第134話 ちょっと婚約者が怖い

 ネアと別れ、自宅へ帰ろうと振り返った時、十メートルほど後方にリリアが立っていた。


 俺は冷や汗を垂らしながら彼女に尋ねる。


「あ、その……いつからそこに……?」


 おそるおそるといった俺の質問に、リリアは微笑みを浮かべて言った。


「何やら紫色の髪の女性が立ち去ったほうから、マリウス様がいるなあと」


 つまりネアが俺にキスをして逃げ出した? ところをたまたま見つけたのか。だとしたら決定的なシーンは見られていないはず。


 いまにも張り裂けそうなほどの心音を必死に抑え、俺は努めて冷静に対処する。


「そ、そっか……おはようリリア。まだ朝早いのに早起きだね、リリアは」


「マリウス様ほどではありませんよ。ところで……先ほどの方はどちら様でしょうか? どうせいつものように誑し込んだ相手なのでしょう? どんなお話をしていたのか、妻である私にお聞かせ願えますよね?」


 雑草を踏みしめてリリアがこちらに迫る。ゆっくりとした足取りのはずなのに、妙な迫力と圧を感じた。


 まだ妻じゃないよね、という突っ込みを喉元で辛うじて呑み込み、頬を引きつかせながらも苦笑する。


「た、大した話じゃないよ」


「では話しても問題ありませんね」


「そのとおり」


 ダメだ。話題を変えよう作戦は即行で失敗した。次の作戦に移る。


「えっと……彼女はネア。この村の村民で、猟師の子なんだ」


「猟師? 遠目からでも若い方だと思ってましたが……意外ですね。でも、それとマリウス様になんの関係が?」


「この村に滞在しているあいだ、俺は彼女とその妹の三人で猟をしてたんだ。いろいろと教わったりした。それで、俺が村から出ていくのが寂しいって……」


「へぇ……なるほど」


 最後に余計な一言を付け足してしまったな、と思う頃にはすでにリリアの目付きが剣呑なものに変わっていた。やや黒くなった瞳でネアが立ち去った方角を睨む。


 いくらなんでも一般人を襲ったりしないだろうが、念のために補足しておく。


「言っとくけど、彼女とはなにもないよ。ただの友人ってだけ。それに、俺にはもうリリアがいるから」


 そう言って彼女を優しく抱きしめた。柔らかな感触とリリアらしい爽やかな香りが鼻を突き抜ける。


「も、もう……マリウス様ったら、いつの間にそんな素敵な言葉を言えるようになったんですか? 感動します」


「これからはリリアにしっかりと想いを伝えていきたいからね」


「マリウス様……」


 抵抗することなく彼女は俺の胸元に頭をあずける。そこで、ふいに下方から「すんすん」という音が聞こえた。


 その瞬間、俺の背筋に嫌な悪寒が流れる。


 同時に、地の底から響くような低い声が胸元から湧いてきた。


「この匂い……どういうことですか、マリウス様? マリウス様とは違う匂いがします」


 びく————ん!!


 比喩ではなく本当に心臓が跳ねたような気がした。


「え? え? 匂い? ……ああ、きっとティルかアナスタシアじゃない? 一緒に寝たし……」


「それは外に出る前でしょう? なぜ、寝る前には着ていなかった上着から匂いが? それも、アナスタシアさんやティルノアともまた違った匂いですよね? これ」


「なん、で……」


 それを、とまでは声が出なかった。


 寝る前に上着を着ていなかったことを知ってるのはわかる。だが、どうして彼女はアナスタシアとティルの匂いまで熟知してるんだ? さも当然のように俺が知らない女に抱きつかれたと思えるんだ?


 …………ああ、そうか。これが日頃の行いってやつか。


 過去を振り返ってあっさりと自分の罪を認めた。認めてみるとあっけないものだ。


「実は…………」


 とうとう深淵もかくやというほど黒くなった彼女の瞳を見て、俺は観念したように先ほどの件を話す。


 帰る前から波乱の予感がした。

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