十六個めの、記憶の断片

 山手線に乗って、新宿駅へ。

 新宿駅から京王線に乗り換え、そのまま電車で揺られて五十分弱。

 窓から見える風景が、都心から遠ざかるにつれ高層ビルが減り、住宅ばかりの平坦な図となり、それさえも途中から幾らか畑のようなものが見え隠れするようになる。このような過程の先に、目的地である終点・高尾山口駅がある。

 私は未だに彼。斎藤春也と会い続けている。

 何故だろう、と思う。自分でもそう思う。

 別れたい、と思う瞬間もある。けれどもそれは彼と会っていない時に……例えば、声優としての仕事をしている時。何かの打ち合わせをしている時にふと、よぎる。外を歩いている時に出会った知り合いが挨拶してくるような、そんな調子で別の私が、私にこう問いかける。

『別れなきゃ駄目なんじゃないですか』

 私は答える。

「別れなきゃ駄目、なんでしょうね」

 私がそう答えると、もう一人の私は黙り込む。普段、私自身を責め立てる時には饒舌に自己否定の言葉を並べて見せるのに、この時だけはだんまりを決め込む。私自身の、私自身に対する小ずるさを垣間見たような気がしてしまって嫌になる。

 彼は大抵、待ち合わせに少し遅れてくる。早く来たとして、待ち合わせの五分後。これは誤差として、遅れる場合には二十分は遅れて来る。その行為自体が、彼自身の計算からなされているのだということも、私は理解している。私が彼を待つ間、私は彼のことを想う他なくなるからだ。

高尾山口駅前で、私は彼を待つ。都心のあの何かすえたような臭いとは違う、清廉な空気がここにはある。駅前には温泉施設があり、途中には幾つもお蕎麦屋、甘味処等があり、訪れる客の数も多い。その大半は老人で、訪れる人の殆どは何か健康的な色合いを持っていた。

「やっほー。菜摘ちゃん」

 彼は来た。その姿を見てほっとしている私が居るのが嫌だった。

「寒い時期に外で待たされるのは、何だかとっても侘しいんだ」

「何やら文学的な物言いだね」

「私、文学とか分かんないですけどね」

「そりゃあいい。新宿のゴールデン街なんかに行くと、文学やってるヨって奴と話をするんだけどさ。奴らは本当に陰気だから」

「そうなの?」

「そ。あと哲学って奴は話がしづらいね。次から次へとよく分からん専門用語並べ立てて、酔っ払ったら自分の好きな哲学者の名前を叫んだりするんだ」

「へえ」

「そんでね。文理関わらずインテリっていう奴は女にいいカッコ見せたがるもんなんだ。けれど文系の最たることと言えば、何とかして女を口説こうとする」

「それは例えば、どんな風に?」

「一番面白かったのはこうだ。『君は完璧な女性だ。ただ一つ欠点があるのだとすれば、それは僕に惚れないことだ』だって!」

「うわあ。なんかその人、かわいそうな感じですね」

「そ、そ。その人は分からなかったんだけど、別の人が『その言葉は有名な文学者の何とかさんのパクリですよね』って言って、そいつ明らかに動揺してんの」

 そう言って彼は笑う。私も、嗤う。

「寒い思いをさせてしまって、ごめんね」

 気軽な調子。私も変わらない。

「いいよ」

「今日行くところは露天風呂がついてるんだ。もう予約も取ってある。すぐにお風呂を用意しよう」

 何から何まで準備し尽くされている。嫌になるほど完全だった。

 高尾山への来訪者の大半が登山に行くのに対し、私たちは違う。高尾山口近くにあるホテルへ行くのだ。

こういう山間にあるこのような施設は、都会の施設に漂うあの生臭い雰囲気よりも、学校の体育館裏。或いは、体育用具を収容する部屋のような……擦れた、乾いた感じがする。彼。斎藤春也は、あの不慣れな……その不慣れさをそのままにしている本間敦とは違う。

入って早々、熱意の迸りから乱暴にキスするようなこともしない。鼻息が荒くなることもない。良い食事を取る時も、安い食事を取る時にも変わらず、計算高くスマートに事を為す。

 部屋には何かよく分からない虫が居た。私が見つけるよりも先に、彼はそれを手で取り、つまんで外に捨てる。

お風呂場のセッティングまで全部自分でやる。あまりに手際が良いので私が介入をする余地すらない。私は携帯を弄って、何となくシュペルエタンダールと検索欄に入力する。新しく実装されたシナリオの感想が大半を占める。

『シュペ氏は湿度が高い』

『シュペちゃんの感情の動作で俺達はもうボロボロ』

『他の奴は知らん。俺にとってはシュペなんだ。それ以外ない』

 不思議な感じだった。

 キャラクター……シュペルエタンダールを演じているのは私。でも、ここで語られるシュペルエタンダール。シュペ氏、シュペちゃんという存在は何か、他人のような気がしてしまう。

