十九個めの、記憶の断片
私の生活は無軌道なものになり始めていた。
本間敦の家ではろくに言葉を交わすこともなく、日々の生活の営為が仕事と快楽のみで埋め尽くされる。
昼間には仕事がある。寧ろ、この頃が一番忙しかったと言ってもいい。最近流行りのラブコメディのヒロイン役で声優をやっていて、『プレ・コレ』の仕事も増えている。1stライブ『航空奇想曲』のメンバーは今やメディアで引っ張り凧だ。アニメ系雑誌の特集や漫画雑誌のグラビア撮影、果ては経済誌でも取り上げられた!
声優・遠藤蓮花の表向きの活動を見れば、その燦然たる様は人の目には眩しいものとして映り、その光に目を閉じるかもしれない。しかし、裏向きに存在する生活の方を見れば、そのあまりの不浄さにやはり、瞼を閉じて直視を避けようとするかもしれない。
私が仕事を終えるあとには……大抵、彼の店に行く。彼の経営するスポーツバーには私の指定席がある。そこは普段私が居ない時には業者の持ち込む物資を置く場所とされていて、大抵はビールケースが鎮座している。
私が来店すればそのビールのケースはどかされ、私専用の席となる。私は仕事が終わるといつもそこに座ってお酒を飲んでいた。
喉を潰すような辛いお酒は飲まない。チャームで出てくるミックスナッツを一つ一つゆっくりと齧りながら、沢山の種類のお酒を少しずつ飲む。一杯目はウィスキー・オン・ザ・ロック。二杯目以降はその日の気分次第。柑橘系のカクテルでさっとやるも良いであろうし、マンハッタンやマティーニでスノッブを気取ってもいい。たまには普通にカシス・オレンジ、もしやもしやのテキーラ・サンライズ……? 選択は自由だった。
お酒を四杯か五杯入れてから食事を取る。斎藤春也の経営するスポーツバーの食事は中々で、彼が仕事でも手を抜いていないのだということが分かる。
そうして食事を取ってから、また三杯ぐらい酒を入れる。この程度で程良くご機嫌に……かつ、二本足で歩いていく限界の領域にようやく達する。
支払いの時にはたった一言、こう話す。
「会計は、斎藤春也につけておいて下さい」
ただそれだけで全て事が済んだ。
スポーツバーの店員から私が白眼視されていることぐらい、すぐに分かった。店に乗り込んで、そこの社長の名義でツケて酒を飲む女が好かれるはずもない。少し考えれば……否、考えなくても分かるだろう。私は君たちが働いているお店の社長の、その情婦だ。
斎藤春也と会う回数もこの頃になって増え始めた。大体、週に一回程度。多ければ二回か三回、私は彼と会った。会食から始まり、結局その時間も減り、早々にホテルに入る。行為をして二回は達して、それでも終電前に私は帰ることができる。
繰り返される睦言。乱雑なその嬌声。低用量ピルも飲んでいる。生かどうかなんてもうどうでもよかった。そこに快感があれば、頭が真っ白になるほどの快感さえあれば、一時的にでも私が私であることをやめられる。忘れることができる。
ある時、彼は言った。
「俺さ、ピリ辛が嫌いなんだよ。実況者の」
「それって本間くんのことかな」
「そ。今の君の彼ピ」
「そうなんだ」
私は全く無関心だった。
「ムカつくじゃん。実況者だ配信者だって。オタクくんたちもなんか、パワーワードだなんだって言って持て囃して、馬鹿の一つ覚えみたいに同じ言葉を連呼して……」
そう言って彼は煙草を吸う。思えば最近、彼はよく私の前で煙草を吸うようになった。
ふう、と煙草の煙を吐き出す。漫画で描かれる霊魂のように、白い煙が口から出る。
「だから俺、大嫌いなんだよね。ああいう奴が成功してるとか、芸能人みたいに扱われる風潮が」
だから。彼は語り始める。
「これは復讐なんだよ。俺……斎藤春也の考える、ゲーム実況者ピリ辛に対する復讐。今ようやくそれが成ったってわけ」
「なんか、意外だね」
「何が?」
「君が、さ。春也くんがそういう、他人に強い感情を想起させられるっていうか、そういう感情の動作みたいなものがあるのが、意外」
私が言うと、彼は笑う。まるでそれは嘲笑のようであった。
「そりゃあ、俺にだって感情はあるよ。ただそれを上手く隠して、ごまかしているだけさ。人には見せたいところ、見せたくないところ、見せるべきところ、見せるべきでないところがあるのさ」
例えば君も。彼は言う。
「声優、遠藤蓮花が見せるのはきらびやかな、綺麗な部分だ。可憐な声、華美な歌、流麗なダンス。精巧に作られた、計算された笑顔。それが君の見せるべきところであり、見せたいところだ」
「ま。実際に今こうやってホテルの一室で君に抱かれているところが知れたら、炎上どころの騒ぎじゃ、ないだろうね」
「まあ、そういうことだよね。誰にだって見せたくないところはあるものなんだ。それを見せようって時には、話す相手をよっぽど信用したか、或いはその人がよっぽど不用心なのか。そのどちらかしかないんだよ」
彼はそう言って灰皿で煙草の煙を潰し、消す。冷蔵庫に入っている有料の缶ビールを開け、それを飲む。そうして彼はこう質問する。
「もっかいする?」
私は答えた。
「する」
私の生活はこのように、乱れ果てている。
けれども、私のキャラクター。私の演じるキャラクターたちはそうではない。彼女たちは綺麗なままだ。その純潔性は汚されない。ゲーム『プレーン・コレクション』のシュペルエタンダールは完全なままだ。あまりに、あまりに美しすぎて、もはや私には直視できない。シュペルエタンダールというキャラはより輝きを増していく。その純粋さは今こうして私の生活が箍を外れ、無軌道になっていけばなっていくほどに研ぎ澄まされていくような気さえした。
私は考えた。
キャラクター、シュペルエタンダールの純粋さ。コンテンツのその純潔さこそが、人々を。そのファンも、そして関係者を。それを演じる声優や、関わる人々を狂気に走らせているのではないか?
