【短編】おしっこ

お茶の間ぽんこ

おしっこ

「ナオちゃん、あの人すごく美人だね」


「うん、私たちも大人になったらあんなキレイになれるのかな」


「わかんない。でも大人の女性ってオケショウをしているからキレイに見えるらしいよ」


「オケショウ? ああ、ママがお出かけするときにするアレね」


「そうそう。ねぇ今度さ、二人でオケショウしてみない?」


「いいね! じゃあお母さんのを借りてこようか」


「こっそり、ね。じゃあまた明日!」


「うん、ばいばい!」



 小さい頃の夢を見た。横田マコト——マコちゃんと一緒にメイクをしたときの記憶だ。


 時計を見る。もう七時十五分だ。朝ごはんを食べている余裕はない。


 私は洗面台で髪を整えた後、軽くナチュラルメイクをした。ファンデーションで薄づけして、ビューラーであげたまつ毛にマスカラをつけるだけ。リップはバスに乗ってるときにでもしよう。


 ああ、もう昨日ユウトと夜遅くまで電話してたからだ。


 バス停まで走ってギリギリ七時三十分発の便に間に合った。これで遅刻はまぬがれた。


 停留所で待っている会社員だとか他校生だとかは白い目をこちらに向けてきたが何食わぬ顔でバスに乗った。


私はスマートフォンの内カメで確認しながら口紅を塗った。うん、まあ校則が厳しいから派手なメイクができるわけでもないし、これぐらいの仕上がりなら大丈夫。


LINEを開けて通知を見ると、ユウトから「ナオ遅刻すんなよ」とメッセージを送られていたので「ぎり間に合った猛ダッシュ死んだ。無遅刻無欠席は死守した()」と適当に返した。


男子はメイクをしなくていいけど、女子はメイクしないだけでイモくさいだの非難されるのだからたまったもんじゃない。


他に溜まっていたLINEを返したりInstagramを見ているうちに私の高校に到着した。



「お、ナオ。ちゃんと来たじゃん」


 私が自分の席に座ると私の机に座って飲みかけのカフェオーレの紙パックを置いた。


「ユウトは朝練終わり?」


 ユウトのカフェオーレをしれっと飲む。彼はちらっと見てきたが当たり前のように流す。


「おう、今日はグラウンド十周させられたわ」


「陸上部って相変わらず走ってばっかりだね」


「案外気持ちいいぜ。ナオも今度体験入部で来いよ」


「流石に二年生になって入るのは厳しいわ。それに私はバイトで忙しいから」


「そんなんじゃシンデレラ体重は夢のまた夢だな」


「ちょっとユウト!」


「冗談さ」


 ユウトと他愛のない話をしていると予鈴が鳴ったので彼は自分のところに戻っていった。


 彼とは小学生以来の付き合いで、高校生になってからどちらから言い出したか忘れたが正式に交際することになった。カップルになっても昔のままの関係性が続くのかなと思っていたけれど、ユウトの何気ないボディタッチや些細で好意的な言葉などを受けたときに幸せに満ちる心地がしていた。


ユウトと付き合って楽しいし、友達とも仲良くやっているし私はとても幸せ者だ。そのはずなのだが、どうしても引っかかっていることがあった。


 同じクラスの横田マコトだ。マコトとも小学生の頃から知り合いだ。マコトとは昔は仲良しだったが小学校のある事件がきっかけで関わらなくなった。今ではマコトはいつも独りぼっちで、マコトの方に目をやる度に私はなんだか心苦しくなる。あの明るかった子が前髪を目まで伸ばしきっちゃって、クラスメイトが話しかけてもぼそぼそと喋るし、カースト最下位の典型に成り下がっている。


 ホームルームの時間になり担任の歴史教師の北条が事務連絡を済ませる。そういえば一限目はそのまま北条の授業だ。今日は全然眠れてないし仮眠をとるには都合が良い、どうせテスト範囲も教科書の内容メインだし。ああ、机に伏せただけでもう秒で寝れる、おやすみ。



