雲の泳がない明日

 昨日は色々あったなと思った。

 モヤモヤするような夢を見たし、朝は四谷の知り合いだという、日知という人と、初対面にしてはヘビーな話もした。放課後は宗沢先生と面談もした。本当なら面談の時に撮影のことについて質問できればよかったけど、当時は自分のことに精一杯で、それどころではなかった。


 今だって十分、それどころではないのだけれど。


 宗沢先生はああ言ってくれたが、やっぱり俺の選択は急がれるものだと思っている。


 俺みたいな人が、サッカーを続けていいのだろうか。推薦なんて、よほど自分に自信がないと受けられるものでない。

 そしてそれは自信だけに限らず、実力も伴っていないといけない。

 俺にそんな資格はない。


 こういうとき、大人ならどうするのだろう。


 自分を信じられないとき、信じた結果現実に打ちのめされるかもしれないという恐怖に怯えてるとき。

 かつて俺が憧れてた大人に、今まさに自分がなろうとしているというのに、この様だ。

 こんな大人、情けないよな。





「あ、タカさんお疲れ様です」


「おう」


 宗沢隆次たかつぐが職員室に入った途端、その姿を認識した後輩教師の立島たてしまが声をかけた。午後八時過ぎの職員室の雰囲気は残業中のサラリーマンの集うオフィスのそれと何ら変わりなく、小さな話し声ですら部屋の隅にまで聞こえてきそうな物静かさだった。

 


「あのキャプテンだった子、どうです? スポ推取れるんですよね」


「本人があまり乗り気じゃなさそうだからな……」


「それにしても凄いですよね。科野くん、でしたっけ? 試合も見に行きましたよ。この間のやつ。あんだけ上手くて礼儀正しくて、周りへの気遣いというか、嘘偽りない親切心があって、しかもイケメンときた。はぁーあー、ぼくもあんな高校生になりたかったなぁ」


「年下に嫉妬か」


「年下だからこそ、ですよ、タカさん。自分より人生経験少ないはずの子達が輝いてると、何というか……自分の人生何だったんだろうってなるんです。負けた気がしちゃう」


「二十八にもなってガキみたいなこと言うなよ」


「あ、タカさんそれ、本当のガキを馬鹿にしてますよ。ガキにだって自尊心はあるんです。ガキはガキらしくいるのが一番なんですから。ガキっぽいのだって、別に悪い事じゃないですよ」


「ガキガキうるせ」


「だからぼくのこともガキっぽいとか言わないでくださいよ。高校教師という、なかなかに面倒な仕事だってこなしてますし」


「なんでわざわざ高校なんだよ。中学とかじゃなく」


「だってガキ嫌いですもん。うるさいし、生意気だし」


「お前も馬鹿にしてんじゃねぇか」


「まあともかく、彼はぼくみたいな人間が嫉妬するくらいにはいい人だと思いますよ。ぼくなんかより大人です。もう少し自信持ってもいいと思うんだけどなぁ」


「あいつは責任感が強いんだよ」


「タカさん、そういう人好きですよね」


「まあな。責任感が強いやつは、いつか必ず何かをやってくれるはずなんだよ」


「自信の割に不確定要素が多いですね。物理教師として気になります。あ、タカさん、コーヒーいります?」


「自分でやるよ」


「真面目ですねー。せっかく可愛い後輩が持ってきてあげようとしたのに」


「これが大人ってやつだよ。自分でなんとかする」


 そう言いながらデスクから離れ、職員室の隅へ向かう。

 熱湯をカップに注ぎながら、宗沢は、声には出さず、しかしはっきりと心の中で呟いた。


 ──まあ、その道標くらいは、大人として示すべきだよな──





 結局、あれからお母さんとは口を利いていない。


 ただ、怖い。


 次に言葉を交わした時に何を言われるのか分からない。だから怖い。

 あのとき、馬鹿みたいに黙り込んで逃げてしまったのは、やっぱりその全てに自覚があったからだ。

 それに意地を張って、何でもないように振る舞う自身の姿を客観的に想像して、子供っぽくてみっともないと思ってしまった。


 我ながら不思議なことを考えてるなと思う。


 今までは自分が大人になってしまうことに嫌気が差していたはずなのに、今は自分の子供っぽい振る舞いを後悔している。


 顔を合わせたくなくて、いつもより早く家を出て、いつもより早く学校に着いた。教室には、まだ誰もいなかった。

 鞄を机に置き、さあどうしようかと、視線を扉と自席の間で行ったり来たりさせる。本来なら受験生は、こういう時間を有効活用するべきなのだが、やはりどうにも、心身ともに動く気が起きない。

