【四谷 未来】 迷城に囚われて

 大人になんてなりたくない。


 私は常々、最近は特にそう強く思うようになった。

 いつも上から目線で偉そうな人になんかなりたくない。


 そうは言いつつも、人は年を取ることに抗えやしない。それが大人になることの示しになってしまうことが、どこか悔しい。


 そして今日、私は実に十八歳の誕生日を迎えてしまった。意図せず何かのラインを踏み越えてしまった感覚。走る気のないマラソンのスタートラインにいつの間にか立たされている。


 何をすればいいのか、どこに向かえば良いのか分からないけど、すでに『大人』というゼッケンを着て走り始めてしまった。賽は投げられてしまったのだ。


未来みくー、誕生日おめでとー!」


 教室に入ると、同じクラスの親友のわかつきが天真爛漫としか言いようのない笑顔で抱きついてきた。対応に追われていると、他の友達も集まってきて、いつの間にかバースデーソングが展開されていた。ちょっと恥ずかしかった。


 ちなみに奈月はもう誕生日を迎えて成人している。四月の終わり頃だった。奈月はその頃でもいつもと変わらず、快活少女だった。彼女は自分が大人になったことに、何か感じているのだろうか。



 *



「私ね、今日誕生日なんだ」


 別に祝ってほしいわけではないけど、無言がなんとなく気まずかったのと、図らずも大人になって十数時間無事に過ごせてしまったモヤモヤをどうにか形にしたくてそう言った。

 彼は私の言葉をどう解釈すべきか戸惑ってるみたいで、少し申し訳ない気持ちになる。


 独り言と捉えてもらっても構わなかったけど、彼は反応を返してくれた。


「それがめでたいかどうかは、俺には分からないし」


 素直に、ちょっと感動した。


「大人になってみた感想はどう?」


 なりたくてなった訳じゃないんだけど、と思ったが、悪気はなさそうだから黙っておく。


「全然、いつも通りだね。何も変わんない」


 それは事実だった。成人になったからといって、労働させられるわけでもないし、今まで通りここにいる。


 スカートのポケットでスマートフォンが振動したことで、ここを訪れた本来の目的を思い出したけど、あまり人に見られてるところでやりたくはない。この後どうしようかと思ったが、だんだん考えるのが億劫になり、無言で正面の光景を見つめ続けた。


 *



 今日の放課後は大学入試のための講習があって、学校を出られたのは午後六時過ぎ。

 科野ように釣られて私も校庭の様子をだらだら眺めているうちに、講習は始まりの時刻を迎えていた。それに気づいてすぐに向かったものの、当然遅れた時間を遡れるわけもなかった。


 ふと思い出すのは、三年前のことだった。

 当時の担任だった女の先生。彼女は元看護師で私が中学校に入学したのと同じ年に教師に転職したらしい。

 彼女が話してくれるリアルなエピソードはどれも仕事としての魅力に富んでいて、将来の形を思い描けていなかった私には良い刺激となった。


 だけど案の定というか、教師という立場上、やることはみんな同じなんだなと思うことがちらほら。生徒の教師への不満というのは全国どこも同じようなもので、それを彼女にも抱いてしまった。

 結局彼女も、激務に耐えかねて転職したただけの、ただの人間にすぎなかったのだ。


 傍から見れば、大人は自由に見える。お金を持っていて、何でもできる。だけど私は知っている。大人って、そんなにいいものじゃないと。


 何が不満かと訊かれても、言葉にするのは難しい。


 だけど時々思う。かつて私が憧れていた『大人』は、ただの偶像でしかないと。

 所詮、大人だって人間なのだ。悪い部分だってある。生きづらい社会に放り出されて、「人生は自分次第だ」と、どうにも出来ないものを強引に割り切って慰めたりする。追い詰められると、小汚い本性が露出する。幼い私は気づかなかったけど、今となれば、そんな大人たちに煮え切らない不快感を抱いてしまうようになった。


 自分もいつか、そうなってしまうのだろうか。


 そんな大人にはなりたくない。

 だけど、やっぱりなってしまうのかもしれない。


 今日の空を覆う雲は、暗くて分厚くて、不安だらけの雲だった。



 *



 翌日の始業前。奈月たちと雑談をするために、いつも早めに学校に来ている。

 私たちの話す内容は、きっと数分後には忘れてしまいそうな、くだらない話ばかりだ。でもくだらないからこそ、その時間が心地良い。

 くだらないことを愛せるのは、そこが自分の居場所だからだと、いつの日か奈月が言っていた。ふざけてばかりの奈月も、たまに名言っぽいことを言うことがある。


「あっ、日知ひちくん来たよ」


 奈月が私の背後に視線をやってそう言ったので、振り向いた。

 隣の教室の知り合い、日知まさが入ってきた。


 私が席を立つのを躊躇ったのを見てか、奈月がまた声をかけてきた。


「あれ、話があるんじゃなかったっけ?」


「いや、今お友達と喋ってるみたいだし、後で良いよ」


「そういう時はデカい声で『理人きゅーん』って叫べばいいんだよ」


「やだよ、なにその呼び方、自分でやってよ」


「まさときっ──」


 本当にやり出したので慌てて口を塞いだ。


 友達二人とお喋りしてたらしい理人の顔がこちらを向いて、視線が合ってしまった。その表情は、「え?」という戸惑いと、若干の苦笑いだった。


「いや、ほんとごめん! まじで何でもないから! ごめんねいつも」


 申し訳ないという気持ちもありながらも、なぜか笑ってしまっていた。元凶の奈月も、塞いだ手の中で笑ってるし、理人もこちらを見ながら笑ってる。みんな笑ってた。


 ああ、くだらないな。


「あ、そういえば昨日の件についても、ごめんね。普通に忘れてた」


 今なら話しかけられると思って、元々伝える予定だった謝罪をした。もしかすると奈月は、こうやって話しかける機会を作ろうと狙ってやったのだろうか。


「いや、全然いいよ。急なお願いだったし、そもそも出来たらでよかったし」


 責めるわけでも気を遣うわけでもなく、本当に何でもないような口調で返してくれた。中学生の頃からの知り合いで、こういう、あまりこだわりが強くない部分も、変わってないなぁと思う。