「ナオちゃん、ナオちゃん」


 私を呼ぶ誰かの声がする。幼い声だ。


 目を開けて声の主の方を見る。マコトだった。いや、小学生の頃のマコト。


 周りを見渡す。見覚えのある教室。ずっと前に見覚えがある教室。外は橙色に染められていた。


「マコちゃん?」


「もう明日は運動会だっていうのに。ナオちゃん揺すっても起きないんだから」


 マコトは頬をプクッと膨らましてみせる。綺麗に一直線に切り揃えられた前髪の彼女は新鮮だ。


 どうやらここは小学校であり、小学生時代に戻ったみたいだ。タイムスリップ?いやそんな非現実的なことはあり得ない。恐らくここは夢なのだろう。


 昨日の夢といい、私はマコトのことが気になっているようだ。夢はそのときの心理状況を模すという。


「ごめんごめん。だって誰もいない放課後の教室って、静かで寝心地が良いんだもん」


「私がいるじゃん!」


「ああそうだったね。帰ろうか」


 私の適当な言い訳にマコトは吐息で前髪を上げて怒ってみせたので机の横にかけられたランドセルを背負ってマコトの背中を押すようにして教室から出た。


 学校帰りの通学路。通学帽とランドセルをまとった私たちの影のシルエットは昔を思い出させてくれ、私の中を形成する大切な記憶だということが分かった。


「運動会の競技、何が楽しみ?」


 マコトが問いかけてきた。


「なんだろう。私は玉入れかな」


「えーなんで?」


「先生が入った玉を数えるとき上に向かって投げてカウントするじゃん。あのドキドキ感も好きだけど、最後の一つをこれでもかっていうぐらい高く投げるのを見るのが好き」


「そこ!? ナオちゃんって変わってるね」


「大人な女性は人とは違う見方をするものよ」


「大人な女性…! た、確かにね! じゃあ私も玉入れ好きかも!」


「じゃあ、って何よ」


 マコトは大人な女性という言葉に弱い。憧れを持っているのだろう。


 別に玉入れが好きじゃないし、先に言ったマニアックな楽しみ方をしているわけじゃない。本当は徒競走とかが好きだ。でも、マコトの前でその種目を口にするのは何だか気が引けて言えなかった。


「でも一番の楽しみはねー、やっぱりリレーかな」


 私はその言葉に顔を強張らせた。そんなことはお構いなしにマコトは給食袋を跳ねさせて私の前方を走ってみせた。


「そ、そうなんだね」


「だってね、ナオちゃんから同じ組でバトン貰えるし、それに私がアンカーだからね!」


「マコちゃんは足が速いもんね。きっと一等賞だよ」


「そう? えへへ、毎日お父さんに走り方を教えてもらってるんだ。頑張ったから一番になりたいね」


「うん、そうだね」


 マコトは私に屈託のない純粋無垢な笑顔を見せる。それが私の心を抉りとるようだった。


 運動会のリレーでマコトは粗相を起こす。皆の前で失禁してしまうのだ。バトンを落として途中で泣き出すマコト。ショートパンツから滴り落ちる液体。哀れむ声や嘲笑の声。私は酷く落ち込むマコトに声をかけることができなかった。それからマコトはクラスで日陰者となり男子や女子から馬鹿にされ、自然と私とは疎遠になっていった。


 あのとき私はマコトをどうして慰めたりできなかったのだろう。これは私の罪悪感を刺激する自傷的な夢なのだ。


 私は何も知らない無邪気なマコトをよそにボーっとした。


「ナオちゃん? どうしたの、体調悪い?」


 そんな私をマコトが心配そうに見つめてくる。


 やめて、私はあなたの側にいてあげられなかったんだから。


「…ううん、大丈夫。明日が、楽しみだね」


「うん! 頑張って赤組優勝しようね!」


 そうして私たちはそれぞれの家路についた。



 これは長い夢だ。家で夕食を食べてお風呂に入ってテレビを見て寝たら醒めると思ったのに、運動会当日の朝を迎えた。


私は私にもっと苦しめとでもいうのか。それだったら、私は未来を知っているからこそできることがあるだろう。マコトがあんなことにならないように私が見守ってあげればいいのだ。


これはマコトを救うための夢であり、自分を救うための夢でもあるのだ。


私はお母さんに作ってもらったお弁当をカバンに入れて体操服で学校に向かう。


「よっ! ナオ」


 後ろから男子の声が聞こえた。振り向いたらユウトがいた。幼くて、この頃は私より背が低いユウト。


「ユウト、おはよう。晴れて良かったね」


「そうだな。俺は白組でお前は赤組だから、今日は敵同士だな」


「敵同士って、そんな大げさな。まあお互い楽しもうよ」


「ああ。そうだ、お昼ごはん一緒に食べようぜ。確か自由に動けるだろ」


「いえ、私はマコちゃんと食べるわ」


「…またあいつか。あんな気持ち悪いやつと仲良くするのはよした方がいいぞ」


「マコちゃんのこと悪く言わないで」


「そんな悪く言ったつもりはないけどね」


 マコトのことを悪く言うユウトを睨みつけると彼は両手をあげてみせた。



 私たちの学年のリレーは午前の部ラストにある。ここまで何事もなく首尾よく競技が進んでいった。隣にいるマコトも赤組が勝ったり負けたりで一喜一憂して楽しんでいる様子だ。


