願いだらけの雲

橙真らた

【科野 陽】 霧中の疾走

 世界が眩しすぎたので、目を閉じて陰を作り、そこに身を潜めた。


 カーテンの隙間から漏れる日の光が、否応なしに俺に対して「動け」と説いてくる。瞼を通して干渉してくる眩しさは、もはや俺に自由などないのだと暗に伝えているようだった。


 自室の窓の外からは陽気な話し声が聞こえてくる。細かい部分は聞き取れないが「推薦」だとか「模試」だとか、受験生なら聞かない日はないだろうという言葉の数々。それらが俺の鼓膜を揺らす度、焦燥にも似た劣等感が胸の内で渦を巻いた。


 ようやく気が付いた。今の俺は全てにおいて周りに出遅れている。

 つい数日前までは、呑気に自分の好きな事に没頭できていたのだ。したいことを、したいように、したいだけする──そんな身勝手を成し遂げられてしまうほどの口実と大義名分を十分に持ち合わせていた。


 それらが打ち砕かれた今、俺はただ過去の栄光にしがみついてるだけの惨めな男だった。

 そう自覚してしまうことが、なにより虚しかった。


 ──本当によく頑張った。お前の努力とこの経験は、お前にとって、絶対に無意味じゃない。どうか気を落とさず、誇ってくれ──


 先週末のこと。結果的に引退試合となった選手権大会後、一旦学校にもどってからサッカー部全員でミーティングを行った際、顧問にして監督の宗沢むねさわ先生に言われた言葉がフラッシュバックした。




 六月下旬の朗らかな日の光を受ける教室は、志望校に向けて過去問を解いたり推薦入試だからと余裕垂れ流して雑談に花を咲かせている生徒など様々であった。端の方では数人の生徒が歌うバースデーソングが聞こえる。今日も誰かが誕生日を迎えたようだ。



 教室や職員室がある学習棟と体育館棟とをつなぐ渡り廊下。二階にある、その丁度真ん中くらいの壁に取り付けられた窓からは、公立高校にしてはやや広めの校庭がのぞめた。


 放課後のことだった。眼前に広がる校庭では、渦のように数多賑わう運動部の生徒たちの活動の様子が窺えた。

 窓を開け、腕を窓枠のレールにのせてその様子を眺める。数日前までは自分もあの集団の中にいたはずなのに、彼らの元気な掛け声が、どこか現実を離れた遠い世界から聞こえるもののような気がした。


「あれ、しなじゃん」


 右斜め後方からの声。丁度振り向いたとき、彼女と目が合った。


「ああ、よつか」


「何こんな所で黄昏たそがれてんの?」


 その声音はただ純粋な疑問というより、若干小馬鹿にするようだった。特に言い返す必要性もなかったので「別に」とだけ返す。


 四谷が俺の右側──二枚の互い違いに配置されたもう片方のスライド式の窓を開け、俺と同じように外を眺め始めた。


「部活は、もう引退したんだよね?」


「うん、そりゃあね。でなきゃキャプテンともあろう人がこんなところにいるはずないし」


 もっとも、今となっては『元』キャプテンだが。


「行ってあげなくていいの?」


「行くって?」


「部活。三年生がいない初日でしょ。下級生たち、色々不安なんじゃない?」


「大丈夫だろ、あいつらなら。平気でキャプテンをイジってくるような奴らだぜ」


「だからって不安がないわけじゃないと思うけど……」


「いいんだよ、俺は。引退した三年はもう用済み。俺はむしろ、もっと自分のことを心配するべきなんだよ」


 ちらりと、彼女の視線がこちらに向くのがわかった。無言で見つめられてる。

 いくら内心の空模様が危うくたって、これ見よがしに悲しげな表情をするのは何か違うと思い、視線だけ彼女の方に合わせ「気にしなくていいよ」とだけ言う。


 そもそも俺と四谷はさして仲が良いわけでもない。顔を会わせればちょっとした言葉は交わすものの、これといって共通の何かがあるわけでもない。同じクラスの顔見知り程度の関係だし、そう誰彼構わずわざわざ悩みを告白するような弱さを見せることもない。


 甲高い笛が遠くで響く。掛け声がみ、生徒達が同じ方向に向かってぞろぞろ流れていく。掛け声の余韻が静寂と共鳴して辺りに漂う。


「私ね、今日誕生日なんだ」


 唐突、それは果たして独り言なのか。誰かに語りかけるというより、ただそこにある事実を事実のまま声に出しただけのようにも思える。


「……そうか」


 一応、ぎりぎり聞こえるであろう声量で応えた。

 なるほど、今朝教室で聞いたバースデーソングは彼女に対するものだったのか。


「そこは、『おめでとう』とか、お祝いの言葉とか言うんじゃない?」


「……それがめでたいかどうかは、俺には分からないし……」


 ささやかな言い訳のつもりだったが、これは意外と本心かもしれないと思った。


 十八歳。法律上では成人。世間ではもう大人として扱われる年だ。


 大人になるということは、一人前の人間として社会の中に所属する事ともいえる。成人式というものが執り行われるように、一人前の人間としてできることも増え、『自分』という存在の意義を、個性を認められ、祝福される。

