二十一個めの、記憶の断片
後日、私は例の脚本を再度撮り直すことになる。何度かNGを出しながらも、何とか一日で収録を終えることができた。
しかし、そこにはもう何の感慨も存在しなかった。
かつての私であればあり得ないことの連続。悪い意味で気の抜けた収録。手抜き。無難に走ろうとする……かつて私自身が軽蔑していたはずの、スタイルの使用。けれどもプロデューサーはその中で最善の選択を取ろうとしてくれた。間違えたのは私であって、コンテンツではない。ましてシュペルエタンダールでもない。間違えたのはただ一人、私だけなのだ。
そうして仕事が上がって、私はまたいつものようにお酒を飲む。けれども、興が乗らない。ウィスキー・オン・ザ・ロックは座礁して帰ってこない。
この時の私の心の中で起きた作用が果たして何だったのか。後の私にも分からない。声優としての敗北と、その後の手抜きが酒を不味くしたのか。たんにその日の酒が本当に美味しくなかったのか。或いは、そうでなければ、これこそがその日起こる出来事の端緒、虫の知らせのようなものだったのか? 私には、分からない。
結局私は、一杯目のウィスキーを飲んで、二杯目にチャイナ・ブルーを飲み干して、軽く食事をするだけでバーを出た。
全く酔えない。酔っていない。酔いたい気持ちでも、なかった。普段よりも早い時間に私が電車に乗ったので、ちょうど帰宅ラッシュの時間にかち合い、私は久々に満員電車の人混みに揉まれることになる。
家に帰ると、ダイニングに本間敦が居た。
私はその横を、何も言わずに通り過ぎようとした。
「なあ」
彼はそう言った。私は久々に彼の声を聞いたような気がした。
「どうか、しましたか」
「話があんのよ」
彼は如何にも言いにくそうに話をする。これが演技だったらあまりにクサいのでNGが出るだろうと思うぐらいだった。
「話って、どういう話?」
私はそう聞いた。部屋は静かだった。外からは車のクラクションの音がする。外に居る鳥の鳴き声が、聞こえた気がする。
気のせい、かもしれない。今の私は通常の状態にない。
自分の心臓の鼓動音だけが太鼓囃子のように耳に響く。うるさかった。止まってしまえばいいのに、とも思った。
彼は言った。
「なあ、なっちゃん」
その言い方があまりにもぎこちないので、私は笑いそうになった。嘲笑しようという意思の存在しない嘲笑。これはきっと、一種の防衛本能がなそうとすることなのだろう。
「俺、気付いてたんだ。なっちゃんが違う男の人と会ってんの」
言われてしまえば呆気のないことだった。何も思わなかった自分自身を不思議に思うぐらいだ。
「いつごろ気付いた?」
「結構、前やな。具体的にいつとは言えんが、最近ではない」
「そっか」
私は素っ気なく、そう返した。そこに付随する感情は虚無。ただそこにある空白。
「なあ、なっちゃん」
「なんですか」
私はそう言った。まるであの頃のように。一緒に秋葉原へ初めて遊びに行った、あの日のように。
「俺さ。言いたいんだけど……あの人と付き合うのはもう、やめた方がいいって」
彼は話を始めた。長い話だった。
「あの人な、奥さんおるんよ。美人のさぁ、奥さん。そんで奥さん居るのになっちゃんに手ぇ出してな。他にも色んな女に手ぇ出してんのよ。そんで、しれーっとした顔で、一日で色んな女に会うんよ。なっちゃんもその一人で、なっちゃんと会った日に別の女に会ったりもするんよ。そういうのはさ、その……なっちゃんには良くないことなんだと思うんだ。だから」
「だから……なんですか?」
「だから、もうあの人とは会わん方がいい」
「……そっか」
「うん、そうよ。俺が言いたいことは、それだけだよ」
彼はそう言って、私の方を見た。綺麗な瞳をしていた。それが何やら心底腹立たしくて、腹立たしいのにそれを怒る気にもなれない。
「ねえ」
私は聞いた。彼は答えた。
「なんよ」
「君はさ」
じんわりと怒りが滲む。彼の目にではない。私自身と彼自身のその立場にこそ、怒った。
「君はそんなんで本当にいいわけ?」
「そんなんって何よ」
「だってそれ。悪いの全部、私じゃないですか。それ、浮気って言うんだよ。しかも不倫。君は今三角関係のトライアングルの一角にいるの。分かってる?」
