第139話 日常が戻る
グレイロード公爵邸に帰った。
およそ一ヶ月ぶりに見た大きな建築物は、一瞬、そこが自分の家だということを忘れさせる。
見上げるほど巨大な二階建ての屋敷を数秒ほど眺めたあとで、俺はリリアたちと共に正門の内側へと向かった。正門の前には、グレイロード公爵邸を守るふたりの男性が立っている。俺が近付くと、二人の視線が同時にこちらへ注がれた。
俺と、なにより隣や後ろに並ぶリリアたちを見て……はっきりと聞こえる声で、「マリウス様!?」と男たちは叫んだ。
やや苦笑いを浮かべて、手を振って答えた。
「た、ただいま……。すまない、帰るのが遅くなって」
黒色のシンプルな門を警備する男性たちの前まで歩み寄ると、彼らは目玉が飛び出しそうなほど俺の出現に驚きながらも、こくこくとゆっくり頷いて、半ば放心した様子で呟いた。
「……お、おかえりなさいませ……マリウス、様……」
罪悪感に蝕まれた俺は、少しだけ彼らと会話を交わす。およそ十分ほどで話を打ち切ると、さっさと荷物を置きに行くために敷地内へと足を踏み入れた。真っ直ぐに伸びる直線を歩き抜き、懐かしい正面扉を開ける。
ぎいっ、という音を立ててドアが開くと、まず真っ先に、一階にいた数名のメイドたちが一斉にこちらを向いた。そして、全員がなにも発さない。ジッと俺の顔を見つめたまま、その場に立ち止まっていた。
痛いくらいの静寂が妙に怖くて、俺のほうから彼女たちに声をかける。
「た、ただいま……」
口から出た言葉は、先ほど話した男性たちへのものとなんら変わらない。シンプルがゆえに、彼女たちにすんなりと伝わる。急に家を飛び出していったマリウスが帰ってきた、と。
——直後、屋敷が震えた。
爆弾でも落ちたかのような轟音を響かせて、彼女たちの姦しい叫び声? が室内どころか外にまで届く。
鼓膜が破れるかと思ったが、耳を塞いでる暇なんてない。次々と掃除道具などを手放して、メイドたちが一斉に俺のもとに殺到してくる。
誰も彼もが目元に涙を浮かべて、「マリウス様! ようやく戻られたのですね! ずっとずっとお待ちしておりました!」と、良心にナイフを振りおろす。
グサグサと精神に特大のダメージを負いながら、それでも俺は、瞳を伏せて彼女たちに謝罪した。言い訳もせずに素直に謝った。
メイドたちは、俺を怒るでもなく説教するでもなく、ただ純粋に、心の底から嬉しそうに笑って迎え入れてくれた。「おかえりなさい」と言ってくれた。それが嬉しくて、気恥ずかしくて……少しだけ照れたのは秘密だ。
しかし、なぜかティルだけはメイドたちに囲まれて怒られていた。かすかに聞こえてくる声を拾ったかぎりだと、なんの相談もなく勝手に、しかも俺について行ってずるい! とかなんとか。
まあそれに関しては、俺はなにも言えない。ティルがいてくれたおかげで助かりはしたが、かと言ってティルが俺についてきたのは本当にイレギュラーだったし…………うん、ごめんねティル。
助ける手段が思い浮かばなかったので、心の中でメイドたちに囲まれるティルに頭を下げた。
次いで、哀しき専属メイドのことは忘れてリリアたちとともに二階の自室に向かう。旅先に持っていった荷物を適当に置いて、クローゼットの中身を漁って着慣れた服に着替える。着替え終えると、そこでようやく「帰ってきたんだ」という感想を抱いた。
短いため息をついてベッドに転がる。
この場にはリリアたちもいるが、誰も俺の行動に文句を言わない。ただ「ふふ」という笑い声だけが聞こえる。
顔を上げると、その場の全員が俺のだらけきった姿を見ていた。急に恥ずかしくなって体を起こすと、改めて、彼女たちに感謝を告げる。
「……みんな、改めてありがとう。わざわざ俺のことを探しに来てくれて。俺を心配してくれて。俺を受け入れてくれて……。みんなのおかげで、こうして無事に帰ってくることができたよ」
「当然です。私はマリウス様の妻ですよ? あなたが嫌だと言っても無理やり引っ張って帰ります。それが義務というものです」
「まだ妻じゃないでしょ……。まあ、リリアの気持ちには賛同するわ。マリウス、あなたの帰る場所はここよ。ずっとあなたの帰りを待っている人がいるの。それだけは、覚えておいてほしいかな」
「マリウスくんがいないと、寂しくてうまく笑えないよ。マリウスくんがいるから、毎日が楽しいんだよっ!」
「もう、勝手にどっかいかないで。なにもいらないから、ただ、そばにいてほしい」
「普段は私たちが迷惑をかけてますし、実際に私たちのせいなのでとやかく言う資格はありませんが……それでも、私たちはマリウス様の味方です! フォルもそうだよね?」
「……そうね。公子には返せないほどの恩がある。個人的にも、あなたに消えられると困るわ。あまり、ティアラと私を心配させないでね?」
リリアが。セシリアが。フローラが。アナスタシアが。ティアラが。フォルネイヤが次々に嬉しい言葉を伝えてくる。内側に込められた感情まで読み取れると、思わず泣きそうになった。
グッと、うれし涙を我慢しできるだけ笑顔を保って俺は言う。
「本当にありがとう、みんな。もう二度と、勝手にどこかへ行かないと約束するよ」
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