「次はリレーだね。今のうちにお手洗いに行っておこうよ」


「そうだね。実はちょっと我慢していて…」


 私はマコトを連れてトイレに向かった。


 それぞれトイレに入り、ドアを開けて用を足す。トイレから出ると外でマコトがすっきりした顔で待っていた。


これであの悲劇は起こらないだろう。


 私たちは赤組の観客席に戻って自分たちの番になるのを待った。


「横田、ちょっと良い?」


 白組の男子がマコトに話しかけてきた。


「な、なに?」


 マコトは少し困った顔をして答えた。男子はマコトを連れてどこかに向かっていった。


 私は不審に思ってマコトたちの後をつけることにした。


 マコトたちが向かった先は校舎裏の水飲み場だった。何人かの男子たちもいた。


 壁に隠れて耳を傾けるとマコトが問い詰められているようだった。


「お前、気持ち悪いんだよ。どうして女みたいに振舞うんだ」


 聞き覚えのある声だ。声の主の顔を見る。


 その男子は、ユウトだった。


「そ、そんなの私の勝手じゃん」


「横田がナオと一緒にいたらナオまで気持ち悪いって言われるんだぞ」


「そ、それはそう思う人たちに問題があると思う…」


「オカマをなおすつもりがないならナオに近づくな」


「む、無理だよ。用事って、それだけ? もうリレー始まるから行くね」


 マコトがユウトの前から去ろうとすると男子たちがマコトの腕を押さえて羽交い締めにし、蛇口の下に彼の顔を押しつけた。


「水をいっぱい飲んだ状態で走ったらどうなるんだろうな」


 ユウトは蛇口をひねってマコトの口を強引に開けた。


「ぐぼっ、や、やめ、で」


 マコトは必死に抵抗しようとするが口に水が入って喋れなくなっていた。


 見ていられなかった。


「ユウト、やめなさいよ!」


 私はユウトの体を押しのけてマコトの腕を引っ張り男子たちをかき分けた。


「ナ、ナオ」


「そんなことをするなんてひどいわ! ユウトなんて嫌いよ!」


 ユウトに捨て台詞を吐き、私はマコトを連れて走り去った。


 男子たちが見えなくなったところで私たちは足を遅める。


「マコちゃん、大丈夫だった?」


 マコトは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。無理もない、あんなことをされて平然でいられる方がおかしい。


「う、うう。ありがと、ナオちゃん」


 マコトはせいいっぱい涙を拭った。


「ごめんね、私が一緒にいなかったから」


「怖かったよう」


 泣いているマコトの背中をポンポンと叩いてあげる。


 でもこれでマコトに降りかかる悲劇を避けることができたのだ。


 私は彼を救うことができたのだ。


 そう思うと、私の目からも涙が零れ落ちた。


「なんでナオちゃんも泣くの?」


「どうしてだろうね、おかしいね」


 私は涙を拭い、マコトに笑ってみせた。


「でも、どうしてあのときも助けてくれなかったの?」


「え?」


 マコトは急に真顔になって私を冷たい目で見てきた。


「どうして、あのとき私が男子たちに水責めされているとき、知らんぷりしたの?」


「どういう、こと?」


「私、知っているんだよ。私が男子たちにあんなことされてるとき、ナオちゃんが見ていたの」


 え。え。え。


 記憶が蘇ってくる。ずっと背けていた記憶。


 そうだ、私はあのシーンを見たことがあった。


 でもあのときは、ユウトに嫌われたくなくて。


「それは、その」


「私、一生トラウマを抱えて誰とも仲良くできなくなっちゃったの。どうすればいい?」


「あ、あ」


「ナオちゃんは、今でも友達でいてくれる?」


「あ、ああ、あああ」


 マコトのショートパンツから滴り落ちる液体。強烈なアンモニア臭がした。


 私の中がぐちゃぐちゃになっていく気がした。


 虚像の晴天がどんどん真の様相を見せる。暗雲が私を蝕んでいく。光が差したと思ったのに。


 私の中が全て漆黒に包まれた。それを自覚したとき、私は背徳感で絶頂に達し、マコトのように尿を垂れ流した。


ああ、気持ちいい。



 目が醒めた。周りは鬱陶しいノイズのように騒めいている。


 スカートの辺りが湿った感触がする。


 覚えがある匂いがする。あの強烈なアンモニア臭。


 私は自分のスカートに目をやった。股間周りが黒く染まり、床のタイルに滴り落ちている。


 クラスメイトの侮蔑の眼が私に降りかかる。


 しかし、その中に一筋の好意的な眼が向けられていることに気づいた。


 私は小学生以来、初めてマコちゃんと目があった。

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