 結局座って、うつ伏せになって腕で顔を覆い、ゆっくり目を瞑ることしかできなかった。

 脳を支配するのは不透明な未来ではなく、過去の記憶だった。


 中学生の頃の、元看護師の先生。

 私は小さい頃、喘息で度々入院していた。だから他のクラスメイトよりも、看護師という存在は身近だった。

 だから彼女の話す内容も、頭の中で、すっと理解できた。

 踏み込んだ医療行為を行えるほどの権限はなくても、患者と信頼し合えるコミュニケーションをとり、容態や症状を観察し、異常がないことを確認する。そういう、誰かの役に立てていると、直接実感できる仕事。精神的にも体力的にも大変だけど、それでもいい仕事だと彼女は言っていた。

 間違いなく憧れていた。看護師に、ひいてはそういう大人に。

 だけど教師としての彼女しか私は知らない。

 ルールに異様に厳しく、連帯責任だとかなんとか、とにかくそんな、どこにでもいるありふれた教師の姿をしていた。

 どんな過去を持つ大人も、みんな結局『そう』なってしまうのかもしれないと、その頃悟った。


 私は、どんな大人になりたいんだろう。


 少しだけ腕から顔を上げて深呼吸した。直後、ガラガラと教室の戸が開いた。


「え、早っ。来てたんだ」


「……理人じゃん。早いね」


「いや、僕はいつもこの時間だし」


「え、うそ」


「本当だよ。そっちこそ早すぎない?」


「今日は、たまたまだよ」


「科野陽に話があったんだけど」


「あの人、いつも遅いよ」


「え、だって前よく朝早く来てるの見たよ」


「部活の朝練じゃない?」


「なるほど」


 入り口付近でしばらく黙ったのち、理人がこっちを見た。


「少し話そうよ」





 科野陽目的で来たことに違いはないけど、明確な要件があったわけではない。ただ誰かと真面目な話をしたいだけだった。あわよくば、撮影許可の返答を聞ければいいとは思っていた。


「そういえば、誕生日おめでとう」


 教室の中に入ったものの、机を三つか四つほど横に並べたほどの距離が空いていた。我ながら微妙な距離感だとは思うが、普段あまり言葉を交わさない人間が二人同じ教室にいれば、これくらいが妥当だろう。少なくともこの距離感を彼女は嫌悪していない。お互いに、踏み込みすぎない許容範囲にある。


「ありがとう」


 きっと彼女にとっては聞き飽きた言葉なのだろう。まるで中身のない挨拶のように、無表情で言った。

 かくいう僕も、あまり大きな祝福の気持ちを持っているわけではない。誕生日を迎えた人に対しての、形式上の言葉。


「もう成人だね」


「……うん」


「大人になってみてさ、なんか感じたことある?」


「それ、前に科野にも同じこと聞かれたよ」


 この会話の、どこまでが形式で、どこからが本心なのか。そんなことは今さら気にする必要はない。


「早く成人したいなぁ」


 独り言の体をとってはいるが、それを聞いた人が何かしら反応をくれることを前提とした口調。こういう言い方をすることで、『自分の意見』でありながら、相手に干渉するような強い主張を避けることができる。それを知った上で呟くように言った。


「そうなんだ。逆だね、私と」


 それはもう分かりやすいくらいの作り笑いだった。


「逆?」


「そう。私は、あんまり大人にはなりたくないかなって。なる必要なんて無いとさえ思ってる」


 それは一通り『大人』を経験して得た反省のようにも、食わず嫌いのような保守的な拒絶のようにも思えた。


「なんて言うんだろうね……。大人という存在を、嫌いになったことがないといえば嘘になるけど、その全てを否定するつもりもないんだよ。ただどうしても、例えば大人のよくない一面を見たときに、『こうはなりたくないな』って感情は確実にあって。でももしかしたら、自分もそんな風になってしまうのかもしれないって思っちゃって」


 それは、ただ不安の吐露だった。

 僕が大人のようだと尊敬していた四谷未来とは違った。


「そんなもんでしょ、大人なんて。どうせみんな人間なんだから」


 別に慰めの言葉のつもりもない。言いたいことを言っているだけ。僕がそう言いたくなったから。

 どうせ、だし。


 彼女の表情はそれでも、数日前から変わらない薄暗い雲のように陰っていた。




「宗沢先生」


 昼休み。例の撮影の話をしようと、宗沢先生を探した。途中で日知とも遭遇した。やっと見つけたのは昇降口だった。


「おお、科野か。どうした?」


「あの、今後ろにいる彼が文化祭の三年の動画作る担当で、それでその動画の中にサッカー部の練習風景も組み込みたいそうなんですよ。なのでその様子を撮影する許可が欲しいということで……」


「おお、なるほど」


 そう言い、少しだけ含み笑いをしてから「丁度いい所に来たな」


「撮影は、いつでも大丈夫だ。それと科野、撮影の日、お前も来いよ」


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