「分かっとるよ」
「じゃあさ、他に言うべきことがあるんじゃないの」
「……それを言って、何になるって言うんだ」
「お言葉ですけど!」
私は叫んだ。どうしようもなかった。
「責めるなら責めてよ。怒るなら怒ってよ! 穴兄弟なんて気持ち悪いとか、クソビッチとか言って罵ってよ! なんでそんな神妙な態度を取ろうとするの! 不公平だよ、全部が全部!」
「なっちゃん」
「もうやめてよ、その呼び方! そんなに親しげに言えるほど、あなたの中にある私ってお綺麗? 私のことなっちゃんって呼べるほど私って可愛い存在? なんでなの。いい加減現実見てよ。私はもうどうしようもないぐらい汚いの!」
ねえ知ってる? 私はそう問い質した。回答なんて、求めちゃいなかった。
「私、君とはいつもゴムつけてセックスしてたよね。毎回そう。男の義務だって私が君に言わせてさ。でも私、君が言ったあの男と生でそういうことしてんの。君とは一切そんな素振りも見せずに、平気な顔してそういうことしてたの。三日前にも会って、池袋のホテルでそういうことした。私はそういう女なの! 分かる?」
「……なあ、なっちゃん」
「なに? 言ってみてよ! 言えることが、あるのなら」
「菜摘」
俺さ。彼はそう言った。
「好きなんだよ、俺。君のことが好きなんだ。馬鹿じゃないのって思うかもしれんけど、俺は君のことが今も好きなんだよ。君は俺にとって、アイドルなんだよ。そのアイドルと一緒に居てさ……最近喋ってなかったし、別の男と会ってるって何となく分かっててもさ。もうなんか、ええやんって。それで責めて、何の得があるんだよって……そう、思ったんだよ。こんな酷い目にあってるのに、それでもさ。遠藤蓮花の生活を無茶苦茶にしたくないって、そう思ったんだよ。だから、俺は……」
俺は。そう言って、息も絶え絶えに、ほつれた言葉を紡いでいく。
「だから俺は、君のことが今も好きなんだ。でもさ、結局俺は君にどうしてやればいいんだ? 家に住むのも一向に構わない。別にもうなんか、どうでもいい。でもさ、菜摘はどうして欲しいんだよ。教えてくれよ。俺には、分かんないよ」
「助けて、下さい」
私は確かにそう言った。反射で、心の底から言葉を出した。けれども彼は何も言わなかった。言えなかった、のかもしれない。でもそれこそが、私達の終わりの合図だった。
「結局、駄目じゃん。そう、駄目。全部駄目」
「菜摘」
「助けてくれないんじゃ、そこで嘘でも。『助けてやる』って言えないんじゃ全部、全部駄目なんだ。どうしようもないんだ。取り返しがつかないんだ。結局君も、私を助けてやろうとはしないんだ。だから、だから……」
私は宣言した。この言葉こそがあの決定的な破綻直前に、私と彼との間で交わされた、最後の言葉だった。
「もし君が、この三角関係のことをどこかで喋ったら私……絶対に、死んでやるんだから」
その言葉は一切の淀みなく吐き出された。私は自分の部屋へと戻る。彼、本間敦は何も言わず、ついてもこない。
部屋には私一人が居る。他にあるのは心の空白。物の空白をいくら埋めようとしても、それは埋まらなかった。ただ心の中だけが伽藍堂で、何もなかった。
私は立ち尽くした。たった一人の部屋の中。物が溢れんとしているその中心で……私は立ち尽くした。
私は無言で、硬めのキャリーケースを掲げる。中身は空で、何も入っていない。だから私の非力な両腕でも、持ち上げることができた。私はそれを、壁に叩きつけた。
私は暴れた。棚に飾ってある綺麗なフィギュア。途中の巻までしか揃ってない流行りの漫画。アニメのDVD。映画のコレクションボックス。聴きもしないアニソンCD。全部、壊した。殴って、蹴って、足で踏んで、お尻で踏んで……壊し尽くした。手のひらからは血が出ている。足の裏も痛む。
私は部屋の中心に居た。物が全て壊されて空っぽになったその部屋。全てを壊し尽くした嵐の、風の吹かない中心点。それが今の私。
私は、大粒の涙を流した。それはゆるやかに、流れ落ちた。水ではない……もっともっと寂しいその粒が、膝の上に落ちる。
静かな涙だった。声も出ない、醒めた涙だった。
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