 奈月に肩を叩かれたので、振り向いた。


「なに?」


「なんの話? 教えてよ」


「えぇ、秘密かな」


「なぁんでよぉ」


 肩を掴まれて体を揺すられる。もちろんただじゃれあっているだけだ。

 揺すられながら、ちらりと理人の方を見てみた。彼はもうこちらに興味は持ってないらしい。


 ──他の人には秘密にしてほしいんだけど──


 こう言われたのは、多分一昨日おとといか三日前だった。彼と話すことそれ自体が久しぶりだった気がする。中学生の頃は、よく話してたと思う。なぜ急に距離ができたのかは、多分明確な理由はない。必然性のない関わりはいつの間にか日常から逸れていく、ただそれだけのことのような気がする。みんな、自分の生活に忙しいのだろう。


 ──放課後の校庭の様子を撮影して、送ってほしいんだよね──


 いきなり何のことかと思い、え? と聞き返してしまった。どうしてとたずねると、どうやら文化祭のPV動画で使いたいらしい。何でわざわざクラスの違う私に頼もうとしたのかは分からないけど、誰かに頼られるのは嫌いじゃないからそのまま引き受けた。

 まあ結局、忘れてたんだけど。


「あ、分かっちゃった。デートの約束だ。絶対そうだよ!」


 もう少し塞いでおくべきだったかもしれない。




 *



 同じ日。


 家の中の無音とは意外と寂しさは感じないもので、むしろ落ち着く安心感の方が強い。


 自習室にでも行こうかと思ったけど、一度鞄を肩から降ろしてしまえば、そのまま全てを放り捨てたい誘惑に包まれてしまう。

 こんな時間に何かを食べることに気が引けて、小腹が空いたのを水を飲んで誤魔化す。コップをシンク横の台に置いたのとほぼ同時、玄関から鍵の開く音が聞こえた。

 飲み込んだ水が泥水に変わっていく映像が浮かんでしまった。


「ただいま」というお母さんの声を、聞こえないふりをしてやり過ごす。自分の存在を、なるべく長く消しておきたかった。

 買い物袋を持ったお母さんがリビングに入ってきた。


「なんだ、いたなら返事しなさいよ」


「あっ、おかえりー。ごめん、水道の音で気付かなかった」


 お母さんの無愛想な口調はいつもと変わりない。こちらの少し大袈裟に明るい口調でバランスをとる。


「あんたさぁ、こんな時間に家にいて良いの? 自習室でも行きなよ」


 痛いところを突かれた感覚なんかより、その口調の圧が心の中をよくない方向へざわつかせた。今日は一段と機嫌悪いなぁなんて楽観視できる余裕はなかった。


「いや、あのね、行こうと思ったんだけど、お腹空いちゃって」


「普通に外で買えばいいでしょ」


「……家に、財布、忘れちゃって」


「あっそ」


 その場しのぎの明るい声は、場の空気をどんどん悪い方向に持っていく。焦る。声が、詰まる。


「もう十八歳なんでしょ」


 私の横を目を合わさず通り過ぎ、買ってきたものを冷蔵庫へしまいながら、今度は独り言のようなゆったりとした声で言う。


「そろそろさ、ちゃんとしようよ」


 喧嘩なら日常茶飯事だし、慣れてるはずだった。


「看護師になりたいっていうから塾にも通わせてるのに、授業だけ出てあとは放ったらかし」


 うまくいかない事だって結局はどうにかなってきた。


「家にいると思ったらろくに勉強しないで弟と喧嘩してばっかり」


 いつものように言い返せないのは、心当たりがあるからなのか。



「髪長いのだって、不潔って思われるよ」


 ちゃんと手入れしてるって。


「遊びに行くときだって、いつ帰ってくるかとか全っ然報告しないし。こういう小さな事すらまともにできないと、いい看護師になんてなれないと思うけど」


 そんなの、


「……脅しじゃん」


 きれいさっぱり心の内を言葉にできる素直な人ならよかった。全然そんなことないよ。意外と家の方が勉強捗るし、言い争いはあっちが譲らないだけだし、看護師になれたら髪は切るつもりだし──


 だけど、今回はなぜかいつになく響いた。


「長女でしょ。そろそろ、切り替えて生きようよ」


 最後はゆっくり私の方を見ながら口を開いた。


「お願いだから」


 そこから先はあまり覚えていない。

 けど、何かが限界だった。


 気付けば自分の部屋へ走り勢いよくドアを閉め、ベッドに倒れ込んだ。無造作に毛布を丸めて、顔をうずめた。声を聞かれたくなかった。叫ばずにはいられなかった。


 目の奥が痛いのは何でだろう、息が苦しいのは何でだろう、心が爆発しそうなのは──ああ、みっともない。情けない。

 なんで私は暗い部屋で泣いているんだろう。これが『大人』のすることなのか。


 きっと自分は大人に向いていない。


 やっぱり私は、大人になんてなりたくない。

 

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