ティルノア・クラベリー短編『あなただけのメイド』
ティルノア・クラベリー。
ティルノア。
それが私の名前だった。世界で最も大切な人がつけてくれた名前。
私の家は裕福とは言えなかったが、特別貧乏でもなかった。母がグレイロード公爵家でメイドとして働いていたからだ。
娘と二人で食べていけるほどの給料は貰っている。
だが、私は幼くして母の背中を見て学ぶ。母の伝手で、グレイロード公爵家で働くことになったのだ。
使用人見習い。
まだまだ子供にできる程度の雑用をこなすだけ。楽しくはなかったが、つまらなくもなかった。
そんな日々を過ごしていると、グレイロード公爵家に奇跡が生まれた。
お世辞にも人がいいとは言えないグレイロード公爵と夫人の間に、子供が産まれた。
名前はマリウス様。
マリウス・グレイロード様。
赤子のマリウス様を見たとき、私は一目で心を奪われた。
この世に、あんな可愛い生きものがいるのかと倒れそうになった。
どうにか両足に力を入れて耐えたが、心臓はバクバクとうるさい。顔も熱く正常ではいられなかった。
それからの日々は、マリウス様の身の回りの世話をするメイドの一人としての日々がはじまる。
私はマリウス様と
嬉しかった。
自分が子供であったことをあそこまで喜んだことは、人生で一度きりだろう。
何より、無邪気に私に笑顔を向けてくれるマリウス様が……本当に可愛かった。
当然、グレイロード公爵家次期当主の世話をしたいメイドは多い。
私は疎まれるようになった。嫌がらせを受けることもあった。
けれど、そんなものは無視だ。あるいはひっそりと倍返し。
私はマリウス様のそばにいたい。成長したマリウスも、天使のような笑顔で「ティル、大好き!」と言ってくれた。
私のことを「ティル」と呼んでいいのは、名前をつけてくれたお母さんと、愛称を教えたマリウス様だけ。
その特別感が、よりいっそうこの気持ちを加速させた。
「ティル。パーティーでムカつく奴がいた」
「ティル。この料理、美味しくない」
「ティル。今日はお父様に秘密でこっそり家を抜け出そう」
ティル。ティル。ティルと呼ばれる度に嬉しかった。
周りの人たちはマリウス様がワガママだと陰口を叩いたが、子供なのだから当然だ。むしろ、甘えるように文句を垂れるマリウス様が可愛い。いくらでも、どんなワガママでも許せた。
しかし、そんなマリウス様に転機が訪れる。
あれは10歳くらいの頃だったか。
急に、マリウス様の雰囲気が変わった。
自分の思うがままに。自分の好きなように行動し考える人だったのに。ある日を境に、まるで別人のようになった。
表情には憂いを帯び。時折なにかに怯えるように顔を青くする。そのくせ、何事にも興味が薄く、それでいてなんでも出来た。
この頃からマリウス様を見る周りの目がさらに変わる。
ワガママで横暴な態度が消え、クールでカッコイイと頬を染めるメイドもいた。
違う。全然わかっていない。
たしかに大人っぽくなったマリウス様はカッコイイ。外見も両親……特に母親によく似た顔立ちは、成長するごとに色気を増していった。私もマリウス様を見るたびに胸が高鳴る。
だが、違う。
マリウス様の良さはそんなものではない。もはや存在自体が尊いのだ。
ワガママなマリウス様も。横暴なマリウス様も。可愛いマリウス様も。怠惰なマリウス様。
全部全部マリウス様だ。私は好き。
それに。いくら変わろうと……。
「なぁ、ティル。どうして俺は……こうも地雷ばかり踏み抜くんだろうな。不思議でしょうがない」
「それはマリウス様が軽率で、人の話を聞かず、割と適当だからでは?」
「うーん、真理」
あなたは私を「ティル」と呼んでくれる。
回数は減ったけれど、ちゃんと呼んでくれる。
私はそれだけよかった。それだけで満たされた。たとえ、あなたが私のことを見てくれなくてもよかった。いずれ、あなたが私の前から消えるとしても、私は構わない。
この瞬間を。今を。私は大切に守る。
それだけでよかったのに……。
「婚約……か。面倒だな」
「王女殿下がお相手なら、誰もが喜ぶのでは? リリア王女殿下は美しい姫君ですし」
「そうか? 綺麗なだけの女に興味はないよ。……まあ、リリアはたしかに良い女ではあるが……親しみやすさで言えば、ティルの方が俺は好きだな」
「さすがはマリウス様。このメイドの心を一瞬にして掴みましたね。脱ぎますか?」
「帰れ」
ああ。ああ!
どうしてあなたはそうやって……私の心を掴もうとするの?
手を伸ばしたところで無意味だと知ってるのに。焦がれたところで届かないというのに。
あなたは私を求めてくれる。こうして一緒に雑談を交え、私の言葉に返事を返してくれる。
どんな悪態をつこうと。どんな嫌がらせをしようと。あなたは私を見てくれる。
こんな気持ち……抱かない方がいいというのに。
「おっと。もうこんな時間か。そろそろ準備して出かけるぞ。みんな待ってる」
「おや。マリウス様と話してると時間の感覚がなくなりますね」
「なんだかんだ、一番長い付き合いだからなぁ、ティルとは。すっごい落ち着く……頼むから、俺の専属メイド辞めないでくれよ? ティルがいないと、俺の人生は色褪せる」
「…………もちろんです。私はティルノア・クラベリー。このグレイロード公爵家に。いえ。マリウス様に仕えるメイドなのですから」
そう言って私はいつもあなたの後ろに控える。
嬉しくて。
哀しくて。
楽しくて。
虚しくて。
ああ……世界で一番幸せな者は、きっと私でしょう。
この満たされた日常を。満たされぬ日常を。
どうか、永遠に。
ティルは……あなた様だけのメイドです。
昨日も。
今日も。
明日も。
今世も。
来世も。
いつだって。
お仕え。お慕い、申し上げます。
「メイドォ!! またリリアにチクッたな!? 助けろ! 後ろから鬼が剣を持って追いかけてくる……って、騎士団ごと連れてきた!?」
「愛されてますねぇ。……ちょっと。こっち来ないでくださいよ! 私まで追われるじゃないですかぁ!」
「「ぎゃぁああああ!!」」
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あとがき。
ガチで名前すら決めてなかったメイドが出世した。
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