた。


「もしかして、撮ってたの?」


「そうそう。さっき外で撮って、今二階の窓から撮り終わったとこ。科野陽がいま宗沢先生と外で話してるから、そこ行こうかなって」


「へえ……」


 心なしか口調が弾んでるように感じられた。大変だね、と言おうと思ったけれど、その楽しそうな様子を見れば、そんな気は起きなかった。


「空、曇ってるね。今日は雨が降るらしいよ」


「えっ、それほんと? やば、今日も朝早く来たから予報確認するの忘れてた……傘持ってないし……」


「僕も。まあ、小雨程度らしいけど」


 何気ないにも程がありすぎる会話を続けながら、気がつけば欅のところまで来ていた。そのまま進めば校門だけど、ふと理人が足を止めたので、つい同じように私も止まってしまった。


 理人が一点を見つめていた。サッカー部の様子、厳密に言えばきっと、科野陽だろう。


 そこで突然彼は、レンズをそこに向けた。





 サッカー部の練習エリアに入った。俺の姿を認識した何人かが、動揺、もしくはそれに準じるような小さい反応を見せた。


「何度も言うようで悪いが、本当にお疲れ様」


「いえ……俺は大したことしてないですし」


 部員の内、俺と目が合った人は「こんにちは」と言い会釈してきた。


 みんな、真面目だ。もう引退した俺のことなんてほとんどの人が気にせず、練習に励んでいる。必死に声を出し、走っている。


「この様子を見てどう思う?」


「なんか……申し訳ないですね。本当だったらもっと良い景色を見れていたはずなのに、それを──」


「あいつらは」


 俺に言葉の続きを許さないように、はっきりと言った。


「あいつらは全員、自分たちのせいで負けたと思っている。ベンチ外のメンバーも、だ」


 ああ、やっぱり。


「みんな真面目ですね」


「お前の影響だって、気付かないか?」


 どういうことだろうと思った。


「お前、あの最後の試合の日、誕生日だったろ」





 理人がカメラを科野陽の方に向けてすぐ、シャッターを切った。そちらを見てみると、科野と先生が、遠くからでもわかるほど力強く握手をしていた。


「大人って何で偉そうなんだろうね」


「本当に急だね。どうしたの」


 明確に嫌なことがあったわけでもないけど、なんとなく漠然と、そういう不安がずっとあった。

 自分もそういう大人になってしまうことが怖いから。


「そんなの、僕たちに分かるようなことじゃないよ。少なくとも今は」


「あの時さ、どうして私に撮影を頼んだの?」


 話題の作り方がへたくそだと自覚した。きっと声も震えてる。


「んー、強いていうなら、信頼してたから?」


「ちゃんと撮ってくれるって? でも忘れたよ、私」


「そういうのじゃないけど、未来ってなんか、良い意味で大人っぽいところがあるから。ほら、大人って頼み事しやすいじゃん?」


「大人っぽい? 私が?」


 うん、と理人は頷く。


 いつの間にか、科野がもうここまで戻ってきていた。


「お疲れ様」


「おう。四谷もいたんだ」


 最初に声をかけたのは理人だった。労いのある明るい声だった。


「何話してたんだ?」


「大人って何なんだろうねって」


「なんだ、俺と同じじゃん」


「へえ、そうなんだ?」


 二人の会話にうまく混ざれず俯いていた視線を、ふと上げた。そこで、憑き物が取れたような表情の科野を見た。





 科野陽は良い顔をしていた。


 ただでさえ整っていた顔のその表情が、今は安堵に満ちた優しい印象を持っている。


「やっぱあれだな、俺らってまだまだ子供なんだな」


 恥ずかしがるように彼がそう溢した。


「あ、それ、うちの母親も言ってたよ。高校生なんてまだガキだって。無理して大人ぶる方がダサいとか」


「いいキャラしてるな」


 二人して笑った。未来の方を見てみると、どこかぽかんとしていた。


「大丈夫?」


「う、うん……。そういえばさ、私の友達が、大人になるのってどんな気持ち? って聞いたら、こんなこと言ってたのを思い出してた」


「何て?」


「『別に何とも。でもちょっとワクワクするかも』って言ってた。すごい笑顔で」


 大人になることを楽しめる人なのだろう。良い意味で純粋なんだ。


「科野は? さっき何話してた?」





「俺はまあ、焚きつけられたよ。『大人になりすぎるな』って。お前が見栄張りすぎたせいで後輩たちが真面目になりすぎてるって。確かにみんな、異様なくらい真面目だった。

 だからもう少しくらいガキでいろって言われたね。信頼してる人の言葉なら、受け入れられそう。あ、それと──」


 言おうかどうか迷ったが、すぐに結論は決まった。


「推薦、受けるよ」


 おおっ、と二人の小さな歓声が上がった。


「良かったじゃん。てことは、また部活参加するの?」


「まあな。後輩たちを元通りにしてやれって頼まれてるし」


 確かに、と四谷が笑った。ここ最近、神妙そうな表情しか見せなかったから、新鮮だった。


「なるほど、信頼してる人の言葉かぁ」


「四谷は、例の友達とかじゃない?」


「そうだね。あの子、ふざけてるのによく名言とか言うから。そういうところも好きだけど」


 そういうのいいよね、と日知の声。


「結局さ、どんだけ悩んだとしても、どうせみんな大人になるんだよ。なれちゃうんだよ。今の大人だって、昔は僕らみたいに色々悩んでたかもしれないしね。それでも結局、大人として生きていけるんだよ、みんな」


「そうなれるように願おうよ」


 思わず彼の言葉に続いてしまった。


「いいこと言うじゃん」


「まあ、今だけは楽観的でいいでしょ」


「そうだね」


 一つ深呼吸をして、彼は口を開く。


「不安は、少しある。でもきっと、どうにかなる」


 いつかは揺らぐかもしれない、しかし今だけは強固なその言葉に、俺も彼女も力強く頷いた。


 決意を固めた雲が不安を洗い流すかのように、いくつもの雨粒となって三人の頬を掠めていった。



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