十八個めの、記憶の断片
本間敦と私の関係性には既に、出会いの時点で衰退の徴候が見えていた。その単純さ、純真さに対する恋慕は別の彼。斎藤春也への当て付けであったのかもしれない。そうした感情、情動の操縦方法のようなものを私は思春期に身に付けることができなかった。少年期に得るべきものを得られなかったという過失を青年期に知ったとして、それはどのようにすれば取り返し得るのであろうか? そうした疑問に対する回答を得ようとするには、私はまだ若過ぎた。
あの日。高尾山口駅近くのホテルで私と斎藤春也が性行為をしている間……本間敦はゲームをプレイしながら耐久顔出し配信をしていた。
あの日。斎藤春也の妻・斎藤百花が私のもとに訪れ、忠告をした時に……彼、本間敦は『トーナメント・リーグ』日本大会の打ち合わせのために家を出ていた。
こうした理由から彼を責めるべきではない。彼は仕事をしていただけだ。よくある陳腐なメロドラマみたいな感情を抱くべきではない。そう、つまり『仕事と私、どっちが大事なの?』って。馬鹿馬鹿しすぎて笑えてくる、そんな心理。
言ってしまえば私の思うところ、実際の感情というのは、悲しげで陳腐なドラマよりも、もう少し複雑なものだった。
彼と話す時、私は常に優位に立てた。それは彼が経験の少ない初心な『オタクくん』だからだ。私は彼のその精神に自らの演じるキャラクターのファン層と同じものを見出していた。秋葉原に訪れる人々の具現、その実像を彼から私は感じ取っていた。
口を開けばゲームの話。目をきらきらと輝かせて、燦々とした光を放っているかのように口に出される、ゲームの話。アニメの解釈はどこかのSNSで拾ってきた聞きかじり。映画の話なんて出来ようもない。彼は画面が白黒だと言うだけで古い映画が観られない。
兆しを見せていた退廃はあの日の後の私と本間敦との会話で、決定的なものとなる。
彼は夜十時頃に帰宅した。酒が入っているようだった。私と一緒にどれだけ居酒屋に行っても、彼は体質なのか気質なのか、酒に弱かった。アルコールパッチテストは問題ないと言っているから、きっと彼は気分で酔えてしまう類の人間なのだろう。
彼が帰ってきた時、私は普段家で取っている宅食を温めて食べようとしていた。寒々とした、物の少ないダイニング。その生活感のなさ。空白がある感じを私は未だに覚えている。
彼は言った。
「今日は全く大変やったよ」
私もそうだ、とは言えない。彼が言えば本気で心配し、ついでに動揺して何か騒ごうとして……結局、何も出来ないだろう。他人に話して、気が晴れる類の話題でも、ない。
「お疲れ様。今日は打ち合わせだったよね」
「そうなのよ。『トーナメント・リーグ』日本大会の件でなあ」
「あのテのゲームの大会が日本で開かれるなんて、すごいよね」
「そう、そう。大事なところよな。日本での『トーナメント・リーグ』のこれからを決める、つう感じでな!」
「そりゃあ、大変な仕事だ」
そう言った時点で私は宅食を食べ終えている。
「おやすみ、本間くん」
私はそそくさと……一人暮らしだった頃にそうしたように、食器全てを綺麗に片付ける。彼は私が座っていたその反対の位置の椅子に座って、顔だけをこちらに向けている。私はその意図を半分だけ理解した。
私は足早に自室へと戻った。彼は私を追いかけるが、部屋の前で制止する。彼は言う。
「なあ」
私は彼が言葉を言い切る前に、叫ぶようにこう告げる。
「今日私、生理だから!」
嘘だった。如何に性の事情に疎い彼であったとしても、これが嘘だと言うことぐらい、理解出来ただろう。けれども彼はたった一言だけ……。
「さよか。すまんな」
それだけ言って、彼は自室に戻った。思えば私が、本間敦との性行為を、本当の意味で拒絶したのはこれが初めてだったように思う。
しかし、たったそれだけ。そのたった一度の拒絶があったがために、私と彼。本間敦との性交渉は完全に消失した。
事実上の家庭内別居。私と彼との関係性はこのように変化した。それでも彼が私に何か圧力をかけたり、家を出ていけとも言わなかったのは、彼自身がきっと私を愛していてくれていたからなのだろう。そしてそれを理解していながら私は、彼を愛する努力を怠ったのだ。こうした一連の、私という人間の生活の破綻の原因の殆どは他者にではなく、自分自身にあるのであろうというぐらい、私にも理解ができる。それでも結局、それだけ考えていても、破綻は免れなかった。或いは私は、今までの報いをこうした形で身に受けることこそが、今の私の責務だったのではないかというような妄想さえ容易に成り立った。
彼と私との間にあった縁は、ほぼ途切れた。後には、私の手には負えない、始末に困る莫大な時間のみが残された。
