【日知 理人】 檻より仰ぐ空


 暗い塾の帰り道。まばらに立ち並ぶ外灯を何度か通りすぎていくにつれ、歩みが遅くなっていくのを自覚した。


 『21:20』という時刻表示を、スマホの画面を点けて確認する。前回見た時からまだ三分しか経っていなかった。

 どこか時間を潰せる場所がないか探すけど、住宅街ど真ん中のこの場所ではそのような都合のいい発見などない。仕方なく、さらにゆっくり歩くことにする。


 結局、歩けば五分で着く自宅までの道を、十分以上かけて歩いた。


 自宅の鍵を開け、中に入る。「おかえり」という声が先に耳に入り、「ただいま」と、ぼそぼそ言う。この一連の動きが、僕にとって逸脱したい日常の一つだった。


 戸建てで、二階に自室がある。階段を上るには台所のすぐ横を通らなければならない。


「晩ご飯は?」


 台所から顔を覗かせた母の、棘のある声。


「いらない。食べてきた」


「どこでよ?」


「そこら辺で買ったやつ。自分の金で買ったから」


「最近、そればっかり」


「いいだろ、自分で買ってるんだから」


「そういう問題じゃなくて。不摂生だって言ってんの。いつもそうじゃん──」


 まだ何か言い足りなそうな母の横をすり抜けて階段を上がっていく。


 僕は別に、議論で勝ちたいと思ってるわけではない。ただ話すのが面倒なだけだ。向こうが何を言いたいのかはあらかた察せるし、だからこそ早く会話を切り上げたいのだ。だけど向こうはそれを分かっていない。




 自室に入り、途中コンビニで買ったおにぎりを貪りながらSNSを起動したスマートフォンのスクリーンに思考を没入させる。見知らぬ誰かの呟きを眺めていると、画面上部に見慣れたポップアップが表示された。


『Miku.Y

   動画、撮れなかった、ごめん。』


 なんだ、そんなことか。もともと無理なお願いだったのだから、別に謝らなくてもいいのに。そういう真面目さを信頼しているというのもあるけど。


 四谷未来とは中学生の頃からの知り合いだった。

 雰囲気は真面目だけど、適度に砕けてて、交友関係もそれなりに充実している。羨ましいほど、模範解答のような学生生活を送っているように見える。

 彼女に対しての印象はそんなものだが、抱いている感情はまた違う。


 尊敬と、嫉妬だ。


 我ながら情けないと自覚している。いつも周りに人がいて、やることがはっきりしていて、価値観が一貫している。羨ましいと思う。確か今日は彼女の誕生日だったはずだ。もう成人。今の彼女は紛れもなく『大人』だ。悔しいけど、僕から見ても彼女は大人で間違いないと言える。

 今は高校生の制服を着てるから子供のようにも見えるだろうが、ひとたびスーツなどでも身に纏えば、人に道をたずねられる機会に困ることはないだろう。そうやって大人として生活して、誰かに貢献するんだ。


 ──羨ましい。


 僕はきっと、大人になれない。

 彼女ほど社交的でもない、実行力もない、考える力もない。

 焦ってはいる。自分だって、もう一年もしない内に成人を迎える。だけど、今の自分ではそれに見合うほどの人間になれない。


 この年齢になれば、自分より年下でテレビに出て活躍してる人をよく見かける。僕は、彼らが羨ましくて仕方ない。


 自分がまだ、何もできない子供のように扱われるのが不快で仕方ない。

 まっすぐ家に帰りたくない。食事の心配をされたくない。自分は弱くなんかないと叫びたい。


 勉強をするのは苦ではない。それなりに集中力を要するから、余計なことを考えずに済む。だから今日も、シャーペンを握る。



 *



「君、科野陽でしょ」


 ただの好奇心であったが、サッカー部の元キャプテンだということで、話をしてみたいと思った。


「キャプテン」


「……そうだけど?」


「今時間ある?」


「うん」


 ここは別に自分のクラスではないけど、「座っていいよ」と促す。


「とりあえず、試合お疲れ様」


「あ、ああ……知ってたんだ?」


「小耳に挟んだだけだよ」


 朝礼前の特有の騒がしさをBGMに話し込む。これまでの二年とちょっと、あるいはそれより短い期間で築き上げたコミュニティの仲間と一緒に過ごす彼の時間を奪ってしまったことを、少しだけ申し訳ないと思う。


「もう引退してるなら、今さら訊いても意味ないかもだけど」


「なに?」


「放課後のさ、サッカー部の練習の様子を撮影していいかなーって思ってて」


「撮影? 何で?」


「文化祭のさ、PV映像作るの任されてるんだよ、僕。その中に組み込みたい」


「へえ、すごい。動画作れるのか」


「まだ初心者レベルだよ」


「任されるくらいなら、十分すごいだろ」


「いやいや、サッカー部のキャプテンに選ばれるような人には負けるよ」


 イントネーションがお世辞臭かっただろうか。自覚できるほど『大人っぽさ』を意識しまってるせいで、逆に高校生らしい会話とはどのようなものかを模索するようになってしまった。とはいえ、そういったやり取りを楽しいとも思える自分がいる。