その高潔さ。純粋な様。そうした物々の眩い光を前にした時、ただの人間でしかない私達にはそれこそ、満月の夜に狂奔する怪物のように、狂気に侵される以外の処方が存在しないのではないか。
私は考える。
数年前にあった悲劇的な大事件。私が声優を志す根本的な理由になったあのアニメの制作会社が放火にあった。これは悲惨な事件だった。このために関係各所の様々な人々が動いているのを私は見た。ファンとの距離が近いアイドルがファンに刺されたというニュースもあった昨今においては私にも他人事ではない。
その放火犯が愛好していたアニメは、そのアニメ会社が作った新しい部活物のアニメだった。私は資料としてこのアニメを見て、その出来に感動した。そのアニメは清純、清冽極まるもので、要素として存在する汚濁さえ、その清らかさに奉仕するために計算し尽くされた上で描き上げられた、アニメーションの一つの究極系があった。しかし、それこそが、その作品の清冽さ。完全さ。一点の曇りもない情景にこそ彼は敗北し、打ちひしがれ……その帰結として彼は狂奔、したのではないか?
私にはそう思えてならなかった。これは私の考えだ。現実で口にするなど、恐ろしくてできることではない。けれども、これこそ私にとっては他人事、ではなかった……。
この頃の私は気力を失いつつあった。
あれだけ熱心に研究していたアニメも、かつて愛好していた映画も、手元には揃っているのに観る気が起きない。観れば私はそれを研究せざるを得ない。研究すれば自分の立場を思い出す。そのどうしようもない逼迫した立場が想起され、私は心を苛まれる。
だから私は、あのアニメを観ていた。
あの、私が人生で初めて出会った『可憐』そのもの。それを具現する美しいアニメーションを私は繰り返し視聴する。
このアニメーションの第二期には、全能の力を持つ主人公が、夏休みのその楽しさのために、夏休みを永久に何度も何度も繰り返すという回を八回繰り返しで放送した。この冒険的な作品構成については賛否両論別れており、愛好者である私自身であっても繰り返しの視聴には無理があると初視聴の時には感じた。
しかし今ではそれも平気だった。暗い部屋の中で、テレビモニタの光だけが燦々と輝いている。そこで展開されるのはあの美しい営為。光彩陸離たるその天頂。
そう言えば。私は思う。
このアニメの主演。私がかつて憧れていたアイドル声優は、声優業そのものから距離を取り、今は演劇をやっているという。その直前にはテレビでの露出が増え、ネットユーザーからの反感を買う場面もあったが、それでも彼女は自分のやりたいことを貫き通している。そうした事情を知っていても……つまり。私の憧れの存在が今や業界とは遠い人物であると知った上で尚、私は声優を志した。
しかし。彼女のその現在について今は別の解釈をする。それはつまり、私。声優・遠藤蓮花が声優をやめ、何か別の仕事につくということも考え得るのではないか、という考えの前提の土台に彼女が座るのだ、という妄想にも近い考え……。
私はその思案を一笑に付す。
私が声優をやめる? そんな、馬鹿な。
そんなことをしたら本当に、私には何も残らないではないか。
私には何も、ない。声優を目指して、声優になって、声優としてライブもやって……やっと他の役も、できるようになって。それなのに何故、私が声優をやめねばならないのだろう。
これはグロテスクな妄想だった。
全てを暴露して、アニメ史に悪い意味で残るようなやめ方をして、そうして誰か……シュペちゃんをファナティックに愛好する誰かしらのファンに刺され、内臓に不可逆の傷を負い、死ぬ。
その陰惨きわまる死に様こそが、今の私には、相応しいもののように思えてならなかった。
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