そもそもシュペルエタンダールは人でさえない。シュペルエタンダールはキャラクターだ。私が演じ、そして私を通じて表現された一つの、美しいキャラクター。私のたった一つの代表作。そのゲーム『プレーン・コレクション』の栄誉の一翼を私は担っている。

「なあ、生で試してみない?」

 彼。斎藤春也はそう言った。

「馬鹿じゃないの。それとも何、永久就職?」

「それこそ馬鹿な」

 馬鹿なのはあんたじゃないか、と思った。けれど、口にはしない。

「大丈夫。数日内に行けば間に合うから」

「珍しいよね。そういうなんか本当……馬鹿みたいなこと言うのって」

「まあ、自信があるんだよね。ちょっと」

 彼と私は結局、そういうことをした。部屋のその中が暗くなり始め、二人の深い吐息に埋もれゆくにつれ、彼の言っていたこと。自信がある、という言葉の意味を文字通り私は身体で理解した。

 彼の体力は無尽蔵なのではないかと思った。彼はこの晩、四回に渡って私の中に出した。

 そうした一連の行為が終わった頃、既に時間は日を跨ぐか跨がないか、といった状態になっていた。彼が先にシャワーを浴びる。その時間は短かった。シャワーを出た後の彼はバスローブを着ている。

 私もシャワーをする。

 風呂場にある鏡を私は覗き込む。服さえあれば容易に隠せるであろう位置に、いくつかの爪痕とキスマークがあった。それを見て私は初めて、斎藤春也とゴム無しで性行為をしたという実感を得た。

 シャワーを終えて、彼と同じくバスローブを着て出た私に対し、彼は言う。

「流石に疲れた。もう寝るよ」

「うん、おやすみなさい」

 言うが早いか、彼は早々に眠り始める。

 私は彼のその寝顔を見る。じっと、それを見つめる。すると、私の心中にこのような考えが浮かぶ。

 何故私は駅前で、彼を待ち遠しく思ったのであろう。あれだけ待ち遠しい、早く来てくれないかと思ったというのに、今は何故この男のことを待ち望んだのか、皆目見当がつかない。そこには無益なただ一つの肉の塊が眠り、転がっているのみだ。

 私は、眠りこける彼を横に置いて、携帯を弄り始める。さっきとは違う。今この状態で、ファンの……オタクたちの、シュペちゃんに対する言及を目にしたくはないと思った。

私はイラスト投稿サイトにアクセスして、シュペルエタンダールのイラストを調べる。華麗、清純極まるイラスト群がそこにはある。傘を差しても、晴れ間に居ても、シュペちゃんは清らかな偶像であった。

 私は嫉妬した。

 何故、シュペルエタンダールはこのように美しく、清冽なのであろうか。私がこれだけ汚れて、現実に肉体をもって日常生活を営む必要性があるのに。私、声優・遠藤蓮花とキャラクター・シュペルエタンダールはあれだけ近付いて、あれほどまでに彼女を。シュペルエタンダールを構築せしめたというのに、何故彼女が、シュペルエタンダールだけがこのように美しいままで居続けられるのだろう。

彼女は。シュペルエタンダールは美しかった。彼女は私の心の中に居て、その情景には一点の曇りもない。あまりに美しくて、美しくて……私は涙を流した。悔恨の情が私を支配する。

「私は汚れてるけど、シュペちゃんは綺麗なままなんだね」

 誰に言うでもなく私は、そう一人つぶやいた。

 シュペルエタンダールを演じることができるのは私だけ。そう思っていた。それは今も変わらない。けれど、シュペちゃんだったら私みたいなことは絶対にしない。それも同時に、確信できた。

次の日の朝。先に起きていた斎藤春也は、行きとは違うバッチリと決めたスーツ姿でインスタント珈琲を飲んでいた。

「今日この後、商談があるものだから」

「そっか」

「でも、朝一緒に居るぐらいの時間はあるよ」

「うん……あのさ」

「なんだい?」

「キミのスーツ姿、やっぱり格好良いね」

「ありがとう」

 そう言って彼は微笑んだ。

 彼と私は高尾山口駅で別れた。彼はJRの駅を使うらしい。

 その後私は一人、ラッシュを過ぎた午前中の京王線に揺られながら、近所にある産婦人科の病院の場所を携帯で調べた。

「本間くんにもメールを入れて……」

『ごめん、今日はちょっと遅くなるね』

 メッセージが送られる。そうした根回しに、大人のフリをしているような感じがあって、気持ちが悪かった。

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