第185話 変わっていない

「……ダメだよ、ラフラ」


 鋏を振り上げてるラフラへ声をかける。


 最初から、今日は嫌な予感がしていた。朝、ベッドから起きてすぐ。


 それが明確な確信へ変わったのは、昼頃。教室からリリアが出ていった時だ。


 理由なんて大したことじゃない。トイレくらい誰でも行く。


 学校だから気を抜いていた。ラフラにダメージを与えられたからすぐには行動しないと油断していた。


 その結果、俺はなんとなく彼女のあとを追いかけた。


 我ながら気持ち悪いと思うが、なにもなければそれでいいと思った。


 ——しかし。


 問題は起こる。リリアの対面にラフラが立っていたのだ。


 しかも手には凶器になりえる鋏が握られていた。


 それを振り上げているものだから、急いで俺はふたりのそばへ駆け寄る。


 そして、なかなか振り下ろさなかったラフラへ声をかけた。


「それをしたら、もうキミは戻れない。二度と、俺と話すことはおろか、外へ出ることだって不可能になる」


 ラフラの手を握る。ゆっくりと握られた鋏を奪い取った。


 すると、彼女は膝から崩れ落ちる。


 静かな廊下に、彼女の泣き声だけが響いた。


「なん、で……。どう、して……! ラフラだけが、選ばれない、の? ラフラは、なにをしてでも……どうなって、でも……! マリウス様に見てほしかった!」


 痛いくらいの慟哭が耳をつんざく。


 やり方はどこまでも間違っていたが、彼女の、ラフラの気持ちは本物だ。


 ただ俺が好きなだけ。俺がそれを受け入れられなかったからこそ、彼女は暴走してしまった。ある意味で俺のせいでもある。


「それだけだったのに! それだけだった、のに……。気付いたら、ラフラの手にはなにも残りませんでした。愛情も、信頼も、友情も、なにもかもが……」


 止まらない。ラフラの涙は止まらない。


 溢れては自らの胸に秘めた罪悪感を垂れ流す。


 ——知っていた。


 彼女は本当は、昔からそこまで変わっていないことを。


 俺と知り合ったことで少々性格はキツくなったが、それでも優しいところは昔のままだ。


 最後だって、やろうと思えばリリアを傷つけることも殺すことだってできた。


 俺が見つけるより先に、鋏を刺すことができた。


 けど、できなかった。


 リリアにいくら憎しみを持とうと。ここまで足を進めてもなお、最後の最後でラフラは止まった。


 罪悪感と劣等感。苦しみと後悔。優しさと……哀しみ。


 抑えきれないほどの激情を抱えて、ラフラは決意をふいにした。


 振り下ろせなかったのだ。そこまでして手に入るものなど何もないことを知っていた。思い出せた。


 だからこそ、彼女は涙を流す。今さらながらに、過去を振り返って懺悔した。


 言い訳と子供みたいな泣き言の中には、彼女らしい「ごめんなさい」が込められている。


 俺にはわかる。これでも昔からの付き合いだからな。


 共有した時間は少ないけれど、それくらいはわかるよ。


「でも、ラフラは自分の意思で止まれたじゃないか。一線を踏み込めることはなかった。それはとても立派なことだよ。たしかにこれまでの行いは許されない。きっと誰も許さない。けど、それだけは知っておくといい。ラフラは、正しい判断ができたんだって」


「マリウス、様……」


 俺だけは彼女の正しさを肯定する。たとえ甘いと言われようが、いまのラフラは間違っていない。


 犯罪者にならずに済んだんだ。それはとっても偉いことだと思う。


 犯罪さえ犯さなければ、彼女はまだ救われる。救われていい存在なんだ。


 ぽろぽろと零れる涙を指で拭う。赤く腫れた目元を優しく撫でると、俺はなるべく明るく笑った。


「さあ、ラフラ。反省しよう。後悔しよう。猛省しよう。まだまだ泣きたいことだらけだけど……しょうがないから、少しくらいは力を貸すよ。それが、俺にできるせめてものケジメだから」


 そう言って彼女の腕を引っ張って立たせる。


 辛うじて彼女は立ち上がることができた。徐々に後ろめたい気持ちを増幅させながらも、俺やリリアを見つめる。


 すると、そこでリリアが動いた。


 怒るでもなく、笑うでもなく、彼女は真顔のままラフラへ近付く。


 逆に俺は離れた。リリアからただならぬ気配を感じたから。


 そして——。




「————ッッ!?」


 パアァッン! という、乾いた音が響いた。


 リリアの右手が、ラフラの頬を叩いたのだ。

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