 だけど、本人にとってはどうだろう。

 絶対に止まらない時間の中流されるまま生きていたら、いつのまにか成人を迎えていた。あるいは、大人に求められる生き方、責任に怯え自己否定に陥ってしまうかもしれない。そう考えてる人にとって、「成人おめでとう」は、果たして適語と言えるだろうか。

 そして、ならば俺は一体──。


「……そっか、もう大人なのか」


 気付けばこんな事を訊いていた。


「大人になってみた感想はどう?」


「全然、いつも通りだね。何も変わんない」


 やっぱりそういうものなのだろうか。言葉通り、彼女の態度や口ぶりも普段と違いは見えない。


 日付を跨いだ瞬間に突然、視界の色が変化するわけではない。地続きの時間の中、世界はアナログ的な変化を常に続けている。


 だけど間違いなく、今横にいる彼女は『大人』なのだ。少なくとも、社会で成人と呼ばれるくらいには。


 ──大人って何だろう。


 大人、成人、親、先生、上司、先輩──いろんなものが想起される。自分より目上の存在。俺の思う大人って、何だろう。


 彼女は、『大人』だ。小さい頃から見た、何でも一人でできて、何でも知っていて、子供の自分では絶対に逆らえないように感じていたあの大人たちと、同じ──。


 俺は、どんな大人になりたいんだろう。


 どんな大人になりたかったんだろう。





 たまに、こんな夢を見る。


 この学校のサッカー部のキャプテンとして試合に出ている。『試合に勝つ』。その明確な目標のため、全力で声を出し、走っている。だけど瞬間、辺りが霧に包まれたようにぼやける。

 どこかからの叫び声。宗沢先生だ。監督として、未熟なキャプテンに道標を示してくれた、俺が信頼している数少ない『大人』。

 その声が指し示す場所はどこだろうか。気付けば視界は真っ白で、自分がどこにいるのかもわからない。何をしたらいいのかもわからない。

 ゴールが見えない。森林に独り放り出された仔鹿のような気持ちだった。目指すものを、見失ってしまった。


 目を覚ました。いつもの自室。五感が覚醒していく。だけど、矢印の定まらない感覚は、まだ残ったままだ。





「どうするかはお前しだいだけど、俺は圧倒的に推薦を勧める」


 どんよりとした空模様の日だった。世界を覆う薄気味悪い雲が、まとまらない将来への不安を余計に煽っている。


 自分のことが、どんどん分からなくなっていく。サッカー部に所属しキャプテンだったあの時までは、進路なんて概念は他人事だと思って過ごしていた。俺はただボールを蹴っていればいい。その環境も、権利も十分に整っている。他のことを気にする必要なんてなかった。


 二人だけの静かな教室。進路についての二者面談を夏休み前にするということで、放課後の時間を使って宗沢先生と向かい合っていた。

 時が止まったような静けさ。どちらかが喋らなければこの空間は意味を成さない。それを理解してしまえば、しかし容易に口は動いてくれない。友達との雑談でもなければ、つまらない独り言を述べる場でもない。ここで発する言葉は全て『自分の意見』として仰々しく空気を揺らし、相手へ伝達される。難しく考えなくていいとはわかっているけど、自らの一言一句にとてつもない重責を背負わされたような気がしてしまう。


「実際に複数の大学からも声がかかっているんだ。挑戦する気があるなら、俺だって喜んで協力するさ」


 俺の反応が芳しくないのを加味してか、さっきより口調が明るくなった。だけど、「気を遣わせてしまった」という気持ちが、余計に俺の口を閉ざしてしまう。


「今さら、一般ってのも遅いですよね……」


「なに、一般で行きたいとこあんの?」


「いや、それはないですけど」


「てか、そもそもあれだな。お前ははさ、サッカーは続けるつもりなのか?」


「他にやりたいこともないので、まあ」


 続けます、とはっきり言えればどれだけよかったか。今さら進路について頭を悩ませるなんて。

 将来これといってやりたいことはない。見つける気もない。「ならば」の消去法で進路を決めるというのは決して良案ではないだろうけど、おそらく俺に残された道はそれしかないだろう。


 部活を引退して、周りの受験モードを全身に浴びている内に、怖じ気づいてしまった。そんなこと、自分がキャプテンを務めた部活の顧問に言えるはずもなかった。


「まあまだ時間はあるし、ゆっくりは出来ないだろうけど、悩めるうちにたくさん悩むのもいいと思うぞ」


 今日もまた、結論を先延ばしにした。



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