家庭内別居の中で展開される生活には独特な空気がある。互いが互いの存在を認識しているのに。互いに顔を見るし、その生活の残滓はありとあらゆる場所に存在しているのに、私と彼は会話を交わさない。最低限の生活上の必要に迫られた時だけ、秘密結社の暗号のような、極端に短い会話が交わされる。不思議なことに、この短い会話の中でのみ私と彼との間に阿吽の呼吸のような、どこか気が合うような感じがするようにも思えた。しかしそうした相互理解がこの時になされたとして、それが一体なんだと言うのか。
そうした日常の中にある空白を埋めるために、私の浪費癖は悪化の一途を辿った。明らかに必要がないであろう通販グッズが毎日、毎日通販サイトから宅配業者を通じて配送されてくる。私はそれらの箱を開けることさえも半ば放棄した。
ある時彼は、言葉少なにこう言った。
「最近、物買い過ぎと違う?」
私は答えた。
「君には関係ないでしょ」
その酷薄な言い回し! 言葉端からにじみ出るその冷たさに、私の心まで冷え込んで行くような感じがした。
この時の私に収入があったのだけが救いだった。そうでなければ私のクレジットカードは限度額一杯まで借り入れられ、後の人生にまで大きな影響を及ぼしたであろう。
こうした集められた無駄遣いのための品々の一品一品が安いことのそもそもの理由が、私自身の趣味の狭さ。自己の希薄さに起因していたことすら皮肉で、私は私自身のその薄っぺらさのために生活が破綻し、その薄っぺらさのために人生そのものの破綻から逃れることができたのだ。
私の手元には、多数のグッズと、沢山の時間だけがある。
隣の部屋では本間敦がピリ辛の名前で配信をしている。実況動画を撮っている時もある。そういう時にはいつもよりも静かにするよう努力している自分が居て、何やらそれが酷く間抜けだった。
そうした日常の空白の中で、私は一人考える。
彼。本間敦は『プレーン・コレクション』をプレイしたこともないし、好きでもない。なのに私に、シュペの演技を求めることがあった。時には、シュペを演じながら、本来のゲームには存在しないような淫蕩な言葉を囁いたりもした。しかし私は、そうした営みの中で自己の心の底から浮かび上がる言葉を抑え込むので必死だった。
「シュペちゃんはそんな子じゃない」
その言葉を封じ込める必要もない今になって私は、浮かび上がるその言葉に対する返答をしようと考える。
ゲーム『プレーン・コレクション』のシュペルエタンダールにはいわゆる、ガチ恋勢と呼ばれる人々が居る。彼らはキャラクター、シュペルエタンダールを実在の相手のように取り扱い、その解釈が一致しないと見るやいなや、壮烈な攻撃を仕掛けようとする。彼らは自分こそがもっともシュペちゃんを愛しているのだとそれぞれが自負していて、実在の現実における恋人どころか、恋も愛も知らぬままにシュペルエタンダールという一キャラクターを愛している。
私は考えた。
ファンという言葉の語源はファナティックに由来する。この言葉を名詞として使う場合には狂信者。動作として使われる場合には熱狂的という意味合いで使用される。この言葉の意味について私は考えを巡らせた。
シュペルエタンダールはキャラクターだ。その偶像には、一点の陰もない。彼女の陰影をくっきりさせるためのありとあらゆる陰すらも、彼女の美しさ。彼女の一点の曇りもない完全さに奉仕するために存在している。故に、キャラクター・シュペルエタンダールは完璧だった。
私にとってのシュペちゃんも、そうだった。だから、心の中に居る自分以外にあり得ない誰かがこう叫ぶ。
「シュペちゃんはそんなこと、言わない」
「シュペちゃんはそんなこと、しない」
けれどその声の主。シュペルエタンダールというキャラを構成する主要要素の一部である私は、これほどまでに汚れている。三角関係に身を置き、しかもその上この関係は今や破綻し始めている。
心の中の私が、叫ぶ。
「どうしてシュペちゃんだけが、シュペちゃんのままなの?」
私はそう自分に問い質す。けれども誰も答えを返さない。その疑問は宙に浮かび、霧散し消え果てる。
考えることさえ必要ない。私は確信する。
今の私は『泥中』に居るのだ。確かにそう思った。もうこれ以上どうしようもないくらいに足掻いて、足掻いて……そして、足掻くことさえ出来なくなった。一つの物語の帰結、破綻がここにはある。それ以上考える必要なんてもはやどこにもないのに、私は考える。今や時間こそが私の最大の敵だった。この敵に対し有効なのは、それらを浪費するために思案をするということ、ただそれのみだった。
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