「そんなことはないよ──うん、わかった。顧問に訊いてみる」


「助かるよ」


「いつまでに答え返せばいい?」


「夏休み入る前までなら」


「半月もある」


「でもなるべく早い方がいい」


 彼は、了解、と告げ、瞬間、僕らの間に声がなくなる。


「そういえば、四谷と知り合いなんだって?」


 文字通り急に何かを思い出したように、彼がそう言い出した。


「そうだよ。中学同じ」


「あいつもう成人したんだってね」


「みたいだね」


 なんでもないような表情を作ってうなずいた。

 もう成人。大人。

 十八年経って、一人前として認められた人間。

 だけど、僕はたとえ十八歳になったとしても、大人だと言い張れる自信がない。

 卑屈で、一人で何でもできる力もない。臆病で、まだまだ弱い一人の人間。


 この違いは何なんだろう。

 大人になるってどういうことなんだろう。


「大人ねぇ……すごいなぁ。選挙権もあって、色んなことを一人でできて。正直羨ましいよ」


 自分にできないことがあるのが嫌だった。弱いと思われるのが嫌だった。


「キャプテンはどう思う?」


キャプテンだよ。何が?」


「大人になるってこと」


 科野陽は、しばらく宙空を見つめて黙り込んだ。面倒な話振っちゃったかなと少し反省する。


「難しいな」


 誤魔化すような苦笑いを浮かべながらそう言ったのであれば、僕の方も「だよね」と軽薄な同意を示して、この話題を振り続けるのがいたたまれなくなり、別の話に切り替えていたかもしれない。

 だけど彼がそのとき見せた表情は、微笑みのかけらもない、真剣そのものだったのだ。


「ここだけの話、俺も最近、同じようなこと考えてるんだよ」


 しばらく目を逸らして窓の外──校庭の方を眺めていた視線が、「考えてるんだよ」の瞬間にこちらを向いた。


「子供の頃は──高校生の今も子供だろうけど、大人って憧れの存在だったと思うんだよ。何かと制限されっぱなしの子供より、大人の方がよっぽど自由で、思い通りのことができて、困ったことがあっても、大人の力ならどうにでもなってきた。たまに怒られるときだって、その瞬間は腹立たしかったけど、後になって考えてみれば、やっぱり大人の言葉は正論だったり。だから信じてついてきた。けど──」


 そこで言い淀んだ。これ以上続ける気がないのではと思うほど長く空白が支配した。


「……そうだよね」


 自分でも何に共感したのかわからないけど、彼の言葉の何かに共感したくなった。


「全部が全部、信じられるわけじゃないんだな、って」


 さっきとは対照的に、ひとつひとつ丁寧に言葉を拾い集めて、優しく伝えてくれるような口調だ。


「別に、明確に嫌なことがあったわけじゃないんだよ。だけど自然と悟っちゃうんだよ。ニュースを見れば詐欺だの、インターネットを使えば、もう散々。崇拝に近い憧れを抱いていた大人のを見ちゃうと、素直な感情抱けないんだよな……」


  怒涛、と言うほど迫力に満ちてはいないが、彼のそんな独白には、僕の心の内を刺激する何かがある気がした。


 タイミングが良いのか悪いのか、そこで始業を告げるチャイムが鳴ってしまった。


 急いで席を立って、長話に付き合ってくれた礼を言った。


「また話そうよ」


 そう言ったのは僕の方だった。





 リビングの隅、デスクトップパソコンのモニターやキーボードなど一式が置かれた机に向かって頭を抱えた。PV動画の構想を練っているところだ。


「どうするかなぁ」


 台所にいた母がこっちに向かってきた。


「いつも言ってるけどさ、何時間もおんなじもの見てたら視力落ちるよ」


「わかってるって」


「わかった上でやってんの?」


 何も言い返せなかった。我ながら都合のいい口だ。


 僕が何も言わないのをいいことに、さらに言葉を続けた。


「しつこいって思うかもしれないけど、想像してみてよ。自分の一人息子が、家にいる間ほぼ誰とも口を利かないで、ずーっとパソコン見てたら、声かけたくもなるでしょう」


 想像力は豊かな方だと自負しているけど、自分が『大人』という目線で何かを考えることだけは、難しかった。


「あのさぁ、成人も近くなって浮かれてるのかもしれないけど。言っておくけど、親からしてみれば学生なんてみんな子供だよ。特に高校生なんかはガキ。無理して大人ぶってる方がださいよ」

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